17.初夜
華々しい結婚式も、終わってしまえば何気ない日常が戻ってくる。
式にあれだけ観衆が集まったとは言え晩餐会まで開くつもりはなく、邸宅に帰ってきた私たちはブレダとシュミットが腕によりをかけて作ってくれた豪華な夕食でささやかなお祝いを続けていた。
ただし、そんな席でも私とアラドはほとんどお酒に口をつけていなかった。
「あれ、奥様今日はお酒を飲まれないんですか? 旦那様もほとんど飲まれてないですよね?」
と、すでに私たちの呼び方を改めたブレダは、なんの悪意もなくお酒を勧めてくる。
私は普段からそれなりにお酒を嗜むので、祝いの席なのに飲まないでいることに違和感があるのだろう。
しかし、その理由を具体的に説明するのは、やはりはばかられる。
「ええと、今日はいいの。気にしないで」
「今日は色々ありましたもんね。お疲れのようでしたら、先にお休みになられますか?」
そうじゃないのよブレダ。と、私は心の中で頭を抱える。
助けを求めるようにアラドへ視線を送ったが、彼も彼で異様なくらいにそわそわしている。きっと、今晩のことを気にしているのだろう。
対してシュミットはすべてを理解した様子で、それとなくお酒を下げてアラドに笑顔の圧を送り続けていた。
そんな時間がしばらく続くと、アラドはまるで世界を救う覚悟を固めた勇者のように勢いよく立ち上がり、私に熱い視線を向けてきた。
「な、なんだか顔色が悪いね。疲れてるだろうし、今日は早めに休んだ方がいいよ。うん、その方がいい。僕が部屋まで送るよ。それも夫の務めだからね」
「えっ、でしたら介抱は私が――」
「自分たちは片付けをしておきます。おやすみなさいませ」
ブレダの横やりは、シュミットのフォローによってすかさず遮られる。
と言うか、いくらなんでもブレダは鈍すぎだろう。昔から浮いた話を聞かない純真無垢なメイドだったが、『初夜』の意味合いを知らないわけではないと思う。
恐らく頭から抜け落ちているだけだろうと信じ、私は苦笑いを浮かべる他なかった。
それから逃げるように食堂を飛び出した私とアラドは、なんとなく廊下で顔を見合わせる。
アラドが緊張しているのは一目でわかった。
式の時はあんなに凛々しかったのに、ここまでおどおどしているアラドを見るのは久しぶりだ。
そんな姿を見せられると、どうにもからかいたくなってしまう。
「それじゃあ、私の寝室まで送ってもらおうかしら。それとも、なにか私にご用がある?」
「ええと、その……」
クスクスと微笑んだ私は、近すぎるくらいにアラドの顔を覗き込み、優しく声をかけてあげる。
「アナタの困った顔、かわいらしくて大好き。だから、ついつい冗談を言いたくなっちゃうのよね……そんなに意気込まなくても、私は素直な言葉だけで十分なのに」
すると、アラドは静かに深呼吸をして苦笑いを見せた。
「やっぱり、君にはかなわないや。そういうところも含めて好きになったんだけど、男としてはちょっと悔しいかな」
「あら、私だってアナタに甘い言葉をかけられたら簡単にほだされるのに。試してみる?」
この人は、これくらい誘ってあげないとダメなのよね――と、私はまるで世話を焼くような気持ちでアラドの顔を見上げる。
だけど、その認識はたぶん間違っているだろう。
世話を焼いているのではなく、世話を焼きたくなるという認識が正しいと思う。アラドが魅力的だからこそ、私は彼を誘いたくなってしまうのだ。
そしてアラドは、そんな私の気持ちに素直に応えてくれる。
「今晩は、君と一緒にいたい。君と離れたくない。君と――」
その先の言葉は形で示すと言わんばかり、アラドは私の唇を奪う。
そして私も、答えは言葉でなくキスで返してやった。
