第7章 鏡の向こうに咲く花
「このままで、終わるものか」
一国の玉座に坐し、男はやつれた目を爛々と光らせて呟いた。
この玉座は紛い物だ。別に椅子や王冠が偽物だと言うわけではない。玉座も王冠を城も本物だ。ニセモノなのは、それらを纏う彼自身だった。
今は会議の時間だった。重臣たちは別室で会議をしている。国王不在の会議室。玉座が本物でも、そこに座る王はお飾り。
数年前の戦争以来、白薔薇の国は衰退の一途を辿っている。無責任に争いを引き起こした国王にはもう誰の心もついて来ない。彼の王子たちには次々と問題が浮かび上がり、こんなことならば、もとから王妃の方を女王としてまつりあげるのだったと嘆く臣下たちの遠慮ない声が届く。
「このままで、終わるものか……」
暗君と称され後ろ指指されて笑われる王は、それでも呟く。
「このままで、……」
その姿はすでに病みきっていた。
◆◆◆◆◆
それは紅という色を尊ぶ紅薔薇の国においてもなお紅をふんだんに使った異色の部屋だった。壁も床も天井も紅、紅、紅、調度類は黒檀で、金の縁どりがある。
その部屋の主の身に纏う色も黒と金が多い。豪奢な上下に縁飾りや紋章は金色の刺繍がされた衣服は、王太子に相応しいものだ。
「ジャック様」
「なんだ?」
部下の一人が報告を携えてやって来た時、彼はお楽しみ中だった。
「……」
半裸の艶かしい美女がジャックの身体に絡み付いている。
「先日のワンダーランドの件ですが……」
主のそんな態度には慣れている部下は、一瞬げんなりした顔をしたものの、すぐに事務的な話へと移った。傍目には享楽に耽るだらしない少年にしか見えずとも、これで紅薔薇の国第一王子、ジャックは有能なのだ。
これで好色でさえなければ更に立派な主なのだが……それは言うまい。
「ああ、ラヴィエスのことか」
美女を侍らせてお楽しみの最中とはいえ、ジャックは政治的な用件については察しが良く、すぐに食いついてきた。
「ええ、我らと同盟を結びたいと。白側の情報提供者となる見返りに、戦後の身の安全の保証を求めていますが」
「それだけじゃないだろう? できれば領地の一つでも、と考えているのだろうさ。こちらと繋がることで逆に弱味を握ることができるとも考えているだろうな」
「私の感覚でも、彼の態度に出ない胸の内の思惑は恐らくそのようでした。よくおわかりになりますね」
「ああ、俺は一応あいつの弟だからさ」
戦争を起こした数年前から険悪な仲の隣国の伯爵を事も無げに兄だと言い切って、ジャックは黒髪をかきあげる。
腕に絡みつかせた女の顎を持ち上げて、啄ばむように口づけながら言った。
「わかるんだよ。ラヴィエスも俺と同じだ。本当に大切な物などこの世に一つもない。ただ欲望のままに手を伸ばして、でもできれば自分の立場も失いたくなくて。俺は王子だけど向こうは単なる伯爵だからな。チェシャ猫にも疎まれているようだし、出過ぎれば打たれる杭だと自分をとわかっているんだろう、自分を安全圏に置いて暗躍しながら、適度なところでやめておく。ああ、血繋がってんなぁと思ったね」
「ティアラーデ様とはそれほど……」
「姉さんが異端なのさ。馬鹿な姉上。十一歳も年下の弟に罠に嵌められて精神病院に幽閉とは」
王家にはつきものの身内同士での争いを何の呵責もなく行ったジャックは、唇をついと歪めて笑う。
「ま、姉上のことはともかく、ラヴィエスは俺の兄だ。しかも俺と張り合うほどの才能を持っている。本人の立場上活かされてないが、敵に回したら厄介だ」
「ではこのまま同盟を組んでしまった方がいいと」
「いや、殺す」
あっさりと、酷くあっさりとジャックは言い切った。
「……殿下、それは」
「生かしておいたらいつ足下を掬われるか。厄介だよ、あいつ。適当に手を組んだら、そのうち消えてもらうさ。姉上と一緒にな」
「チェシャ猫とハートの女王は?」
「チェシャ猫はジャバウォックのお気に入りだからな。俺もあいつには興味がある。だが――あいつは王の器じゃない。それにチェシャ猫のことは、教皇庁でどうにかするだろう? 教皇庁との繋がりは失くすなよ? 人民の心を纏め上げる手立てもなくなるし、敵に回したら終わりだからな。……ハートの女王は、そうだな。あの綺麗で面白い〈女〉は俺がもらってもいいな」
「女……?」
隣国の第二王子の顔を思い出して、部下はひっそりと首を傾げた。確かに綺麗な顔立ちはしているが、あれは男ではなかっただろうか。
