6 森林公園へ
10月7日(金)
朝7時半、学校に乗り付けた大型バスに乗り込んだ。バスの到着前、7時には出勤していたので、まだ眠い。気を抜くとついつい居眠りをしそうになる。
半分目を閉じた状態で、バスに揺られていると、ほぼ2時間で森の中に入った。
今日は日帰り遠足だ。こういう行事があるときは、実習生も同行して先生方の仕事を学ぶ。2年B組のバスにはクラス全員と、小柳先生、俺が乗っている。森の中にある大きなダム湖と、その周囲にある森林公園を目指している。
キャンプもできる炊事場で昼食を調理してから、全員で施設見学、森林公園で自由時間になるスケジュールだった。
昼食は定番のカレー作り。不慣れな生徒が多い割には、問題なく出来上がってくるのがカレーの偉大なところかも知れない。炊事場の周辺はカレーの匂い一色だ。
「先生! 一口食べてみてください」
行く先々で、一皿ずつ食べさせられそうになりながら、クラスの班を一通り見て回った。男子の班がいくつか微妙な水の多すぎるカレーになっていたり、飯盒に焦げつかせた白米と格闘していたが、これは想定内だろう。
食事の片付けを済ませ、しばらく緑地で休憩をしてから、再集合して移動を始めた。クラス全員で、ダム湖の周囲の歩道を歩く。
広大な湖に、空の雲が映る。秋晴れの空が高い。ついつい伸びがちになる2年B組の生徒の列の先頭は小柳先生が担当。俺は一番後ろから、軽く追い立てるようについていった。
突然、生徒が一人うずくまったのが見えた。その周囲で生徒の列の流れが乱れる。
「どうした?」
列の一番後ろから駆け寄ってみると、しゃがみこんだのは岩嶺ハルミだった。顔色が真っ青だ。話しかけても、気持ち悪いのか、反応が薄い。
「大丈夫?」
「すみません……ちょっと……」
苦しそうにあえぎ始めて、立てそうにない。すぐそばにいた保健委員も心配そうに見守っている。
「……すいません。バスに、戻って……ちょっと休んでいいですか」
「わかった。でも、歩けるか」
「大丈夫……ですから」
ふらっと立ち上がり、バスへと覚束ない足取りで歩き出す。こちらの返事を待たずに歩いて行くので、保健委員と後ろから追いかけた。
バスからそれほど遠くなかったのは幸いだった。ものの1分ほどでバスにたどり着く。
バスのシートに横にならせたところで、担任の小柳先生に連絡しようと携帯を出したが、ここは圏外だった。保健委員に小柳先生に状況を伝えてもらうよう頼んだ。
たぶん、症状は……過呼吸だ。ときおり、彼女が過呼吸になる、と小柳先生からも言われていた。本人もある程度慣れている様子で、息を吸ってからしばし止めて、ゆっくり深く息を吐く、という対処法を自分から始めている。
静かなバス車内に、まだ不安定な岩嶺の呼吸音が響く。
「すい、ません」
「いいから。落ち着いて。話さずに、吐くことに集中して呼吸しよう」
「私、水が苦手……なんです。すいません」
「……いいから」
岩嶺が呼吸を少しずつ安定させていく。
「すぐ保健の先生くると思うから、じっとしてよう」
「もう、大丈夫です。すいませんでした」
バスの入り口から足音がして、石野先生が乗り込んできた。小柄な、40代の保健の先生だ。状況を簡単に説明すると、石野先生が優しく岩嶺の手を握った。
「ゆっくりしなさいね」
荒かった息は、二、三分でだいぶ落ち着いてきた。
バスの入り口に、また別の足音。生徒が石野先生、と大きな声で呼んだ。
「石野先生! ダム公園の広場で、怪我した生徒が出たそうです」
担任の先生方が石野先生を呼ぶための使いをよこしたのだ。
「あっちもこっちも……」
そう言いながら、石野先生がバスから出て行き、再び岩嶺と二人で残された。
