第9章 割れた卵零れたミルク
屋敷の中を手探りで歩く。この建物にはまだ慣れない。
いつもならばこんなとき、そっと手を引いてくれる相手がいない。向こうは口が利けず、こちらは目が見えない。どうやって意志の疎通をするのかと時々聞かれるが、側にいればそれなりにやりようはあるものだ。だが今は、そもそもその相手が側にいない。
「ヤマネ?」
壁を伝って歩く眠りネズミに、親しい青年の声がかけられた。驚いたような三月ウサギの気配を頼りに彼の胸に飛び込む。
「ヘイア、アリスがいないんだ」
「え?」
眠りネズミの言葉に、三月ウサギの背にもイヤな汗が浮ぶ。そういえば先程からハートの女王たちが慌ただしい。まるで何かを……誰かを探しているように。そしてその前にも彼らワンダーランドの王族、貴族たちは慌ただしかった。誰かが訪れていたようだったが……何かあったのだろうか?
「時計ウサギ様に話を聞いてみる?」
「ヤマネ……でも……」
三月ウサギは元王宮勤めとはいえ、王子や伯爵と直接話せるほどの身分ではない。彼がいつも親しくしているのはグリフォンやメアリアンたち使用人の方だ。必要があれば王族にだって意見できる度胸のある三月ウサギだが、必要なければ極力なれなれしい関わり方をするものではないと思っている。
だが彼の養い子である眠りネズミの意見は違った。
「アリスに何かあったとしたら、それにはきっと時計ウサギ様が関わっているはずだよ」
「どうして」
「あの方が、アリスの一番大事な相手だから」
盲目の眼を一瞬だけ開き、彼は射るように三月ウサギを見つめた。視線とは言えない視線を受けて、三月ウサギが意を決したようにきゅっと眠りネズミの手を握って歩き出す。
「わかったよ、ヤマネ……あの方たちに聞いてみよう」
◆◆◆◆◆
「伯爵、あの娘が――」
その報は、意外な人物からもたらされた。
「あ、ちょ、ラヴィエス!」
先刻からアリスがいないのだと館中を探し回っていたハートの女王は、駆け出した弟の後姿に手を伸ばす。届くはずもなく、宙に浮いた手をゆっくりと下ろした。
「どうしよう、俺たちも――」
「オルドビュウス」
兄弟のやりとりを傍らで見守っていたハートの王が、その行動を引き止める。
「やめなさい。あなたは行かなくていい」
「……ティアラーデ?」
隣国の王女の言葉に、ハートの女王は動きを止めた。
「どうしたんだよ。アリスが大変だって言うなら、あいつも冷静ではいられないだろ。何があるかわからないけど、俺たちだけでも加勢した方がよくないか?」
「……ええ、そうね。時計ウサギたちにとってはね」
ハートの女王である彼と対になるハートの王の名を持つ王女は、渋い顔をしている。
「でも、それをすることであなた自身は何を得るの? 時計ウサギはすでに私たちを裏切ったのよ。今更わざわざ庇ってやる必要なんて、どこにあるの?」
言われて、ハートの女王が碧い目を見開く。
確かに時計ウサギはハートの女王と王を裏切り、ジャックと裏取引をしようとした。白薔薇の国を捨て、自分の利益だけを考えた。
「あいつを助けても助けなくても、私たちの未来はもう変わらない。時計ウサギは白薔薇の国を捨てたの。この国を誰よりもジャックに渡したくないと願っていたあなたを裏切って……だったらもう、頑張ったって無意味だと思わない? あなたが手を貸したって、時計ウサギはそんなことを恩に思う性格じゃないわよ」
ハートの女王オルドビュウスは時計ウサギラヴィエスの異父兄、ハートの王ティアラーデはラヴィエスの異母姉。
立場は似たようなものだが、二人の考えは違う。ましてや一度ジャックにハメられてこの精神病院に閉じ込められるようになったハートの王は、もはや自分の弟ジャックも、それと手を組んだ時計ウサギも信用はしない。
「ここであいつに手を貸しちゃったら、この国は二度とあなたの手には戻らないわよ」
ハートの王の言葉を聞いて、一度は駆け出そうとしていた女王はそれを止めて落ち着いたように見えた。
「ティアラーデ」
だが違った。
「そうだな。確かに俺とラヴィエスの目的はくい違っているのかもしれない。ラヴィエスに手を貸したところで、俺の願いは叶わない」
一度寂しげに目を伏せた女王は、それでも毅然と顔を上げて答えた。
「でも俺は、自分が裏切られたからと言って、相手を裏切ろうとは思わない」
「……そう」
「だから行くよ」
ハートの王は深く深く溜め息をついた。
「確かに時計ウサギは身勝手だけど、率先して人を殺したがる性格ではないわ。ジャックに白薔薇の国を渡したくないのも単に私たちの意地という以上の意味はなくて、別にこの国の大勢の人間に取ってはジャックが二国を統合しようとラヴィエスが王になろうと、平和に暮らせればそれでいいのよね」
