いつか王子様を
意識を失った彼女を抱いて、トトはその体温がゆっくりと低下していくのを服越しに感じていた。
背中を斜めに大きく切り裂かれ、その傷は肩口の部分など骨にも達するほどだ。膨大な量の出血が、彼女のドレスだけでなく抱き留めている己の衣服にまで染み込んでいく。熱く濡れて重く固まり、鉄の匂いが鼻をつく。けれどそれは彼女の体液でもあるので、別段不快だとは思わない。
深い傷だ。普通ならばまず間違いなく致命傷であり、数分と持たずに息絶えるだろう重傷だった。彼女でなければこのまま息を引き取っていたはずだ。
だが、トトはそれを許さない。
薄く口元に笑みを刻んだまま、その柔らかな身体を抱え直す。もはや此処に居続ける理由もない。特に断りなく以前から勝手に彼女へ施していた魔術が、これから消えかけた命を繋ぎ傷を癒してくれるはずだが、安静にしていた方が良いのは確かだ。
「、マリ、アンヌ」
「気安く呼ぶな」
怯えたように上がった声が耳に届いて、トトは反射的に言い放った後でその方向を睨み付ける。声自体には聞き覚えがあった。トトがこの世界で一番気に入らない人間のものだ。
例えその相手がこの国の次代の王だとしても、トトにとっては関係がない。これまでかろうじて敬語を使っていたのはあくまで彼女のため、彼女の立場を考慮しただけに過ぎない。
あの男のせいで彼女が心身ともに深い傷を負い、だというのに誰よりその心を捧げられている事実は、傍目からも明らかなほどであり腹立たしいことこの上なかった。
トトとその腕の中のマリアンヌを、周囲の人間共々、かの王子が困惑した顔で視線を向けてくる。刃物を振り回した犯人は兵士達に捕らえられたが、深い傷で死にかけた彼女を抱きしめて笑う魔術師の異様な様子に気付いたらしい。
マリアンヌの毅然とした態度は大臣や兵士から羨望を集め、細やかな気配りと優しさは侍女や侍従達の敬愛の的だった。広間でこの状況を目撃した者、あるいは騒ぎを聞きつけて駆けつけた人々は、特に彼女に仕えていた者ほど半狂乱になって駆け寄りたいところだろう。そうしないのは、ひとえに彼女を腕に閉じ込めるトトの存在があるからだった。
「お前は、マリアンヌを、どうする気だ」
「どうもしないさ。それにどうにかするにしても、あんたには関係のない話じゃないか。あんたはその女を選んだんだろう」
わざわざ畏まった王子としての名前を口にするのも面倒で、投げやりに吐き捨てる。王の頂点の次に位が高いだろう相手へ向けているとは思えないぞんざいな喋り方が意外だったのか、王子の目が益々開かれた。
済んだ青い瞳が、曇ってもいないのにろくなものを見ていないという事実にトトは笑い出したくなる。マリアンヌもあの目が綺麗で素敵だとよく褒めていたけれど、彼女を眼中に入れようともしない目玉など、トトには硝子玉も同じだ。いや、それで良かった。王子がマリアンヌを見ていたら、確かに彼女はこれほどまで傷付かずに生きることが出来ただろうが、トトが間に入ることは難しくなっていたに違いない。
「全くもって、愚かな王子もいたもんだ。王妃として比類ない、王妃となるためだけに存在したこの人を捨てて、何の取り柄も教養もないそこの女を取った無能が。まあ、それは僕にとってもあんたにとっても、この上ない幸運だったわけだけど」
正しく国のための王子であったなら、マリアンヌを選ぶべきだった。国を治める王の妻として迎えるなら、未来の王妃として十分な教育と躾を施され、自覚を持ち己の身をそうして磨き続けてきた彼女がまさに適任と言えた。そして国の民を統治する責任を持つのなら、そこに感情も嗜好も差し挟むべきではなかった。
だから、トトにとってはこの王子が王子らしからぬ人物だったのが幸いだ。国よりも自身や恋人の感情を優先するような輩で良かった。そうでなければ、少し手間を掛けなければならなかっただろう。
「だって僕は労せずこの人を手に入れられるし、あんたは僕に殺されずに済むんだから」
トトの台詞に、場は再度凍り付いた。
とはいえ、先程よりも周囲の動きが戻るのは早い。言葉面だけを考えれば、王族殺害の意図を明言したのだ。家臣たちが気色ばむのも当たり前だった。大臣や兵士達が、顔を赤くしたり青くしたりして此方を睨んでくる。
「き、貴様……!王子に向かってなんと無礼なことを、たかが魔術師の分際で……!」
