第7話 昭和の野獣
梅田の曽根崎警察署と御堂筋を挟んだ位置に『生活安全協会』の大阪支部の5階建てのビルがあった。
生活安全協会は市民の道徳的な規範意識の推進を図ることにより、安全な地域社会を作ることを目的に設立された公益法人だ。つまるところが、生活安全協会は日の丸親方の外郭団体のひとつである。
シャインはその公益法人の支部長室に呼び出された。
許可を得て部屋の扉を開くと、そこには60がらみの鼠を彷彿とさせる容貌の小男と、シャインの見知った警察庁のSPが立って控えていた。
小男は脇目もふらずにゴルフパターの練習をしている。
「なんとかならんか」
人工芝を転がるボールを目で追いながら、男がシャインに語りかけた。
男の名は田中一郎。日本の警察庁のキャリア組から銀河パトロールに出向した高官で、シャインの関わったオーサッカ組撲滅作戦を指揮した男でもある。そして、現在は訳あって生活安全協会の大阪支部長として出向をさせられていた。
その訳とは、麻薬商人で知られたハナテンの死後に、マスメディアに田中とハナテンの黒い癒着を伺わせる情報がリークされたためである。しかしながら、疑わしきは罰せずが法の番人の大原則である。立証ができぬ限りは田中を解任する訳にはいかない。
そのために、銀河パトロールと警察庁は田中を大阪の外郭団体に左遷していた。
「昨日からおなじ話題ばかりでうんざりだ」
田中が顎で示す先にはマホガニー製の大きなデスクの上に液晶モニターがあり、こちらに向けられた液晶モニターには警察車両と防護装備に身を固めた警官たちの姿と、児友銀行北畠支店の建屋が映しだされていた。
『人質を取り籠城した犯人に対し、今もなお警察による説得が続けられていますが、人質の開放に向けた交渉は難航している模様です』
現場の報道レポーターが大きな声を出して状況説明をしている途中で、画面がスタジオのアナウンサーに切り替わった。
『昨日、大阪府住吉区万代東の児友北畠支店に猟銃を持った男が侵入し、駆けつけた警官に発砲、今もなお数多くの人質をとって建屋内に籠城を続けています』
田中は、パター練習の手を休めるとシャインに向き直った。
「こっちまで府警の会議に駆りだされてね」
「お疲れ様です」
「銀行に籠城した男は、帝塚山組の組長だ。すでに、六人を射殺している」
「帝塚山悠斗ですか」
「そうだ」
「帝塚山悠斗だと名乗ったのですか?」
「警察からの呼びかけに梅田という偽名を名乗っているが、あれは帝塚山だ」
銀行籠城事件の前日の深夜、吹田市にある警察の保管施設に泥棒が押し入った。犯人はそこから大昔の凶悪犯罪に使われたショットガンと大量の銃弾を盗みだしたのである。
泥棒は保管室への最短距離をとって垂直な壁を歩き、内側からしか開かぬはずの窓を開けて内部に侵入。銃器の収められた厳重な保管庫も、泥棒が手を触れるだけで自然と開いた。朝に施設の職員が開放された保管室の扉に気がつくまで、防犯システムは警報を発せずに防犯カメラがその様子を記録していたという。
銀行の防犯カメラには吹田の保管施設の窃盗犯と同じ顔をした男が、盗まれたものと同型の銃を持っている姿が映しだされていた。
ショットガンと弾を盗んだ犯人は堂々と指紋を残していったために身元はすぐに判明した。
帝塚山組の組長、帝塚山悠斗である。
「警察から盗み出された凶器で犯行が行われたことは、決して公にされる訳にはいかない」
「…………」
「大阪府警の方は手を打った。自分の不始末は自分で始末をつけたまえ」
「当方ではなく、大阪府警の失態です」
「帝塚山を逃したのが発端だ」
「帝塚山悠斗は成仏しました」
「ふざけ…………」
田中は途中で声をつまらせた。シャインが動画再生をしたスマホの画面をかざしたのだ。
◇
『アネさんもう撮ってますよ』
金角の声がコンクリート打ちっぱなしの空間に響いた。
『匪賊討伐作戦完了』
シャインがビシッと敬礼をした。
配管がむき出しの天井に鎖で吊られた白色のLED照明の下で、ブロンド髪の美しい女が自衛隊の戦闘服に身を包み背筋を伸ばして立っている。
その背後では、首を吊って間もない帝塚山悠斗がブラーブラーと揺れていた。
『我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池』
その空間に朗々と観音経を読経する声が響き渡る。
『やった感が凄いっ』