だからと言って、自分が裏切られてもその相手を守ろうとする人間も珍しい。王はもう一度溜め息をつく。
自分たちが引くのはつくづく貧乏くじばかりだと。
「……それでこそ私の愛したオルドビュウスよ」
ハートの女王はにっこりと笑った。
◆◆◆◆◆
ジャックが剣を抜く。
「おい……本当に殺すのか?」
チェシャ猫が戸惑った顔で止めようとした。自然とアリスとジャックの間に身体を割り込ませ、少女を庇うようにする。
「時計ウサギを操る弱味となりそうだからこそ、この少女には価値があった。だが俺に従わないというのであれば、意味ないだろ?」
平然と言い放ち、ジャックは剣を構えている。冷めた眼差しで白刃を示し、チェシャ猫に退くように指図する。
「それともチェシャ猫、今更になって情でも芽生えたのか? 弟の恋人相手に。それとも、弟の恋人だから?」
にやりと下世話に笑ってみせるジャックの笑顔は、形こそ笑顔ではあるものの本当には笑っていない。
「……そんなわけないだろ」
「だったらさっさとそこを退けばいい。誰よりもラヴィエスを憎んでいるのはあなただろう、エルドラウト王子」
「……」
ジャックの言葉に黙り込み、チェシャ猫はこれまでアリスを庇うようにあげていた腕を静かに下ろした。
「……それでいいんだよ、チェシャ猫」
にっこりと笑ったジャックが、己よりも実年齢では倍生きているが、外見ではずっと幼い少年の肩を押して退かす。
ジャックはアリスと相対する。
口の利けない少女は静かな眼差しでジャックを見上げていた。さすがにアリスにもこのやりとりを見れば、ジャックが自分を殺そうとしていることはわかっている。それでもその瞳に、怯えも嫌悪もない。
ただ、凪いだ湖のように静かに、自分を殺そうとする隣国の王子を見つめている。
「最期に何か望みはあるか? アリス……いや、本名はアリスタだっけ? 恋人のついでに殺される君に、最期の願いくらいプレゼントするけど?」
とは言ってもその口じゃ願いがあっても言えないか。そうジャックは言うと、剣を振り上げようとした。しかし。
アリスが小さく唇を震わせる。
「何?」
眉をしかめてその唇の動きを読み取ろうとジャックは目を細める。彼の努力がかなうより先にチェシャ猫が答を告げる。
「ご主人様……」
「ああ、そう」
それを聞いたジャックの顔がふいに歪む。
「アイシテルってわけね、あいつを。ラヴィエスを」
彼の表情の変化に、アリスの言葉を通訳したチェシャ猫が怪訝そうにする。
ひょっとして、ジャックは――。彼が本当に欲しがっているものは、国ではなく……。
「でも残念、君の大事な人は助けには来ないよ。君はここで死――」
「そんなことはないさ」
闖入者の声は誰もが聞きなれたものだった。
「ラヴィエス!」
時計ウサギが、扉の外と室内の境界に佇んでいる。彼の背後には黒服の男がいた。
「どうしてここが?」
「公爵夫人が協力してくれてね。ジャック王子、これは立派な契約違反じゃないか?」
どんなルートを使ったものか、ジャックとチェシャ猫の密会は公爵夫人に見張られていたらしい。彼女は彼女でアリスに恨みもあれば、ジャックやチェシャ猫とは手を組んだはずの同盟者だ。しかしそれ以外の感情で、時計ウサギともまだ繋がっていたらしい。
敵味方が単純な利害関係で割り切れるのであればどれほど楽だろう。そうであればアリスもジャックの誘いに頷いたはずだ。
けれどそうはならない。どんなに最も効率のいい計画を立てても、その通りには動けない人の心。
富と権力と才能の全てを兼ね備え、自力で王国をも獲れるだろうという完璧な王子であるジャックが唯一、得られないもの。
「アリスタを放せ」
「放すと思うのか? お前の弱点だと知っていて!」
それ以上時計ウサギが近づかないようにと、ジャックは体勢を入れ替えてアリスを羽交い絞めにする。
「逆だよ、ジャック。僕の行動に歯止めをかけるのは彼女が生きていてこそだ。それ以外はもう何もいらない。国ですら、いらない」
時計ウサギは宣言する。
「でもここで彼女が死ぬのであれば、僕は修羅にでもなろう。白の王に継げと言われたこの国を継いで、君を殺すただそれだけのために何人でも傷つけ殺し悲しませよう」
ジャックに押さえつけられ彼の腕の中に拘束されたアリスが、そんなことをするなというように首を横に振る。時計ウサギはそれを見つつ、しかし更に拒絶の意を込めた。
「ジャック、君が僕の言葉を疑うのは勝手だ。でも一言言っておけば、僕は君じゃない。君は王国が欲しいようだけれど、僕は国なんか、最初からいらなかった」
「……傲慢だな、そこのチェシャ猫など、お前にそうして譲られた国を手に入れるためにどれほどの辛酸を舐めたと思っている。それをそんな一言で斬って捨てるのか」
