アスタリスク4
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ハーフタイム。1点リードの常徳ベンチは盛り上がって然るべきだった。後半20分間を耐え切れば優勝。けれどもハーフタイム中、野口コーチが独りで喋り続けた。子供達に口を開くことを許さなかった。水分を補給し、できる限り体力の回復に努めなさいと。話を聞いているだけでいい。頷くだけでいい、と。皆、素直に従った。黙って野口コーチの話を聞いていた。指示ではなく、お話。具体的な指示なんてほとんどなかった。なんか、こう、昔話みたいな思い出話。
いい顔をしていた。疲労の色は隠せないが、満ち足りた、真剣に勝ちを目指す良い顔をしていた。父親だったら、自分の息子がこんな顔をしていたらちょっと嬉しくなってしまうだろう。城所 千夏には申し訳ないが、男の顔になったもんだと。
常徳が常徳の囲いの中で常徳だけのハーフタイムを消化していたから、野口コーチも会場の奇妙な空気に気が付かなかった。緒戦などは8人チーム頑張れ、目指せ1勝のような温かい応援があった。見ず知らずのチームの勝利を願う思いが漂っていた。しかし今は。決勝戦も残すは後半の20分のみ。1チーム11人の競技で8人編成のチームが優勝して良いのか。3人のビハインドだぞ。予選ラウンドではない。予選を突破したチームの集まった決勝ラウンドで、8人のチームが頂きに立つのか。それは出来過ぎだろう。もう十分。これ以上はやりすぎだ。頃合だ、ゲームオーバーの。
後半が始まってしまった。分かっていたこと。戦況は前半と何も変わらなかった。こんな短いハーフタイムで体力が回復するはずもない。それどころか時間と共に状況は悪化していった。後半開始早々、野口コーチの作戦を実行するだけの体力も尽きてしまう。ペナルティエリア付近に立ってはいるが、満足なスピードで走り回ることはほとんどできていなかった。誰もが大きな口を開けて酸素を取り込み、どうにか足掻き抗おうとするが、足が、頭が、肺が心臓が、心が言う事を聞かなかった。唯一、心の拠り所は生きている耳だったが、遠藤 行則の喉は潰れてしまい、声は届かない。万事休す。1-0。決勝ラウンドの決勝戦、リードしているのは優勝候補のグリーンヒルSCではなく常徳SC。試合展開を見る限りではまるで信じられないが。残念ながら現実味を帯びすぎていて誰も口に出せない。もはや時間の問題だ。
だから諦めた。追加点を取ることを。伍代 勇樹が自陣のペナルティエリアまで下がってきた。
「あと10分。死ぬ気で走り回ってやる。」
伍代 勇樹はボール目掛けてがむしゃらに走り出した。ただ、ただボールを追い駆ける。スマートな走り方ではない。不格好この上ない。気迫だけは伝わってくるものの、見方によっては伍代 勇樹がグリーンヒルSCに弄ばれているかの様。それでも体裁など構っていられない。動けるのは、カウンターを狙って前半最も運動量の少なかった伍代 勇樹だけ。1点を守りきれば勝ちなのだ。優勝なのだ。
呼吸をする度に喉がキューキュー鳴った。へその左横付近がズキズキ痛む。右足親指の皮が剥けたようだ。どんなに走っても足はつらない伍代 勇樹だったが、ふくらはぎの調子が怪しい。腓返りは目の前だろうか。けれども弱り目を見せてはならない。こちらの体力が尽きたと判断すれば相手方が元気になるだけ。そこを突いてくる。圧倒的優位に立たれてしまう、精神的に。
集中力が切れる、とはこういうことなのだろうか。雑念、主に体の変調が伍代 勇樹の脳内を支配した。そして後半の残り時間ばかりが気になり始める。まだ後半の折り返しもいい所。帰ったらスーファミやろうっと。やべ、宿題あったな。漢字の書き取りと計算ドリルか・・・
後半10分、伍代 勇樹の足がもつれ、転倒。隙を逃さずグリーンヒルSCが右サイドから突破を図る。常徳SCの左サイド、城所 千夏がワンツーパスでかわされ、スライディングで止めにかかった観月 心の頭上をセンタリングが飛んでいった。相手選手と太田 勝也が競り合いボールが零れ球に。素早く反応したグリーンヒルのシュートを本田 成也が腹で止め、次のシュートを戻ってきた伍代 勇樹がスライディングで弾き、それでも続くシュートを遠藤 行則がパンチングで防いだ。黒白のボールがコロコロ転がる。ゴール前、ボールの辿り着いた先にいたのはグリーンヒルの選手だった。ついに同点。
耳障りな甲高いホイッスルが常徳SCを絶望に突き落とした。立っていたものは座り込み、倒れていたものは後頭部を土につけた。ギブアップのサインだった。もはや常徳SCに1点を◯(も)ぎ取る力は残っていない。ただひとり足の動いていた伍代 勇樹も今々、力尽きた。それでも万策尽きたわけではなかった。サブメンバーの3年生3名。今日も来てくれた。けれどもせっかくの決勝ラウンドで出番なし。野口コーチが3人に向けて謝った。
「ゴメンな。わがまま、言わせてな。」
「立て!常徳っ。甘ったれるな!!自分達で決めたことだっ。最後まで貫き通せ!同点で俺の所に戻って来いっ!!」
終わりの方は泣いていただろうか。こんなに声を荒げた野口コーチは初めてだった。怒っているのではない。子供達の力になれない歯痒さを吐き出した結果だった。最後まで8人で戦うと決めた野口コーチ。後々批判の的に晒されようが―自己中心的だとか、試合に出られない3年生が可愛そうだとか、言葉遣いがetc...槍玉に挙げられるネタはいくらでも揃っていた。11人で試合に挑んだ方が少ない面倒事で済んだのかもしれない。それでも野口コーチは8人の主張を曲げなかった。野口コーチも必死に戦っていた。
あまりに度の過ぎた大声に会場中の視線が野口コーチに集約された。その一瞥がグラウンドに戻った時には、常徳SCの8人は立ち上がり、歩き出していた。表情はやはりキツそうだ、肉体的にも精神的にも。諦めてしまったほうが楽かもしれない。それでも、常徳SCの8人は歩き出した。
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