シュールな光景に金角が思わず感嘆の声を漏らす。
シャインはキリリとした表情で、微動だにせず敬礼を続けた。
◇
田中はスマホの動画を食い入るように見つめていた。
手に持っていたパターを、いつの間にか床に落としてしまっていることにも気がつかない。
まるで、知人の遺体をいきなり見せられて放心をしたような様子だ。
「医官の検死もありますが?」
「いや、いい……」
シャインは田中の落としたパターをしゃがんで拾おうとした。
「待て!!」
SPの男がいきなりシャインの両脇に腕を通すと羽交い締めにした。
シャインにパターを持たせることを危険だと判断したのだ。
「女の体をいきなり触るのか」
シャインの身長は177cmである、SPの男は細身で180cm程度であるために圧倒的な体格差ではない。
「やめろ!!」
慌てた田中が大声を上げた。
SPの男が自分が組んだ腕を解こうとしたが、 がっちりと挟まれて腕が動かない。
「まじかるぅぅぅ」
シャインは相手が膝を使うよりも早く両腕を勢いよく下ろして挟んだ腕を潰した。
ミシッというなんとも嫌な音がした。
「!!」
SPの男はわなわなと身をふるわせて前かがみになった。
シャインは、相手の腹に膝蹴りを入れて、トドメに相手の首の頚椎に肘打ちを入れた。
「ガァッ」
身体を床に投げ出したSPの男は、嘔吐をして気を失っていた。
「この『犬』痴漢です!!」
シャインは、女の免罪符の呪文を唱えてSPの男を指さした。
「!!」
田中は顔色を青くした。
田中は警察庁時代からの子飼いのSPに犬を憑かせていた。
昨年にハナテンの伝手を頼り、法の華仏法教会の教祖に依頼をしたのだ。
「自分が現場の指揮を執ります」
シャインは田中に敬礼をしてその場を辞した。
◇
1979年1月26日午後2時30分、大阪府大阪市住吉区万代東の児友銀行北畠支店にショットガンを持った男が北口から侵入した。男は黒いチロリアンハットをかぶり黒い服を着て、サングラスとマスクで顔を隠していた。
大阪府大阪市住吉区在住の梅田昭美(30)である。
梅田は銀行のフロアでゴルフバッグからだしぬけにショットガンを取り出して構えた。
「みんな伏せたらんかい! 伏せいや!」 ズタンッ!! ズタンッ!!
叫びざまに天井に向けて2発の威嚇発射をした。
天井の化粧板や蛍光管の破片がパラパラと床に降り注ぎ、女子供の悲鳴が上がった。
そのとき、銃声を聞きつけた盛岡支店長(47)が二階から駆け下りてきた。
「金や!! 出せへんと殺したんぞ!! 十数える内に、五千万ださんかいや!!」
梅田は行員たちを脅しながら持参した赤いリュックサックをカウンターに放り出した。
このときに、隙をついた20代の男性行員が非常通報をした。
「なにしたぁねん!!」
梅田は目ざとく相手の行動を見破ると、怒声を上げて行員に向かって発砲した。
ズタンッ!! ズタンッ!!
顔と首を中心に、数十発の散弾を浴びた行員は血だるまになって即死した。
この行員の近くにいた同僚2人も頭部などに被弾した。
観念した営業課長代理は、赤いリュックサックにその場にあった283万円を入れると、カタカタと震える手で梅田に差し出した。
「……なんや少ないのぉ」
梅田は、定期預金の窓口の盆の上にあった12万円を鷲掴みして上着のポケットに入れると逃走を決意した。
表には梅田の愛車、マツダのコスモが逃走に備えてエンジンキーをかけた状態で駐車をされていた。
梅田は警察の到着までに最短で3分という見当をつけていた、まだ1分しか経っていないので余裕だろう。
しかし、ここで因果の道理が働いた。
住吉警察署警ら第二係の楠木警部補(52)が、自転車で銀行の前を通りかかったのである。
銀行から間一髪で逃げだして難を逃れた女性客が制服警官を見て駆け寄った。
「おまわりはん、銀行強盗や!! 鉄砲撃ちよった」
「なんやて!!」
警部補は銀行内に駆け込んだ。
フロアにいた梅田に拳銃を構えると大声で叫んだ。
「銃を捨てんかい!!」
「撃ちよんか!! 撃ってみいや!!」
梅田は怒声をあげた。
拳銃とショットガンが同時に火を放った。
警部補の銃弾は当たらず、梅田の散弾は警部補の胸部を直撃した。
梅田は、兵庫県にあるクレー射撃練習場でプロ級と評されるほどの射撃の名手であったのだ。
「110番……110番…………」
警部補はそう叫ぶと事切れた。
(アカン、なンでこない早よう警察がきょんや?)
