18.行楽日和
私とアラドが夫婦になってからの日々は、幸せに満ちていた。
なにか特別なことをしているわけではない。
一緒に朝を迎え、一緒に食事をとり、一緒にお茶や庭手入れをし、一緒に眠りにつく――ただそれだけの何気ない日常を送っているだけで、私は至福の時間を享受することができた。
そんなある日のことである。夏が終わり過ごしやすい時期となった今日この日に、私たちは四人揃って行楽に出かけていた。
目的地は、王都の城壁を出てすぐ近くにある大きな池だ。
その池は農業用貯水地として人工的に作られたもので、森林に囲まれた自然豊かな場所でありながら道が整備されており、隠れた観光地になっているらしい。
そして実際に到着してみると、そこには壮観な景色が広がっていた。
青々と輝く大きな池は鳥たちの憩いの場になっており、木々の開けたほとりには一面に花が咲き誇っている。まるで、おとぎ話に出てくる楽園だ。
馬車を降りた私は、アラドの手をとり子供のようにはしゃいで花の群生地に足を踏み入れていた。
「凄く綺麗! 城壁の外にこんなところがあったのね」
「この貯水池はファルマン家が管理してるんだ。それで小さい頃に何度か来たことがあってさ。僕も気に入ってる場所なんだ」
「空気もおいしくて素敵な場所。こういうのどかなところで暮らすのも悪くなさそうね」
そんなふうにしてロケーションを堪能した後、私たちは近くの木陰に入ってランチを楽しんだ。
ブレダとシュミットは食事とお茶の準備に随分と気合を入れたらしく、馬車からは丸テーブルと椅子が飛び出し、食器まで普段の愛用品が出てくる有様だ。
お陰で食事には満足できたが、こんな場所でもふたりが忙しく働いている姿を見ると、少し心苦しく思えてしまった。
せっかくの機会なのでブレダとシュミットにもゆっくりしてもらいたいのだが、ふたりに言わせれば働いていないと落ち着かないらしい。
しかも、手伝おうとするとブレダが怒るのだ。その律儀さには呆れてしまう。
そこで私とアラドは、ある作戦を講じた。
池に備え付けられていた観光用の手漕ぎボートに乗って遊んでくるという体で、ふたりから距離をとったのだ。
こうすれば、ブレダとシュミットは私たちに気を遣わなくて済む。少しはゆっくりできる時間が確保できるだろう。
とまあ、それも目的のひとつではあるが、結局のところ私とアラドはふたりきりになりたかっただけかもしれない。
きっと、ブレダとシュミットもそう思い込んでいるだろう。
そんなわけで、私たちの乗ったボートはアラドが漕ぎ手となり、ぐんぐんと岸から離れていく。
他の観光客も見当たらないので、池の中央まで来てしまうと完ぺきにふたりだけの空間が出来上がった。
ここまで人気がないと、まるで水没した世界で生き残った最後の人類になった気分だ。
遠くの岸で手を振るブレダの姿は、小さすぎてもはや人形のように見える。
「これで、あのふたりも少しはのんびりできるかしら」
「そうだね。せっかくだし、しばらくこのままでいようか」
そんな言葉を交わし、ボートの上で向かい合った私とアラドは目を合わせて微笑みあう。
このまま愛を語らい合ってもいいのだが、私は少しだけアラドと話したいことがあった。
こんな時に話すべきことじゃないかもしれないが、いずれ話さなければいけないことだ。
そう思い、私は何気ない雰囲気を装って話を振ってみる。
「今日ここに来ようって提案したのは、思い出作りのため?」
「まあ、そうなるのかも。こうして出かけられるのも、今くらいだし」
「そうね。もうすぐ、戦争に行かなきゃいけないものね……」
私の言葉に対し、アラドは視線を落として暗い表情を見せる。
実のところ、私たちが出会った頃くらいから、近いうちに魔物征伐が行われるという噂が立っていた。
近年、北部の山岳地帯で魔物が人間の地まで降りてくる事件が多発しており、女王陛下がそれを重く見ていたのだ。
そして、一週間前に正式な遠征軍の派兵が決定し、現在は各諸侯が兵や物資をかき集めている状況だ。