それから私たちは言葉を交わすことなく、まるで吸い寄せられるかのようにアラドの寝室へと足を運んだ。
私にとっては初めて入る部屋だが、寝室なので大きなベッド以外には小さな丸テーブルと収納家具くらいしか置かれていない。
普段は就寝するしか用途のない部屋も、今日のような日に男女ふたりで入ると意味合いが大きく変わってくる。
それを意識すると、胸が高鳴り体がこわばってしまった。
そんな室内で、私たちは椅子があるにもかかわらずベッドに並んで腰かける。
そうして、少しだけ無言の時間を共有した。
私とアラドは、今まで色々な無茶をしてきた間柄だけあって、そこまで教条的な方ではないと思う。
それなのに初夜まで体を重ねずにいたのは、きっとお互いに勇気が持てなかったからだろう。私もアラドも、きっと一線を越えるのが怖かったのだ。
だが、結果的に今日という特別な日に初めてを捧げられるのは嬉しく思えた。
きっとこれが、私たちが越えなければならない最後の一線なのだろう。
恋をし、結婚し、身を重ねる――そうして、私たちは夫婦になる。いや、ようやく夫婦になれる。
それを思うと、胸の奥から幸せがこみ上げてくるような心地がした。
とは言え、不安や緊張があることに変わりはないので、私は落ち着くために軽く話を振ってみた。
「ブレダがお酒を勧めてきた時は焦っちゃったわ。あの子、鈍いというより今夜のことを忘れてるのねきっと」
「今夜ばかりはお酒の勢いで、ってわけにはいかないからね。だけど、僕はなんだか酔ってるみたいに頭がぼうっとするよ」
「あら、アナタはいったい、なにに酔ってるのかしら」
「そういうことをわざわざ聞くのが君の悪いクセだ」
「フフ、私はちゃんと言葉にしてほしいの」
すると、アラドはこれが答えだと言わんばかりに私の腰に手を回し、体を寄せてくる。
どこか正気を失ったようなアラドの瞳を見ていると、彼が私を求めていることは十分すぎるくらいに伝わっている。
それでも私は、言葉にしてほしかった。
「ねえ、アラド――」
だが、言葉を求めようとする私の口は、アラドによって塞がれてしまう。
そんないじわるなキスで、私の体はいとも簡単に支配されてしてしまった。
心では言葉を求めているのに、体はアラドを求めて縋るように唇を重ねていく。
小さな湿った音が何度も奏でられ、荒くなった互いの息遣いが暗い部屋に響く。
今なら、はしたなく恥ずかしいという気持ちさえ、どこか心地よく思える気がした。
そんな私たちにとって、もはや衣服は邪魔な布切れでしかなかった。
「アラド――」
私が言葉を求めようとすると、また口をふさがれてしまう。
遮られた言葉は鼻にかかった声になり、キスの合間からこぼれる。
そんなアラドの強引さに支配され、私はどんどん乱れてしまう。
愛してほしい、満たしてほしいという欲求が膨れ上がり、全身の皮膚がアラドとの接触を求めた。
そうして息が上がった頃に、ようやくアラドはその言葉を口にしてくれた。
「好きだ」
その言葉を口に出した時、アラドは涙を流していた。
そして私も「好き」と答え、涙を流した。
私の上に覆いかぶさるアラドの涙は、私の頬へと滴る。
そうして交わった涙がキスと共に唇へ運ばれると、幸せの味がする気がした。
きっと涙は、心に溜まりきらなくなった感情が溢れ出たものなのだろう。
今この瞬間に、幸せという感情がとめどなく湧き上がり、涙となって流れ出ているのだろう。
だとしても、もったいないとは思わなかった。
なぜなら、アラドとこうしていれば、私の幸せは無尽蔵に沸き上がってくるからだ。
だから、もっと私を幸せにして。アナタのことも幸せにするから。
そうして私はアラドにすべてを委ね、優しく体を重ねてもらった。