梅田は警察の狙撃に備えて、カウンターの内側に身を投じた。
午後2時36分、パトカーに乗車していた阿倍野警察署警ら第二係の前田巡査が行内に駆け込んだ。
ズタンッ!!
前田巡査の胸を一発で撃ちぬいて射殺した。
午後2時40分、吾妻巡査部長が自転車で部下とともに到着。
パトカーに乗車していたもう一人の長田巡査長が北口から入る。
「危ない!!」
誰かの声を聞いた長田巡査長が危機一髪で身を隠す。
ズタンッ!! ズタンッ!!
梅田は発砲をすると素早く弾を装填した。
吾妻巡査部長がその隙を狙い梅田を狙撃するが避けられた。
梅田は、警官の侵入経路を絞るためにシャッターを閉めるように行員に命令した。
「ねえちゃん、あのお巡りの拳銃を取ってき」
梅田は、女性行員に命じて楠本警部補の遺体から拳銃を入手した。
それからまもなく、梅田はカウンターの陰に隠れていた七歳と五歳の子どもを連れた母親の三人を発見。
五歳の男児の泣き声に気がついたのだ。
「ぼく、立てや。オカンと帰ってええで。二階から出るんや」
そう声をかけると、親子連れ三人を解放した。
午後2時45分、支店長席に陣取った梅田は人質全員を集めると背中を向けて並ばせた。
「端から点呼や。お前からや、番号っ!!」
支店長席に座った梅田が号令をかけると、人質たちは素直に点呼を開始した。
そして最後の女性の「37」で点呼は終わった。
「こんなかで、病気のもんはおンか?」
37番目の女性が、妊娠中であることを梅田に告げる。
「帰ってええ」
梅田は、妊婦を開放した。
人質たちはこの男の優しさに一縷の望みを抱いた。そのとき、梅田が彼らに問いかけた。
「責任者はだれや?」
「私です」
一週間前に、この支店の支店長に赴任したばかりの盛岡である。
「部下が、はよう金を渡さんかったんはお前の責任やな」
ズタンッ!!
梅田は至近距離から、盛岡の腹部を撃ちぬいて射殺した。
午後4時46分、梅田は自分から110番に電話をした。
「児友銀行を乗っ取ったもんや。表から拡声器で吠えるのやめんかいや。ほんで、警官が来たら人質を殺したんぞ」
午後4時50分、冷静な顔つきが生意気だといって男性行員に発砲した。
右肩を被弾した男性行員は倒れたが、致命傷には至らずに死んだふりをした。
梅田は、別の男性行員にナイフを手渡した。
「まだ、生きとんやろ。とどめを刺せ。肝をえぐり取るんや」
男性行員は死んだふりをしている行員に近づくと、息があることを確認して嘘をついた。
「もう死んでます」
「ほなら、耳を切り取れ。ヒィッ!!」
梅田は引きつった笑いを漏らした。
「お前ら『ソドムの市』を知っとんか?」
誰も答えない。
「死人の耳を切る。あの儀式をしよんや。恐怖の極致をおまえらに見せたンわ」
「そんなん、切れまへん。切れしめへん」
「人間は命惜しさに何でもしよんや、みんなこいつをよう見とけ」
梅田は、ショットガンの銃口で行員の頭を小突いて脅した。
(堪忍したってな、堪忍したってな)
梅田に脅された行員は、生きていている同僚の耳を切りはじめた。
(アッーーーー!!)
死んだふりをしていた行員は、激痛のあまりに失神をした。
「国家の戦争では人を殺したら勲章もらえよんや。俺は精神異常やのうて道徳をわきまえたらんだけや」
こう言い放つと、つまんだ耳を投げ捨てた。
梅田は、実存主義者である。この、物事の本質を無碍にする即物的な実存主義が、梅田たち団塊世代のバイブルであったのだ。
そしてまた、梅田は少なからぬ額を書籍に費やす読書家で、ニーチェやフロイトの思想書を愛読し、スターリンやムッソリーニなどの伝記にも手を出していた。
午後5時56分、梅田は若い女子行員を集合させた。
「おまえら服を脱がんかい!! 10秒以内に脱げへんと、順番に撃ち殺したんぞ!!」
銀行内には警官と男性行員の遺体が転がり、裸体の娘たちが肉の盾として梅田を護っていた。
その異様な光景を、銀行のシャッターの隙間から1台のカメラが捉えていた。
翌日、大手新聞社のスクープとして、その写真が白日のもとに晒されることとなる。
※参考資料
産経新聞大阪本社社会部『大阪の20世紀』
毎日新聞社社会部『破滅 梅川昭美の三十年』
福田洋『三菱銀行人質強殺事件』
Wikipedia『三菱銀行人質事件』