もちろん、騎士であるアラドにも招集の声がかかっている。
そんな時に行楽とは、のん気すぎると思われても仕方ないだろう。
だが、今のうちに少しでも思い出を作っておきたいというアラドの気持ちは、痛いほど理解できた。
「もちろん、死にに行くわけじゃない。戦功を挙げて帰れば、女王陛下から恩賞が出る。領地が貰えるかもしれないんだ」
「ええ、夢のような話ね」
私は、自分でもどんな表情を浮かべているかわからなかった。
「君と僕が力を合わせれば、魔物なんて怖くないよ。だって、あのハイン兄さんが戦場で活躍できたんだよ? それに勝った僕らなら余裕さ」
「ええ、そうね」
話を振っておきながら、そっけない態度をとるのは自分でも嫌な女だと思う。
それでも私は、気弱で優しいアラドが戦争にやる気を出している姿に、どこか不安を抱いていた。
「戦争なんて行かずに、こういう土地でのんびり暮らすことはできないのかしら……」
そんなの無理に決まっているのに、私はなにを口走っているのだろう。
「きっと、僕らが思っているほどそういう生活は楽じゃないよ。こんなふうに、僕らが仕事もせずに暮らしていけるのは、いざという時に果たさなきゃならない責務があるからさ。戦場に出るのは、騎士の務めだからね」
私だって、それくらいのことはわかっている。
私がロワール家から絶縁されたことで、私たち夫婦は政略結婚という意味合いを失っている。それでもファルマン家がアラドの生活を支えているのは、来る戦争で騎士として戦い、そして戦死によって名誉を得ることを期待しているからだ。
その不幸な定めを覆すには、戦死ではなく戦功で名誉を掴み取るしかない。
私はアラドを好きになったその時から、加護の力でそれを成そうと決意していた。
「もちろん、私だって戦場に行く覚悟はできてる。私たちが力を合わせれば、相手が誰であろうと勝てる自信だってある。なのに、私は……」
「やっぱり、怖い?」
死と隣り合わせの戦場に行くのが怖いのは事実だ。
だけど、私の感情はもっと複雑な気持ちが入り混じっている気がする。
しばし間を置いてから、私はその気持ちを自分の中で整理しながら口に出してみた。
「私は、アラドと出会って、こうして夫婦になれて、もうどうなってもいいと思えるくらい、今が幸せなの。だから、たとえ戦場で死んでも悔いはない、と思えてしまう自分が恐ろしいんだと思う……」
すると、アラドは弱々しい笑みを見せる。
「その気持ち、なんとなくわかるよ。死んでもいいと思えるくらいの幸せ……僕らは今、それを享受していると思う。夢の中にいるみたいにね」
だけど、これは夢じゃない。覚めることなんてない。努力を続ければ、きっと私とアラドは幸せなまま添い遂げることができる。
なのにどうして、自分からこの幸せが儚いものであるかのような錯覚をしてしまうのだろう。
――もっとも大きな不幸とは、今ある幸せが失われることだ。
ふと私は、決闘騒ぎの時にアラドとの破局を意識して見出した言葉を思い出した。
あの時は、身に過ぎたる幸せを得ないことが不幸にならないための解決策だと思い込んでいたが、今の私はもう一つの解に気づいてしまった。
それは、この幸せを抱いたまま死んでしまうという方法だ。
死んでしまえば、それ以上不幸になることはない。幸せの絶頂にあるうちに華々しく散ってしまえば、私の人生は幸せなまま完結することができる。
戦争という命の駆け引きを前にして、私はそんな解があることに気づいてしまった。
それは間違っている。絶対に間違っている。
そう自分に言い聞かせても、戦場で笑みを浮かべながらアラドと共に朽ちる姿を想像してしまう。
それが恐ろしいことだとわかっていても、想像の中で死体となった私は嬉しそうに微笑んでいるのだ。
「怖い……」
気づけば私は、アラドに抱きついていた。
いつものような甘えではない。本気で体を震わせ、いもしない怪物に怯える子供のように、アラドに縋っていた。
そんな私を、アラドはただひたすら優しくさすり続けてくれた。




