えぴそーど 70
アンドレアの怪我は回復した。
もう、アリスを抱かかえられる程に、だ。
そして、怪我の回復を待って2人の婚礼の日取りが決まった。
初夏となったのだ。
風の爽やかな季節に、アリスは嫁ぐ。
ここは、丘の上。
2人はアリスのアトリエにいた。
「アデュ、動かないで?」
「けど、アリス…、もう休憩にしないか?」
「駄目」
「厳しいなぁ…」
「当り前よ、貴方の為に描くんだもの」
アンドレアはずっと同じポーズをさせられている。
「私の執務室に飾るのは、君の絵でいいんだけど…」
「私の隣に貴方がいない絵なんか、描かないわ」
アンドレアの父ハーネスは息子の結婚を機に引退を表明している。
父の執務室を引き継ぐ彼は部屋に妻になるアリスの絵を置きたいと願い、それをアリス自身に描いて貰おうと願った。
もちろん、快諾したアリスだったが、今の状況になった訳だ。
「私のアリスは、そろそろ私に優しくしてくれないかな?」
かれこれ1時間近く立ったままでアリスが座っているとされる椅子の背に手を掛けている。
同じ体勢が疲れてくる頃だ。
アンドレアは隣の椅子に腰掛けた。
そんな行動に筆を持つ手を止めた。
「もう、私のアデュはもう少し我慢してくれると思ったのに…」
「アリスを前にして触れることも出来ないなんて、辛いよ?」
その言葉に、少し顔を赤らめる。
アンドレアの甘い言葉に少しづつ慣れてきてはいたが、それでもまだ恥ずかしい。
けれども、アリスは「仕方が無いわ」と、アリエッタを呼んだ。
「アリエッタ、休憩するからお茶をお願い」
「はい、畏まりました」
「アリエッタ、よろしくね」
「はい、アンドレア様」
アンドレアはアリスの隣に行き、当然の様にその肩に手を掛ける。
軽くアリスの唇を奪う。
2人きりの時。
アリスも恥らうことなく当然の様に受け止めていた。
それは、いうなればアンドレアの教育の賜物である、言葉は良くないが…。
そして、彼はキャンバスを眺める。
そこには描きかけの下絵があった。
「ここから絵が生まれるんだね…」
「そうよ」
そして、彼はその空気を吸い込んだ。
「至福だな…」
「絵の具の匂いね?」
至福のはずなのに、アンドレアの顔が少し曇った。
「アデュ、どうしたの?」
「アリス、ゴメンね。そうだね、色々と思い出したり、考えたりしたんだ」
「?」
不思議そうな顔をするアリスの頬を撫でる。
「アリス、私を襲った奴らの処遇を聞いたかい?」
「ええ、ルイが教えてくれたの」
「あの中に、ビリーという男がいただろう?」
「いたわね」
「あいつは幼い頃から絵を描いていたんだ」
「そうなの?あ、アルホートの友人って、もしかして、あの方?」
「そうなんだ。若い頃を共に過ごして来たから、彼の夢を応援していたんだ。けどね、彼の妹が私に想いを寄せるようになってしまってからは、彼との関係が崩れてしまった」
「そうなの…」
「私は彼女を好きにはなれなかった。そこに私の母が絡んできて、話がややこしくなったりもしたんだけどね…」
その頃にアンドレアはアルホートからルミナスに移り住んだのだ。
「そう、難しいことが起こったのね…」
「ああ、そうだ」
そう言ったアンドレアの顔が少し明るくなった。
「けどね、色々と考えたんだよ」
「なに?」
「もしかしたら、全てはアリスと出会う為だったんじゃないかってね」
「私と?出会うためになの?」
アリスの問いに答える。
「そう思えるんだよ。何しろ、アルホートの母から離れたかったから父の誘いに乗ってルミナスに渡ったしね。色々の出来事を振り返る度に、私はアリスに出会う為に、この匂いが好きになったんじゃないかって」
「まぁ…」
「だからね、その内にアリスがいれば、この匂いを嗅ぎたいなんて思わなくなりそうな気がするんだよ」
「それって、運命が私達を結びつけてくれたってこと?」
赤紅の瞳が紫紺を優しく見詰める。
「そうだね、アリスの隣にいるのは私だって決められていたのかも知れない」
「素敵、きっとそうだわ」
「そう思う?」
「うん、だって、今が1番幸せなんだもの」
「よかった」
当り前のように、唇が重なった。
紫紺の瞳が潤んでしまう。
それがどんなに赤紅を唆すのかを知らないままにだ。
「ねぇ、アデュ?」
「なんだい?」
「私が、どれだけ貴方を愛しているか、知ってる?」
その言葉に、アンドレアはゆっくりと答えた。
「知っている、と私の口から答えるほど愚かじゃないよ、私はね」
「え?」
「アリスが私をどの位愛しているかなんて、君の口から聞きたいなぁ?」
アリスも笑った。
この愛おしい人は一筋縄では行かない御仁であったことを失念していたのだ。
「そうね、そうよね…。とにかくよ、私は貴方が私を愛しているよりも深く貴方を愛しているわ」
アンドレアは満足そうに微笑む。
「ああ、アリス…」
「え?」
「君ほど素敵な女性を知らないよ。愛してる」
「なんだか悔しいわ」
「どうして?」
「なんだか負けた気がするから…」
「構わないよ。私の方が君を愛しているんだから」
「もう…」
唇が重なった。
もう直ぐアリエッタが現れるというのに、2人は抱き合ったまま離れなかった。