「魔術師の分際?その魔術師がどういう力を持っているか、少しは考えてものを言ってるんだろうね。あんた達の頭だけを消し炭にすることも、体中の水分を凍り付かせることも、足の骨を神経ごと粉末にすることも、僕にとっては数秒の呪文で済む」
トトは唇の端を嘲笑の形に吊り上げて、ゆっくりと立ち上がった。マリアンヌを腕に抱いたままだが、拾われてから彼女に目を掛けられ優遇されてきたおかげで無事に肉が付き成長して、人並みの青年くらいの身長と体格は得られた。割と魔術には体力も必要となる。細い女性一人抱えるくらいわけもない。
それよりも、トトが少し動いたくらいであからさまに怯えて身を引く周囲の人々の反応の方が可笑しかった。
彼らにとってトトは魔術師の人間というより、得体のしれない生き物であり魔獣に近いような相手らしく、手綱を握っていたマリアンヌの意識がないせいで余計に恐怖の対象となっているようだ。無遠慮に刺さる畏怖の視線は、幼い頃から向けられてきた目とそっくりそのまま同じである。
「あれほど僕を魔のものに近いと言っていたのに、魔とはどのようなものかを理解している人間がどれだけいることか。みんな同じだ、くだらない。僕にとってはみんな同じ。この人以外は」
マリアンヌは違った。トトへ躊躇いなく手を伸ばし、真正面から瞳をのぞき込み、その力が望ましいと笑った。自身も歳二つしか違わないくせに、背伸びをして姉か何かのように振る舞って、手を握ってくれた。
彼女が己を拾ってくれた時の言葉を、トトは一生忘れないだろう。彼女にとっては冷酷さや無慈悲を気取った台詞でも、トトにとっては何より望んだものだった。
「マリーはもらうよ。あんたは彼女を捨てて、僕は賭けに勝ったんだから、文句は言わせない。言ったって無駄だけどね」
「ま、まて……!マリアンヌは、私の大切な家族で、」
「家族?婚約者だったんだろ?それをあんたが捨てたんだろ?」
「捨ててなど!!」
「そこの女を選んだ時点で、捨てたも同じだ」
相手をしているのが億劫すぎて苦痛になってきたので、トトは移動の魔術を紡いで発動させる。
これでようやく彼女が自分のものになるのだと思うと、嘲りでも軽蔑でもない、心からの笑みが零れるのが分かった。彼女といる時は何度か浮かべたことがあって、綺麗な顔をしているのだからもっとそうやって笑ったらいいのに、と不満げに言っていた彼女が脳裏に浮かぶ。
愛想笑いなど滅多にしないトトは、真実嬉しい時や楽しい時しか笑わなかったし、城内にいるとそのような機会は少なかった。マリアンヌの身分の高さから、室内でトトと話をする時でも大抵侍女がいて、外なら猶更付き人は増える。二人の時間が少なくて、彼女が他人に関心を払えばそれはトトにとって苛立ちの対象となった。
いつだって不満だった。彼女が彼を好きなことが、多くの侍従や兵士達に目を掛けていることが、貴族や大臣たちに微笑みを向けて話をすることが、トトにはずっと不快だった。
けれど、その日々からようやく脱却できる。彼女を、己だけの彼女に出来る。
「行こうか、僕のお姫様」
優しく笑って、トトは彼女の好きだった絵本の王子様のように、血で汚れた額へと柔らかく口付けて、その場から転移した。
トトは両親の顔を覚えていないし、自分が捨てられたのかどうかも知らない。
既に死んでいるのかもしれないが、可能性として高いのは黒髪黒目として生まれてきた、桁違いの魔力を有する我が子を恐れてどこぞの研究施設に売ったという線だ。魔力が高い人間というのは、魔に近いとして嫌悪される反面、魔術や呪いの実験へ使用される需要に事欠かない。
この国において魔術を使える者は希少であるにも関わらず、その国家規模での風習と習慣によって魔術師の身分自体は低い。貴族やそこそこ財力のある商家に産まれればまだ擁護されるが、庶民で魔力を持つ人間は多くが差別的な扱いを受ける。迫害とまではいかなくとも、一般人よりもかなりその命が軽視されるのは確かだ。魔術に利用価値を見出し、偏見の薄れている隣国へと逃れる者も多い。
とはいえ、何の後ろ盾も金も物も持たないトトのような子供が、身一つで旅をして国境を越えるのはほぼ不可能と言って良かった。
結果としてどこぞの施設から逃げ出した幼少期の辺りをトトはあまり覚えておらず、その日暮らしの生活で黒髪を隠しながら貧民街を放浪して、ものの数年であっという間に人間不信になった。魔力だけは豊富にあったから、捨てられていた魔術書を擦り切れるほど読み込んだ後は独学で必死に幾つかの魔術を覚え、身体能力の強化や窃盗の手段として利用していた。
