いつか王子様と
背中に灼熱が走る。痛みよりも熱だった。
己の芯を振動させるような嫌な感触があって、それがきっと骨を削られた音なのだと意識の隅で察する。それだけ深く、刃はマリアンヌの肉を割いたのだ。
一瞬の凶行に、周囲はすぐには反応出来ずに水を打った静けさで、マリアンヌは斬られたそのまま体勢を崩して前のめりにゆっくりと倒れる。
いけない、と遠のく意識の中で場違いに考えた。このままでは彼女へ倒れ掛かってしまう。飛び散っているだろう血で綺麗な彼女を汚してしまう。あの人の大切な、少女なのに。
マリアンヌの霞んだ視界に映るあの人と隣の少女は、目を見開いて此方を見ている。突然のことに信じられないというような顔をしていて、けれど危険を察知したのだろうあの人は彼女の身体を咄嗟に抱き寄せていたようだ。胸が痛む気もしたが、それも残り香のようなものだ。
誰かに抱き留められる。急速に視界が狭まって感覚が遠くなって、それが誰かも分からない。
支えてくれたらしい腕の感触はおろか、自分の体温すら感じられなくなっていく。指先が、頭が、足が腕が冷えていく。多分出血のせいだ。どくりどくりと耳の傍で鼓動の音がして、それがゆっくり遅くなっていく錯覚を覚えた。いや、錯覚ではないのかもしれない。
「君は愚かだね、マリー」
耳元で聞こえた声に、そうね、と返したかった。それはまさしくその通りだと、マリアンヌも思ったからだ。
声は出ない。ひゅ、と空気を吸い込む音がして、それからごぽりと喉の奥から生暖かい液体が溢れる。血液のようだ。多分刃が肺に達したのだろう。
ようやく周囲から悲鳴が上がり、己を斬りつけた人物が兵士から取り押さえられるのを遠い物音と気配で察する。こうして白昼堂々、多数の人間が集まる広間で仕掛けてきたということは暗殺者ではなく、貴族の子飼いの私的な兵士だろうか。平民が王子の妃になるなどとんでもないと主張している者達の。それももうすぐ息を引き取る己にとってはどうでも良いことだ。
私は確かに愚かだと、マリアンヌは思う。よりによって愛しい愛しい人の、恋人を庇って死ぬなんて。
けれど、仕方がないことでもあった。マリアンヌは、彼が好きだった。とてもとても、好きだった。彼の悲しむ顔は見たくなかった。それだけで体は勝手に動いた。
これで良かったのだ。ただ彼を愛しく思えるうちに死ねて良かった。彼の幸せを祈れるうちにすべてを終わらせることが出来た。
愛しいがゆえに憎いと、この想いを捻じ曲げる前に。
「愚かだ。だが、君らしい」
背中の熱すら遠のいていくのを感じながら、その言葉にマリアンヌは緩く微笑んで目を閉じた。
マリアンヌはとある伯爵の娘で、この国の王子の婚約者だった。
王族の血筋と遠縁にもあたり結び付きが強く、過去幾度も宰相や大臣など輩出している古くからの名家の長女であり、年齢的にも丁度良いマリアンヌは妃の第一候補として周囲から認められていた。
幼い頃からそう言われて育てられ、五歳になる頃に三つ年上の第一王子と顔合わせすることになったが、あの日のことをマリアンヌは忘れない。
幼いながらに端正な顔立ちをした少年は、特に気合いを入れた侍女の手で着飾られたマリアンヌへにっこりと微笑んで、城の庭園から摘んできたらしい桃色の薔薇を一輪差し出してくれた。それはまさしく絵本に描いている王子様そのもので、マリアンヌはあっという間に恋に落ちたのだ。
それからのマリアンヌは、彼に相応しい人間になるため必死に努力した。政治に歴史に地理に語学といった勉学、礼儀作法、ダンス、その他諸々。重鎮や貴族達の顔と名を覚え、宮中や社交界の状況や噂話を把握し、城下町に降りては臣民の様子をつぶさに見て回った。
長子である彼は、次代の王となる人物だ。その婚約者であるのなら、必然的に王妃となり彼を支えなければならない。王を補佐し、人心を知り城内を取り仕切り、彼と国民のために身を捧げる存在であり、また諸外国への外交の顔とならなければならない。
王子は優しくて、妹のようにマリアンヌを可愛がってくれた。それが本当に妹に対しての愛情でしかなくても、マリアンヌは構わなかった。成人し、いつか彼に相応しい人になり、隣に立つだけの存在になれたら、きっと女として見てくれると思った。彼に恥じぬだけの人間にならなければと思った。
彼が好きで、その想いは年々強くなるばかりで、それがマリアンヌを駆り立てる原動力となった。まともに遊ぶことも出来ず、忙しくても辛くて苦しくても、彼の傍にいるためにならと考えれば嫌ではなかった。
だから十歳になる頃、街の施設から少年を引き取ったのも、彼のためという下心があったからだ。考えると酷い話だが、その少年が黒髪で魔力が強いと一目で分かったからこそ、手当てをして衣食住を与えて従者にした。
髪が黒いほど魔の力が強いと言われ、それを魔物に近いと忌避する風潮も残っているけれど、力を持つというのは誰かを守るという意味で非常に重要である。この国で魔力を持つ人間は希少だし、魔術を使える人間はもっと少ない。この国の城にも幾人かはいるけれど、やはり現国王の護衛と研究にその少ない人数が割かれており、王子を守護する者は普通の騎士と兵ばかりだ。術者がいれば、いざという時彼を守るのにきっと役立つ。
