落石注意
「おぅ………おぅ……いやだから明日には帰るってさっきから言ってるやろ?あと1日も待てんのかよ…………ハハ、ええ加減その性格どうにかした方がええぞ………ほーん…いや知らんって、自分で調べてくれやそんなん。
まぁ何にしても今下る途中だから後で……あいあい」
通話を切る。
照り返す夕日がスマホの画面を茜色に染めた。
…ここでも電波届くんだな。
スマホをジップ付きの胸ポケットに入れて一人ごち、リュックを背負い直した俺は岩から立ち上がった。
向こうの山の尾根にちょうど今、沈もうとする夕陽がとても美しい。夜が来るまでぼーっと眺めていたいくらいだったが、真夜中の下山はこの上なく危険だ、さっさと帰るに限る。
「ぼくもかえ〜ろ おうちにかえろ」
ふと浮かんだ子どもの歌を口ずさみ、岩の斜面を降りていく。日光が減っていよいよ低くなって来た気温に体をぶるり、と震わせつつ、男はは下山の道を急いだ。
男の名前は多々良 蝉斎。旅行が趣味の一般的な大学生だった。
この日までは。
結局山を降りたのは真夜中だった。
「えぐしっ!…ぇっぐしゅ!!」
リュック一つにジーパンとダウンジャケット一枚という完全に北アルプスをナメた装備で来たらそら風邪くらいひく訳で。
でっかいくしゃみを漏らしながら、俺はガチャガチャと荷物をバイクに括り付けていた。
悲しいことに夜中の山を降りる馬鹿は俺だけだったらしく、駐車場には俺の他に誰もいない。
下山中死ぬほど世話になったバンド式のヘッドランプを頼りに手早く荷台にリュックを固定した後、俺はエンジンをふかしその場を後にした。
ブロロロ…
等間隔に並んだ街灯が作る光の縞を通過しバイクは走る。他に車もなく、快適なナイトツーリングを楽しんでいる筈の男の顔は、なぜか歪みに歪んでいた。
「ハァ……ッグションッッ!!グゾッ、もっと厚着するべきだったぁァ…ッッグジョン!!!」
俺のフルフェイスヘルメットの中は鼻水ととヨダレでベトベトだった。控えめに言って地獄である。
せっかく夕暮れの立山連峰という良景色でホクホクしていた気分もすっかり落ち込んでいた。
「もう徹夜して帰るかぁ…」
いったん止まって内側を拭き取っても良いのだが、どうせくしゃみは止まらないのだ。ベトベトになる度に拭き取ってはキリがない。くしゃみ止めを持っていないことに心底後悔しつつ、夜の山道を男は駆ける。
そうして顔に張り付く粘液に悪戦苦闘すること数時間、前方に車のライトが見えた。暗闇というのは元来本能的に恐怖を煽るもので、他人の存在に俺は謎の安心感を覚えた。
軽……距離遠いしこのままの間隔で走るか。
前方に軽自動車のテールランプがちっちゃく見えるくらいの距離だが、これくらいが丁度いいだろうと速度を微妙に落としてそのまま走る。
んでそのまま数十分、あんまり暇なのでBluetoothで音楽もかけ始めた頃、 明日のバイトを休むかどうかで悩んでいた時のことだった。
左、つまり山の斜面の方から嫌によく響く物音が耳に入った。そういえば道ゆく至るところに「落石注意」の看板があったことを思い出し、とんでもない悪寒に背骨を縮ませた俺はすぐさま左手へと顔を向ける。
最悪にも最悪な予感は的中した。
コンクリートと金網で補強された山の斜面はみるみるとヒビ割れ、大中小入り乱れた岩石が道路に転がりこんでくる。石がアスファルトを打つ音が妙に間延びして聴こえて。上からは既に大きな岩が飛んで来ていて。数瞬すれば顔に直撃する事は火を見るより明らかで。何故かボーリングのピンが頭に浮かんで。というかもう目の前に岩があって。でもでもバイクだって物凄い速さで走ってるんだからもしかしたらぶつからないんじゃないかって。甘い幻想だって。走馬灯なんて嘘なんだって。こんなところで死ぬのかって。鼻水垂らして死にたくないって。嫌だって。嫌だって。助けてって。
あ
「あ」
いた