「わかっている、自分の性格の悪さくらい。でもそれが真実なんだ。国なんかいらない。僕は何度だってそう言った。それで納得がいかないなら、直接王様と交渉でもしてくれ」
優勢であるはずのジャックが不愉快だという表情を浮かべる。
時計ウサギは今度はチェシャ猫に目を向けた。
「兄上」
「……僕はお前を、弟などと思ったことはない」
「でしょうね。俺も形の上だけですから。当たり前でしょ。たかだか存在知らされてから四年間で王位を争うライバルを兄弟だなんて思えるわけありますか。だけど不愉快なことに、あなたは生物学上僕の兄だ」
ジャックと同じ紅い瞳にチェシャ猫と同じ金色の髪を持つ時計ウサギは言った。
「本来であれば、僕より、オルドビュウス兄上よりもあなたが国を継ぐにふさわしいのでしょうね。あなたには僕と違って野心も熱意も欲望もある。いい国王になりますよ」
「なれない……この身体では」
「そうでしたね。僕がどんなに王にはなりたくないと言ったところで、健康であるが故に国を継がせられそうになっているように」
人は時計ウサギを幸せだというのだろう。チェシャ猫よりも。
チェシャ猫も時計ウサギも、願いが叶わないという点では同じでも。
「時計ウサギ、この子を返すなら一つ条件がある」
このままアリスを抱えて睨み合っていても仕方ないと判断したのか、先程よりも冷静になった声でジャックが時計ウサギに問いかける。
「お前が白の王を継ぐ気がないというのであれば、その証をここで示せ」
「……いいですよ」
肩を竦めて時計ウサギは頷いた。内容のわりにとてもあっさりと。そして確認する。
「とは言ってもここにあるものは限られていますから。じゃあ、僕がオルドビュウス兄上たち白の王国を守ろうとする勢力を裏切っていることだけは明らかにしましょうか……おい、帽子屋!」
時計ウサギは、彼の背後に立っていた黒服の男を呼びつけた。彼にこの密会のことを教えた公爵夫人の手の者、ハートの女王に恨みを抱く、いかれ帽子屋だった。
「僕はこの王位継承戦争から降りる。もう誰とも手は組まない。お前がハートの女王を殺したいというのであれば好きにしろ」
オルドビュウスを殺害しても構わないと言われ、それでも黙っていた帽子屋は目を見開いた。
「何故……」
「言っただろ? 僕は性格が悪いって」
室内では笑声があがる。
「あははははは! まさかそこまで言うとはね! 確かにその残酷さ、我が兄上に間違いはない!」
ジャックがアリスから手を離し、腹を抱えて笑っていた。逆に厳しい顔つきをしているのはチェシャ猫だ。
「売るのか、アリスの代わりに、オルドビュウスを……」
「そうですよ、言ったでしょ。僕はあなたたちとは違う」
異父弟を前に、チェシャ猫は複雑な表情をしている。怪我はしておらずとも精神的に疲れたのか、アリスが心なしかよろよろとした足取りで時計ウサギのもとまでやってきた。
その顔は傷ついた表情をしている。時計ウサギにとってはどうでも良い存在であっても、彼女にとってハートの女王はワンダーランドにいる自分の面倒を見てくれる人だ。温厚な性格の彼を嫌うなどできない。
それでも時計ウサギはその道を選ぶ。
全てを手に入れることなどできないと知っているから、手の中にあるものだけを守ろうとする。
君さえいれば何もいらないとは、何て残酷な言葉だろう。
愛しているとは、何て罪深い響だろう。
「……やっぱり、俺とあんたは似ているよ。似ているから嫌いだよ」
小さな少女を抱しめる異母兄の姿に、自分にも大切なものができたらこのように無様な姿を晒すのかとジャックは暗く嗤う。
ふと窓の外に耳を澄ますと、店の門前が俄かに騒がしくなった。路地から出てすぐの通りの方で馬の嘶きも聞こえている。
「ああ、お迎えが来たようだぞ」
ハートの女王たちが、馬車で時計ウサギとアリスを迎えにやってきたのだった。
◆◆◆◆◆
紅い花が揺れている。大輪の薔薇の花。
「もう、終わりね」
主である伯爵の帰らない屋敷で一人、王妃は世話するものまで失った薔薇の花を愛でる。
薔薇は扱いの難しい花だ。
美しい花を咲かせるために、他の枝を間引く。土、陽光、肥料、水、どんな手入れを欠かしても見事な花を育てることはできない。
世話する者がいなくなって、せっかく隣国から土を貰って咲かせた屋敷の薔薇の花も枯れようとしている。
それでも彼女はその花を愛でる。
「エルドラウトは身体が成長しない病、オルドビュウスは半陰陽、そしてラヴィエスに、国を継ぐ気はない……継いだとしてもそれは、私の見た夢の先ではない」
わかっていたのだ。
花の命は短く、それは咲かせるのにどんなに手間がかかろうとも変わらない。
いつか枯れる夢だったのだ。この園もやがては廃園となるだろう。それでもそれが……
「私の見た夢だ」