第8章 夢現実の微笑
ご主人様が困っている。
じゃあ、私の出番だ。
私が助けないと。
私が、せめて私ができることを……
◆◆◆◆◆
「あれ?」
数刻前の白の王との奇妙な緊迫感溢れるやりとりの余韻も引いた頃。
「ハートの女王? どうしたのですか?」
ハートの女王がいつも通りのドレス姿で、何かを探すようにワンダーランド中を歩き回っていた。グリフォンが話しかけるが、彼は怪訝に首を倒す。
「……アリスはどこに行ったんだ?」
「え?」
暫く前から、少女が一人、屋敷の中に見つからない。
◆◆◆◆◆
探さないと、探さないと、事態を解決するための鍵を。
ご主人様が困っている。アリスにとって、理由はそれだけで十分だった。困っているなら助けなきゃ。
ワンダーランドを勝手に抜け出して、アリスは街中を彷徨っていた。あの屋敷の中では皆が暗い顔で何か考え込んでいるばかりだ。けれど外を探せば、何かいい方法が見つかるかもしれない。
あの時のように――。
主である時計ウサギのものと良く似た金髪を街中で見かけた。
「え? ……ちょ、アリスか!? なんで君がこんなところに!?」
先日のマッド・ティーパーティーの一件以来で顔を合わせたチェシャ猫が、ぎょっとしたように突然自らの腕を捕まえたアリスを見つめている。
見た目は同年代の二人だが、実年齢には差がある。だが今はそんなことよりも、同じ子ども外見でも本当にただの子どもでしかないアリスがワンダーランドを抜け出してこんなところにいるのが問題だった。
「オルドビュウスや時計ウサギたちは一体何をしているんだよ……」
アリスがチェシャ猫を捕まえたのは、路地裏に差し掛かろうとする曲がり角だった。仕方なく、チェシャ猫はそのままアリスを引っ張っていく。
「さすがにここに置き去りにするわけにもいかないしな……」
路地裏である。
裏通りである。
チェシャ猫がアリスに捕まった辺りは、通常ならこんな子どもや若い娘は立ち入らない辺りだ。アリスだけでなくチェシャ猫自身も身なりといい外見といい相当浮いているのだが、待ち合わせ相手がここを指定したのだから仕方がない。まったく、なんてことだ。
「こうなったら付き合ってもらうよ。僕とジャックの会談……いや、密談にね」
娼館の入り口を指差して、チェシャ猫は渋々とそう言った。
◆◆◆◆◆
「あらあらまあまぁ!」
扉をくぐると、何故か化粧の濃い女に上機嫌で迎えられた。
「今は若い子がちょうど少なかったのよ! ちょっと小さすぎる気もするけど、まぁあと一、二年もすれば問題ないわね!」
アリスを見つめながらの女の言葉に、チェシャ猫は顔を引きつらせた。明らかに何か間違えられている。大変な方向に間違われている。女の手が伸びるが、異変を感じたのかアリス自身もチェシャ猫の細い背中に隠れるように背後に回った。
「ちょっと、お姉さん。悪いけど僕らはそういうのじゃなくてさ、ここで待ち合わせを……」
「あら、坊やも店入り志願? うちは生憎と女の子しか扱ってないけど……あなた可愛いわね。いいわよ、そういう趣味の人がいっぱいいるそっち方面のお店を紹介してあげるわ!」
ついでにチェシャ猫も間違えられたようだ。どうやら二人は年齢的に娼館の客になる年齢ではないので、こういった店に勤めることを希望する者だと思われているらしい。
「いや、だからそうじゃなくて……」
店の奥からくたびれた服を着た、人相の悪い男たちが数人出てきた。無理矢理二人を引っ張っていこうとする。
「おい、チェシャ猫!」
うっかり娼婦と稚児にさせられそうになっている二人の窮状を救ったのは、階段の上から多少乱れただらしない服装で降りてきた少年だった。
「何やってるんだよ。俺との約束はどうした」
「そう言うのであれば、ちゃんと事情を説明しておいてくれない? こっちが何か言う前に捕まったんだよ」
店の雑用兼用心棒たちから解放され自由になったチェシャ猫に睨まれて、ジャックは階下へと降りてきた。店の女将に札束を渡しながら事情を説明する。
「と、いうわけであのちっこいのは俺の連れだ。上の一室を借りるぞ。それと、あんたさぁ、この前発布された決まり見ろよな。あっちの娘、どう見ても十六歳以上には見えないだろ?」
「ええ、でもしかし、若い娘が好みだというお客様も」
「いくらロリコンが一部の男のロマンでも、行き過ぎれば犯罪でーす。女を売るのは、最低十六歳になってからの娘にしろって。法律はちゃんと守ってくれないと……ね」
「へいへい、わかりましたよ」
ジャックに連れられて、チェシャ猫とアリスは娼館の一室に足を踏み入れた。
チェシャ猫はある程度なれているようだが、アリスはこんな場所に入ったのは初めてだ。物珍しくて、ついきょろきょろと辺りを見回してしまう。
そんなアリス自身を珍しいものを見るような……むしろ珍獣を見るような目で見てから、ジャックはチェシャ猫の方にその理由を問う。
「で、なんでこの子がここにいるわけ? あれだろ? 時計ウサギの可愛い可愛い恋人ちゃんだろ?」
「そうだけど……なんでワンダーランドから出てこんなところにいるのかは僕も知らないよ。さっき路地裏で捕まったんだ」
