2 父と息子
教育実習の初日は小柳先生の仕事ぶりを見せてもらった。軽く打ち合わせをして、明後日からの授業準備のため、教材を鞄に詰めて学校を出た。
懐かしい通学路を歩くこと15分。二年ぶりの実家の玄関。遠くでもないのに、大学生活を送っている間、すっかり足が遠のいていた。
ぴんぽん。
一度だけチャイムを鳴らして、それから待っているのもなんだな、と思って鍵を開けた。ただいま、と声を出しながら玄関に入ると、ふいっと抜けた空気の匂いが記憶と違っていた。
家は、住む人によってまとう空気の色が変わる。違う人が住む家になったのだ、と思い出す。
「こんにちは……祐司さん、ですね?」
そう言って玄関に出てきた女性は翠さん――と聞いていた。顔を合わせるのは初めてだ。
「……父は、まだ、ですか?」
艶のある、茶色がかった髪が軽く波打っている。ゆったりしたトレーナーにスリムのジーンズ。翠さんはうっすら笑顔を作る。
「はい……あんまり固くならないでください。もともと祐司さんの家ですから。でも知らない顔がいたら落ち着きませんよね」
そういう翠さんの言葉も自分に負けず劣らず、他人行儀な気がする。
妻を亡くし、一人で住んでいた今年五十になる父の家。二年ぶりに帰ってきた二十二歳の息子。出迎えてくれたのは、三十代半ばの、父の再婚相手の翠さん……いろいろ難しいのは、きっとお互い様だ。
居場所の定まらない、ぎくしゃくした時間。こんなことなら、もう少し時間を潰してから来るんだった、と思った。
◇
父と同じ食卓につくのは久しぶりだ。翠さんが、ビールを用意してくれた。父のグラスと俺のグラスに注ぐところまでやってくれて、また台所に戻る。
「再婚、おめでとう」
「……ああ」
どんななれそめだったのか、とか、詳しい事情は聞いていない。式を挙げるでもなく、父と翠さんはひっそり籍を入れた。
ビールと一緒に翠さんが置いていってくれた冷や奴を箸でつまみながら、父が何気なく、という風で訊いた。
「どうだった。中学校」
「うん。あんまり変わってなかった」
父親がこっちをちらっと見た。
「中学時代といえば……お前、隣の美幸さんと仲良くしてたな」
胸がどきん、と打つ。
「美幸さん、勤め先の近くで一人暮らし始めたそうだ」
大学卒業まで、一歳上の幼なじみ、鷹取美幸はこの家の隣に住んでいた。大学のすぐ近くに一人暮らしをしていた俺と、同じゼミで毎日のように顔を合わせて……でもこの半年、美幸の顔は見ていない。
新居がどこなのかも知らない。
「……そう」
「大学で、一緒だったんだろ」
「うん」
父も察するところがあったようで、会話は途切れてしまった。
俺は間をもたせたくて、父親のグラスにビールをつぎ足す。
「……母さんのこと、覚えてる?」
話題を変えたくて、つい言ってしまった。
母が亡くなって十年ちょっと。父親にとって、その存在はどうなっているのか。不意にそんなことが気になった。いや、不意というのはごまかしだ。俺自身が、大切な人を亡くした人間を知りたい、と思っているからこそ、聞きたくなった。
不躾な話題なのは十分わかっていたのに、親子の気安さで口に出してしまった。
父は、しばらく黙って、考え込むように腕を組んだ。
「そうだな」
遠い目になる。翠さんには聞こえていないはずだが、それでも父はもう一段声を低めて話す。
「覚えてることもたくさんあるし、忘れたこともきっと、たくさんある。翠と仕事と……いろいろ新しいことが入ってくるな」
「新しい……」
「ああ。それを認めて、受け入れられるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。母さんが亡くなって……もう十年を超えたんだな」
言葉は半分俺に、半分自分に向けられているようだった。父はビールをぐっと空けた。
なぜこんな話題を振ってしまったのか、と悔やむ。
父が言葉を継いだ。
「何があったか無理には聞かないが……なんかあったら帰ってこい。翠もいるけど、おまえの部屋は元のままにしてある」
◇
食事を終えて自室に戻った。高校まで過ごしたそのままの部屋だった。ベッドにごろん、と転がって天井を見上げる。明後日の実習授業の準備も終わっていない。寝るわけにはいかないな、と思いながら、心に湧き上がってくる感情をもてあます。
――「ねえ、祐司は宮沢賢治って、どれくらい読んだ?」
――「風の又三郎とか、いくつか読んだけど、あんまり面白く感じなかった」
――「祐司らしいね……難しく考えすぎなんじゃない? 注文の多い料理店とか、すごく童話らしくて、可愛いのに」
美幸とずっと前に交わした会話が蘇ってくる。この部屋で、二人で本のことを話した夏休み。二人とも中学生だった。
――「うーん。オツベルとかゴーシュとか……読んでて重いというか、なんか苦手な印象あるんだよな」
お隣同士の気楽さがあって、美幸とは頻繁にやりとりをしていた。一つ年上の姉のようで、力を抜いて話せた。
――「賢治は、ずっと仲の良かった妹を亡くして、しばらく書いていなかった時期があったんだよ。妹のことを書いた詩、知ってる?彼女を亡くした日付の書かれた三編の詩があって」
三編の中でも知られた一遍、『永訣の朝』を美幸が読んでくれた。
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
……
――「妹を亡くすことをまっすぐ描いてるのに、ただ喪失だけで終わってない。痛いほどの祈りがこもってて、凄いよね」
美幸の声は、今も耳に残っている。