お世辞にも恵まれているとは言えない環境ではあったにせよ、割とトトにとってその生活は苦ではなかった。衣食住に大して興味を持てなかったトトは、権力にも金にも一切執着しなかったからだ。良い暮らしをしたいと思ったことはない。むしろ上流階級だの何だのと高慢に振る舞う者達こそ、トトの黒髪を見て眉を顰めては魔の者だと吐き捨て、視界から排除しようと躍起になってくるのを知っていたから、出来るだけ避けたいものの一つだった。
トトの魔力はトトのものであり、どうあっても自分から切り離すことが出来ない一部だ。髪の色も目の色も、望んだわけではないにしろ自分を形作る一因であり、生まれながらに持つものであり、それを厭われてもどうにもできない。その色さえなければ、魔力を持っていなければと言われたこともあるけれど、トトはそれがなくなると自分自身が欠けることを知っていた。
己が持つ魔の力や黒の色を憎いとは思わなかったし、それを叫んでくる周囲を恨もうとも思わなかった。何かに対して憎悪や怨念などの強い感情を持つには、それなりに気力というものが必要になる。トトはそれを面倒くさいと考えた。
他人が己を受け入れられないのなら、それでいい。己も他者を受け入れないというだけの話だ。
そうして生きていた幼いトトは、八つの時に見つかって施設へと連れ戻され、すぐに城から来たという人間たちと面会した。非常に強い魔力を持つトトの髪も瞳も、滅多にないほどの純粋な黒色だったため、その噂が城まで届いたらしい。いや、丁度そのような人材を彼女が探していたからこそ、情報が拾われたのだろう。
施設に閉じ込められた数日後、トトはマリアンヌと初めて出会った。
「この前街で見つかった、すごく魔力の強い子供というのはあなたのことね」
十歳になったばかりのマリアンヌは、伴の二人を一歩後ろへ下がらせて、トトと顔を合わせて見下ろしてきた。浮浪者の暮らしをしてきたトトはがりがりに痩せていて背も低く、彼女よりかなり目線が低かったのだ。
整えられた淡い色の髪に染み一つない白い肌、水色の上品で可愛らしいドレス、幼いながらも躾の良さを窺わせる一つ一つの挙動。明らかに良いところの貴族のお嬢様だと分かる少女に、トトは無関心を通そうとした。こういう人間に何を言ってもどう振る舞っても、汚いものを見るような目が向けられるだけだと知っていた。
「決めた。わたくし、あなたを引き取るわ」
年少ゆえの甘さと確固とした意志が混じるその声に、トトは酷く驚愕したことを覚えている。
顔を上げて見えたのは、畏怖や侮蔑の目ではなく、ただ真っ直ぐに自分を捉える大きな澄んだ瞳だった。
「勘違いしないでね。別に慈善事業でも何でもないの、わたくしは魔術を使える人間がほしいだけ」
トトよりも少しだけ年が上というだけの少女は、大人びた、けれど明らかに冷たさを装った様子で続ける。
「酷い人間って思ってくれていいわよ。わたくしがあなたを引き取るのは、あなたが強い魔力を持っていて、いつか優秀な魔術師になってあの人を守ってほしいからだわ。そうでなければ、あなたと会うこともなかったでしょう。わたくしに必要なのは、あなたの持つ黒が証明している、その力を使えるあなたなのよ」
トトは、まだその時は名前すら知らなかった少女の宣言に、そして背けられることのない視線に縛られ、呆然と立ち尽くした。今まで誰からも言われなかった言葉だ。そして口にされて初めて、トトはそれが己の求めていた言葉だったのだと気付く。
深すぎる黒も強すぎる魔力も、トトの一部であり手放すことの出来ないトトのものだ。今までずっとそれを不要だと、忌々しいと言われ続けてきた。研究という意味での利用価値はあったのだろうが、そちらはあくまで魔力だけを指している。誰もがトトと魔力を別に考えた。誰もトトの望む言葉をくれたことはなかった。
無表情を取り繕った顔で、少女はトトへ手を差し出してきた。
「あなたの持つ力がなかったら、わたくしはあなたを選んでいない」
トトの持つ力ごと、自分をすべて欲しいと言ってくれたのは彼女が初めてで、きっと最後だ。
反射的に手を伸ばして少女の手を取ったトトに、彼女は一瞬驚いた顔をし、それから糸が切れたように緊張の緩んだ年相応の泣き出しそうな笑みを浮かべた。
それを目の当たりにしたトトは自分が何かに掴まってしまったことを理解した。