5分も経った頃、すっかり呼吸が収まった岩嶺が言った。
「先生、質問していいですか」
「……なんだい」
「初日……もう恋人作らない、って言いましたよね」
うわ、と思った。我ながら、何という話を初日からしたのかと。
「あれ……どうしてですか」
つい、質問に本音を入れて答えてしまった……それ以上、踏み込まれたくない質問。
「失恋したから、じゃないですよね。先生の言い方、そんなんじゃないって思った」
俺の息が詰まる。喉がひりつく。
押し出すように、答えた。
「どうして……そう思う?」
「違いますか?」
この子は手加減を知らない。中学生らしい、のかもしれない。
「……そうだな」
言葉を選び選びしながら、答えた。
「幸せに、するのが下手だったから、かな。酷い……間違いをして、恋人を不幸せにした。だから、もう作っちゃいけないって」
「先生の顔が、目が気になったんです……あのときの先生、すごく気になる目をしてて。あの目は……あの頃、たくさん見た目だって思ったんです」
◇
生徒たちを学校で解散させてから、職員室に戻った。小柳先生の隣に用意された椅子に座る。
「辰巳先生、ダムではお疲れ様でした。冷静に対処してもらえて助かりました」
「……いえ」
小柳先生は、どうしようか、と考えている顔を見せた。
「岩嶺さんのこと、驚きましたよね」
「はい。彼女は水を見て動揺したようでした。先日先生がおっしゃった事情に関係してるのかと」
「彼女の事情はちょっと……深刻なんです。プライベートに属することなので、実習生の辰巳先生にお知らせするのは、と思ったんですが。秘密は守れますか?」
「……はい」
小柳先生は、席を立つと、教頭先生のところへ行って鍵を二本受け取ってきた。そのまま二人で校長室の隣にある小さな資料室へ移動する。
資料室の鍵を開けて中に入ると、そこには壁に据え付けられた大きなロッカーがずしりと置いてあった。普通のロッカーとは明らかに異なる重々しい作り。鍵穴とダイヤル錠が付いている。これは金庫だ。
小柳先生は、もう一本の鍵を使い、ダイヤルを何度か左右に回した。カチャリと鍵が外れる音がする。
分厚い作りの扉を開き、中から厚手のファイルをとりだした。
「あらためて、口外しないと約束してください。一通りの事情は、これに……」
小柳先生が、ファイルをめくり、そこから数枚の束になった書類を抜き取ってそっと手渡してきた。
岩嶺ハルミの以前の住所、以前の家族構成、通っていた学校などの情報……。
「彼女は半年前の春、転校してきました。今一緒に住んでいるのは、叔母と叔父です。彼女のことは本当に慎重に。辰巳先生は、事情を知らない体で、自然に振る舞ってあげて欲しいんです」
以前の中学校の先生が書いた彼女と、家族についての詳しい記録。北国の小さな町の有力者だった父、専業主婦だった母、足の悪かった同居の祖母。一人娘で溺愛され、校内外で問題行動も見られたという当時のハルミ……それでも、幸せだった頃の彼女。
書類の内容を目で追いながら、転居の事由まで来た。
転居事由 『震災疎開』
がつん、と殴られたように感じた。
書類の内容から目が離せない。
震災の日から彼女が失ったもの、不安定になっていった精神状態……。
小柳先生が痛ましそうに話す声が遠く聞こえる。
「半年前の震災で、沢山の子供が家や家族をなくして、親類の家や施設に引っ越しました。このあたりの学校にも何人も転校生が来たんです。岩嶺も両親と祖母を亡くして、叔父叔母の家に引き取られて。それから、まだ、たった半年しか経っていません」
岩嶺が、そんな事情の少女が、俺の前にいる――それ自体が、まるで。
明日からの三連休で、どうにか気持ちを落ち着かせて、週明けを迎えなくては……と考えていた。