そうやって抱いていたマリアンヌの野望は残念ながら、無表情で懐かなかった少年が王子付きを拒否したため叶わなかったが、代わりにマリアンヌの護衛をしつつ魔術の研究結果をいくつも出してくれたため、結果的には国や王子に貢献したわけだ。それはそれで良かったと思う。
ひたすら行動の中心が王子のことばかりのマリアンヌに、終始魔術使いの少年は淡々と呆れていたけれど、何だかんだで助けられていたのも事実だ。
王子が、城下の平民の娘に恋をしたという話が出た頃も、少年が使う眠りの魔術に何度世話になったか知れない。
街中の小さな食堂で働く少女は、栗色のふわふわとした髪にぱっちりした同色の瞳でほんのり薔薇色に染まった頬を持ち、驚くほど可愛らしく素朴だった。金髪で真っ直ぐな髪と碧眼の、少し冷たく見えるらしいマリアンヌの外見とは真逆だった。
中身もどうやら正反対だったようで、マリアンヌが王子を王妃として支え、影に立ちながらも対等に歩いていきたいと願っていたのに対し、彼女はあくまで王子というよりは一人の青年として彼に接したという。そもそも出会った時はお忍びで、王子が身分を隠していたのだからそれも当たり前なのだが。
王子だけを見ていたマリアンヌには、彼が誰かに心を捧げたのだとすぐに分かった。マリアンヌ自身が彼に心を捧げていたのだからそれも必然である。
嘆くだの何だのより、呆然とした。足元がなくなったような気がして、自分がどこにどう立っているのか分からなくなった。
最初は信じられず、それから胸が千切れるのではないかというくらい痛くなって、彼が城下へお忍びで降りたという話を耳にするたび部屋で夜に泣いた。眠れなくて、魔術使いの少年に眠りの魔術を掛けてもらうことが日課のようになった。己は何のために努力していたのかも分からなくて、どうすればいいのか途方に暮れた。
王妃として相応しくなれば、彼の隣に立てるような女になれば、いつかマリアンヌを見てくれるのではないかと思った。それはただの自身の希望であり、儚い願いでしかなかったのだと思い知らされた。
王子が平民の娘に入れ込んでいるという話はまことしやかに城内へ流れ、美しい恋物語として噂されることもあれば、なんと不用意で軽率なと眉を顰められることもあった。王妃も側妃も貴族から選ばれることがほとんどのこの国では、反発する者も多かったけれど、そういった事例が過去にまったく無かったというわけではない。
ましてや王子が、実は頑固で一度決めたならほとんどその意思を翻すことがないと、マリアンヌは知っている。そしてもはや引き返すことが出来ないくらい、彼が少女に惚れ込んでいることは明らかだった。
マリアンヌを知っている者は王子を批判したが、どうしようもないのだと自分自身は悟るしかなかった。例え周りの人間が、平民が相応しくないだの、これほどの婚約者がいるのにと非難したとして、彼がマリアンヌを選ばなければ意味がない。
そして彼が、城へその少女を呼ぶと言うのを国王へ話している聞き、マリアンヌは静かに絶望した。彼の想いはもはや覆らない。彼の目はその少女にだけ向けられていて、結局マリアンヌのものにはならなかった。
嫌だと喚き地団太を踏むほど、マリアンヌは幼くなかったし、泣いて縋るには彼のためにと育てた矜持が邪魔をした。少女を陥れるほどの悪人にはなれず、せめて見苦しい真似はするまいと己を戒めることしかできない。
彼を好きでなくなればきっと楽になったのに、心というのは思うようにはいかないようだ。叶うかもしれないと希望を持っていた時、その想いはマリアンヌへ幸福をもたらしたのに、叶わないと思い知らされてからは、ひたすら痛みと悲しみで胸を苛んだ。捨てたいのに捨てられない。それだけ長く強く、マリアンヌは彼のことを想い過ぎた。
彼が好きだ。もはや激痛しか生まない感情だとしても、マリアンヌは彼のことが好きだった。
「マリー。賭けをしませんか」
「賭け?それは一体、どのような?」
肩より上で適当に切られた黒髪の、もうマリアンヌより頭一つ分ほど身長が伸びてしまった少年は、相変わらずの仏頂面で言う。
「次にあなたが、王子のために馬鹿げたことを仕出かしたら、僕の願いを一つ叶えてください」
「馬鹿げたって何よ馬鹿げたって。王子のためになるなら、何も馬鹿げたことなんてないじゃない」
「それでは、その行動があなた自身も愚かだと思った場合でいいですよ」
「変な賭けねえ。でも、まあいいわ。トトがそんなこと言うのって珍しいものね。何か欲しいものでもあるのかしら」
マリアンヌの問いに、さてね、と少年は答えなかった。物欲のない彼がそのようなこと言うのは初めてで、だから少しの間胸の痛みを忘れ、マリアンヌは微笑ましく思ったものだ。
何を欲しがっているのかは知らないが、マリアンヌの用意できるものであれば、賭けの結果がどうであれ彼に与えようと考えた。
そして次の日、王と王子と少女の顔合わせがあり、その場でマリアンヌは少女を庇って斬られた。
最後に目蓋を下す直前、霞んだ視界の向こうで見知った黒髪の少年が、酷く嬉しそうに笑ったと思ったのは気のせいだっただろうか。