「捕まった? あんたが? へぇ、あんたに会いに来たのか、その子」
「どうだろうね? ……どうなんだ、アリス」
呼びかけられた二人の少年に視線を戻したアリスは、しかし質問に答えがたくてきょとんとした顔になる。チェシャ猫に会いに来たというよりは時計ウサギを救う手立てを探しに来たのだが、しかし以前街中を彷徨っていた時もチェシャ猫が力を貸してくれたことを思えば、彼なら何か方法を教えてくれるかもしれない、と考えたのも事実だ。だからあの時咄嗟にチェシャ猫の腕を掴んで引きとめたのだ。
「えーと、この反応はどう受け取ればいいんだ? 筆談でもするか? でも」
「文字書けないってさ。何とか読めるのも少しだけ」
「ああ、そう……」
アリスから事情を聞きだすのを男二人は早々に諦めて、まぁいいかと部屋での自分の位置を決める。ジャックも一応はチェシャ猫やアリスに気遣って娼婦を帰したようだった。そもそも紅薔薇の王子が何故白薔薇の娼館で遊んでいるのかということは知らないが。
「というか、この子いるのに重要な話ってしていいのか? ……まぁ、それはこの子次第か」
「勝手にしてくれよ」
チェシャ猫はとりあえず任せると言わんばかりにアリスをジャックに預けると、自分は部屋の卓に置いてあった水のグラスを手に取る。喉が渇いたからだが、次の瞬間液体を口含んだことを後悔する。
「じゃ、早速本題で。君、俺の愛人にならない?」
むせた。チェシャ猫の噴いた水が飛び散る。
「うわ、きったねぇな。何やってんだチェシャ猫」
「それはこっちの台詞だ、ジャック王子!」
いきなり何を言い出すのかとさしものチェシャ猫も動揺して彼の胸倉を掴みあげる。ちなみに空のグラスはだん、と音を立てて卓に乱暴に置かれた。
「おま、おまえ、さっきの店主には十六歳以下の娘を娼婦にさせんなとか言っておきながら自分はそれかぁあああああ!!」
「なんだよ、愛人と娼婦は違うだろ? それに、いい手じゃないか。ここでこの子人質にしてー時計ウサギは生かしておいてー、俺が権力握ってー、あんたはその成果を教皇庁に持ってってー」
「ラヴィエスを生かす……?」
「そう。最初は殺っちゃおうかと思ったんだけどさ。このまま普通に戦争すれば人材が減るじゃん? ラヴィエスは生かしておいて、俺の下で働いてもらおうかな、と」
「異母兄をそれだけこきつかおうとはいい度胸だな、ジャック。だが父上……白の王は納得しないぞ。どうする?」
「どうするって、その辺りはあんたが何とかしてくれる部分じゃないか? 白の王がラヴィエスを次の王に、とか言い出す前に、なんとしてでもこっちの都合のいいように誘導してくれよ。そしたらうちの親父ごと次の戦いで葬ってあげるからさ」
「……」
子どもの体格であるチェシャ猫に胸倉を掴まれたぐらいでは、ジャックはびくともしない。皮肉なことにその様は、先日ハートの女王が同じように時計ウサギの胸倉を掴んで問い詰めたのとよく似ている。
「この娘が本当に時計ウサギの弱点なら、手元に置いておくことで時計ウサギの行動を制限する鍵になる。向こうからハートの女王たちを裏切る打診が来たのがすでにその証拠だろう? ……さ、どうする、アリス?」
ジャックの言葉の最後はチェシャ猫ではなく、アリスへの呼びかけだった。所在なげに立ち尽くすアリスに、二人の難しい会話はよくわからない。だが、今ここでジャックの誘いに頷けば、時計ウサギと離れ離れになるということだけはわかった。
あんなに寂しそうで、辛そうだったあの人と、離れ離れに。あの人を置いて……。
それは駄目だと理屈ではなくアリスは思った。
自分だけは彼の側にいないと。
「……そうか」
ふるふると首を横に振るアリスを見て、チェシャ猫がゆっくりとジャックの胸倉を掴んでいた手を外した。
アリスは微笑んでいる。そこには何の打算も私欲もない無垢で透明な笑みだ。ふわふわとまるで美しい夢のように。
ジャックはジャックで、解放されたその姿勢のまま、薄い笑みを口元に浮かべている。
「なら、仕方ないか。君を手に入れるのは諦めよう」
そしてその笑顔のまま、ジャックは再びチェシャ猫に話を振る。
「教皇庁の方はすでに動き出しているんだろう? ラヴィエスは両親の身分こそ高いけれど、その出自は不倫の果てに生まれた非嫡子。その点、教会が追求できるな」
「ああ、ラヴィエスをただ追い落とすだけなら……」
ジャックの言葉には頷いたチェシャ猫だが、その笑顔にはイヤな予感しか覚えなかった。突然こんなすらすらと、いくら口の利けない少女とはいえアリスの前で機密事項を口にして。
残酷な美しい笑顔。
「白の王も妻の息子を追い落としたがってたことだしな。だが、あの王は俺の敵にはならない。我が父上も。白の国の方はラヴィエスさえ落とせばなんとかなる。これで目処は立ったな。……だから」
立ち上がったジャックは腰の剣をゆっくりと引き抜く。
「ラヴィエスを抑える手駒とならないのであれば、君の存在は俺にとってはもう邪魔なだけ。死んでもらうよ、アリス」