「でもまぁ、いざとなったらあの建物ごと全部燃やすってのも手だよなぁ……。そろそろ公爵夫人もうるさくなってきたし、教皇庁が動き出したら白のヤツラはみんな纏めて始末しちまってもいいな」
そういえば、とジャックはワンダーランドの住人に思いを馳せながら最近になって増えたもう一人の存在について考えた。
異母兄ラヴィエスの恋人として突如現われた少女、アリス。さて彼女はどうしたものか。
「そうだな……白のヤツラを全員始末するとなるとさすがにこっちもリスクが高いな。ラヴィエスを残しておけば、向こうの勢力も適当に飼いならせるな」
「ジャック殿下」
「アリスとかいうあの娘を人質にとれば、なんとかならないこともないな……どっちにしようかな……」
口元に手をあて、ジャックは考えをめぐらせる。その頃にはすでに腰に抱きついた女のことなど忘れてしまっているようだ。
「甚振れる玩具は多い方が面白い、かな。いっぺんに二国を纏めると俺の負担が増えるしなぁ……そうか、それでもいいな」
また良からぬことを思いついた様子のジャクの笑みは少年らしく無邪気で、そして残酷な色を宿している。
その様を跪きながら見るともなしに見ていた部下は、突然声をかけられる。
「ところでお前さ、減点一」
「は?」
意味をとれずに間抜けな声を男があげている間に、ジャックは枕元に無造作に置いてあった剣を手にしていた。
「き……」
白刃の残像すら残さぬ早業で、次の瞬間にはこれまで彼に侍っていた女の首が落ちている。
「で、殿下」
「今の話はどう考えても重要事項だろう? こんな部外者がいるところでしちゃいけないよなぁ」
死体を片付けておけ、と指示を出すと、返り血のついた乱れた衣装を彼は着替え始める。その様子は外出準備といったところだ。
「で、殿下……どこへ……」
「ちょっと街の視察にな。じゃ」
死体と男が残された部屋を出る瞬間も、ジャックは笑っていた。男は彼が怒ったところなど見たことない。悪巧みに悦に入り残酷に笑うことはあっても、憤慨や激昂する様子は見た事がない。
だがわかっていた。今回斬り殺されたのは娼婦の女。しかし次にミスを犯した際、笑顔で斬り殺されるのは自分だと。
◆◆◆◆◆
その日、ワンダーランドには珍しい客が訪れた。
「へ、いか……」
「久しいな、ラヴィエス」
老齢に達し、酒に溺れ、最近では健康も覚束ないという白薔薇の国の国王が、この場所に現れた。
「ど、どうして……」
いくらこの場所が精神病院とはいえ、国王を出迎えるのであればそれなりの身分ある者が必要だ。必然的にハートの女王オルドビュウスが向かうことになる。
だが、国王が面会を求めたのは実子であるハートの女王ではなかった。彼が呼び出したのは妻が不倫相手との間に生んだ子である時計ウサギ、伯爵ラヴィエス。
グリフォンやビル、メアリアンなど周囲の部下たちはむしろ率先して時計ウサギを白の王の眼から隠す方向で動いていたはずだった。何せ時計ウサギは白の王にとっては恨みの的である妻の不倫相手の子。しかも立場を考えれば、万が一にも危害を加えられた場合時計ウサギは白の王に逆らう術がない。主君を守るために忠実な部下たちは動いていた。
その予想は裏切られる。
母親の正式な夫ということで、本来ならば義理の父とでも呼ぶべき存在である白の王。しかし時計ウサギは彼とろくに対面したことはない。母親である王妃が一方的に彼の存在を白の王に告げたくらいだ。
その白の王が、何故自分を。いよいよ殺されるのかと内心恐怖で固まりながら、時計ウサギは白の王の前に立つ。
しわがれた手が彼の頬に伸びた。
「四年前以来か」
びく、と時計ウサギは肩を揺らす。しかしその手を振り払う事は不敬だ。許されない。
「わ、たくしのような者に、国王陛下がどのような……」
言葉が続かず、唇を軽く撫でられた。
「似ているな、〈あれ〉に」
母親である王妃のことを言われているのだとわかった。
「だが瞳の色はあやつに似ておる」
時計ウサギの顔立ちは母親譲り、その眩い金髪も。
だが、彼のあだ名をウサギと決められた由来である深紅の瞳は父親である紅の王譲りだった。
「この国を、この国も〈あれ〉も、あの男に渡すくらいであれば……!」
時計ウサギの瞳を通して、そこから連想される相手への憎悪が白の王の瞳に浮かぶ。
