一 転移
ぼやけていた意識が少しずつはっきりする。
深い水の底から水面に浮かび上がるような感じだ。
頭が痛い。ここはどこだろう。
何をしていたんだったっけ。よく思い出せない。
俺の名前は…。あれ、名前は何だろう。
まさか、記憶が欠けているのか。
「若様、若様。目を覚まされたのですか。」
がたいの良い男に肩を揺さぶられた。
「良かった、本当に良かった。若様が目覚めねば、某はどうしようかと。」
男は泣き始めた。一体何が起きているんだ。
「ほっほっほ。儂は信じておりましたぞ。若様の命運はこのようなところで尽きるものではない。」
近くで老人が笑った。しかし、その目の下には濃い隈ができている。
「私も信じていた。お前はこんなところで亡くなるような男ではない。」
大柄な女性の瞳も潤んでいる。
どうやらこの人たちは俺のことを随分心配してくれていたらしい。
しかし、ここはどこで、俺は誰なんだ。
「野良田の戦いはお味方の大勝利じゃった。久方ぶりに六角の軍を破り申した。若様も回復なされ、これで浅井家は伸びて行ける。」
老人の声にはっとした。
野良田の戦い…六角…浅井家…。
俺のものではない誰かの記憶が浮かび上がってくる。
この記憶は浅井家の誰かのものだ。六角家の姫と政略結婚させられ、六角義賢の一字を与えられた。
浅井…新九郎…賢政。
何ということだ、どうやらこの体は浅井長政のものらしい。
しかし、長政の記憶はあるが、意識は残っていない。この体には俺の意識しかない。
周りの様子からすると、長政は戦でひどい傷を負ったようだ。
もしかすると、亡くなったばかりの長政の体に俺の意識が転移して宿り、息を吹き返したのだろうか。記憶があるのは彼の執念のようなものかもしれない。
それにしても、ラノベで戦国時代に転移するものをいくつか読んだが、まさか自分が転移するとは。
そもそも長政は信長に逆らった結果、小谷城を攻められて死んだが、野良田の戦いは勝利して生き残ったはず。この世界は俺の知る世界とは違うのか。
「どうやら若様は意識が戻られたばかりで、いささか混乱しておられる様子。今しばらくお休み頂く方が良いのではないか。」
落ち着いた声が聞こえた。
「おお、赤尾殿の言う通りじゃ。儂らはいったん下がるとしよう。」
老人は泣いている中年の男を俺から引きはがした。
「三田村殿、某は若様の傍に。」
「これ、喜右衛門。若様の無事が分かったのじゃから、今はお休み頂かねばならぬ。行くぞ。」
「そうね。今は新九郎を休ませましょう。」
ああ、泣いていたのは忠義で知られる遠藤喜右衛門直経か。老人は三田村氏か。あまり歴史に名が残っていなかった気がするが。ずいぶんと親しい人のようだ。頭巾を被った大柄な女性は誰だろう。
今は一人にしてもらえるのは有難い。
まずは記憶を整理して現状を把握しないと、どう行動すれば良いか分からない。
半日ばかり、この体に残っている長政の記憶を辿り、自分の歴史の知識と照らし合わせた。
結論から言えば、俺の知る歴史と大きな違いはないようだった。
浅井氏はもともと守護の京極氏の家臣であり、国人領主の一人にすぎなかった。
京極氏の家督争いや、京極氏の威を借りて独裁者となる家臣が出たりして家中が乱れる中、長政の祖父の亮政は国人衆のリーダーとして頭角を現していく。そして、居城である小谷城に京極氏を迎えて、北近江の実権を握った。
同じ国人領主だった祖父が権力者になって、周りの国人衆は反発しなかったんだろうか。それに祖父の亮政は六角氏と戦って何度か負けている。それでも赤尾氏や三田村氏を味方につけて江北三郡(浅井郡、伊香郡、坂田郡)を支配下に置き、以前は同格だった国人領主たちを家臣にしていったようだ。どうやら亮政は粘り強く、カリスマもあったようだ。
亮政の子の久政の代になると、六角氏の圧迫を受け、次第に六角家に取り込まれていく。人質として妻を差し出したのはどうかと思う。ついには嫡男である俺が元服したときに六角家の家臣の平井家の姫を義賢の養女として結婚させ、名字も六角義賢の一字を与えて賢政とした。
これでは六角家の家臣だ。亮政を支えてきた国人衆たちは弱腰な久政に不満をため、ついに長政を旗印に結束して久政から実権を奪い、平井家の姫を実家に戻したようだ。このときに長政は名を賢政から通称の新九郎にしたらしい。いずれ織田家と縁を結んだときに信長の一字をもらって長政に改名したようだ。だが、俺は長政という名前に馴染んでいるので、長政の記憶と呼ばせてもらう。
そして、平井家の姫を離縁して怒った六角家との戦が野良田の戦いになる。
野良田の戦いでは、俺の知る史実と同じように六角家は倍の兵力だったが、戦意に勝る浅井軍が大将の新九郎を先頭に義賢の本陣に突撃し、義賢が逃げ出したことで勝利を収めたようだ。
ただ、史実とは違って新九郎は矢傷を受け、どうにか小谷城まで戻ったが昏倒したらしい。それから丸一日、意識が戻らなかったようだ。
農民などではなく大名家に転移したのは幸運というべきか。
ただ、このままだと浅井家は織田家に飲み込まれそうになり、武田や本願寺の反信長包囲網に参加した結果、長政は小谷城で討ち死にする。
転移する前、戦国時代には興味があって、ゲームは随分とやり込んだ。この武将は誰だろうと思ってネットで調べたり、歴史の本を読み漁ったりした。素人としては知識があるほうだと思う。賢政の記憶を得た代償なのか、もとの記憶は欠けていて名前も思い出せないが、戦国時代の知識は失われていないようだ。
歴史の知識を活かして、どうにか生き残りたいものだ。