そして猛り狂い、もはや誰にも止めることのできないその憎悪が彼にある言葉を紡がせる。
「お前が継げ、ラヴィエス。あの男にこの国を、死んでも渡してはならぬ」
「――――え?」
「あの男にこの国を渡すな、と言っておる!」
「はっ……え、ええ?」
時計ウサギは硬直してしまい、返答できない。そもそもこの話題は、例え彼が冷静であったとしても、だからこそ気軽には返答できない話題ではないか。
これまで白薔薇の継承問題をややこしくしていたのは、王妃から継いだ継承権を有する時計ウサギを白の王が認めないことだった。けれどそれが、どんな理由による心変わりにせよ時計ウサギに国を任せることを認めたのであれば。
「ち、父上……」
これまで同じ空間にいながら、言葉を発することを許されていなかったハートの女王が思わず白の王を呼ぶ。
ハートの女王とハートの王、グリフォンたち関係者一同はこの場に残り、白の王と時計ウサギのやりとりを見守っていたのだ。彼らのその目的は白の王による時計ウサギへの何らかの不利益を抑えることだったのだが。
「オルド……」
「ティア……」
ハートの王と女王は視線を交わす。
大変な事態になった。
「お前が継げ、わしの国を。決してあの男に渡すな。あの男にこの白薔薇の国を飲み込ませるな」
白の王が言うあの男とは、紅の王のことである。彼は気づいていないのだ。真に危険なのは紅の王ではなく、その息子である王子ジャックだということに。
彼によって嵌められたここにいる一同は皆、敵はジャックだと見なしている。特に実の姉でありながらジャックによってこちらの国に閉じ込められたハートの王は弟の危険性を熟知している。ジャックは彼にとって不要となれば、実の父親でもすぐに殺害するだろう。
そしてジャックに対抗できるだけの力を持っている人間は少ない。白薔薇の国で言えば、廃嫡の王子オルドビュウスの権力など比べ物にならないくらいに、紅の国全土を父親ではなく、自分のものとして権力を掌握するジャックに対抗できるだけの人物など滅多にいない。
しかしここで時計ウサギが白薔薇の王となれば別だ。彼がこの段階でジャックに拮抗するだけの力を得れば、それはすなわち二つの国の戦争の再来となる。ここまで白薔薇の国を統合と言う形で取り込む姿勢を見せていたジャックは、時計ウサギが王として権力を持つことを許さないだろう。
何せ時計ウサギは紅薔薇の国においても王位継承権を持つ人物だ。下手をすれば自らの足下を掬われるとなれば、ジャックは他の誰よりも時計ウサギが一国を統治する立場に着くことはさけたいに違いない。
ここで頷いて次の玉座を獲得すれば、時計ウサギに待っているのはジャックとの戦争、その果ての死だ。そうならないために、これまでハートの女王たちと水面下で策を練り続け、それを裏切ってジャックと同盟を組んででも争いを避けようとしていたのに。
「そのうち城から迎えをやる。よいな」
時計ウサギが何一つ言えないでいるうちに、白の王は言いたいだけ言うとワンダーランドから帰っていった。一応ハートの女王も説得を試みたのだが、頑迷となった白の王は聞く耳を持たなかった。
◆◆◆◆◆
中庭の椅子に腰掛けていると袖を引かれた。
「アリスタ……」
黒髪の少女が、心配そうな顔で時計ウサギの顔を覗き込んでいる。
「ごめん……」
時計ウサギは思わず彼を抱きしめた。
「僕なりに、できれば争いを避けたくて精一杯頑張ってみたつもりだったけど……でも無理だった。ごめん……」
わかっている。白薔薇の国の王に時計ウサギが即位するということは、それ自体がすなわちジャックへの反逆を示すことだ。
あの有能な異母弟を敵に回すだけの能力も気概も時計ウサギにはない。その名の通りウサギのように無力を装うことでようやく人一人守ろうとしていたのに。
「僕がジャックへ抵抗すれば、君もきっと殺される……!」
いや、と時計ウサギはそれでも必死に頭を働かせる。
まだだ、まだ終わっていない。こんなところで終わらせてなるものか。
ジャックへと叛意を示さず、彼の目を逃れる方法ならまだあるはずだ。玉座についても、すぐに服従の意を示すとか。駄目だ、それでも二国を統合するとなれば白の王家は少なくとも断絶される。どころか、本来ジャックが断絶したいのは白の王家と共に時計ウサギ自身の命なのだ。
「どうすれば……」
一体僕は。
「どうすれば、いいんだろう……?」