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残酷遊戯  作者: 輝血鬼灯
6/12

第6章 トランプの断末魔

 ああ、あまりにも世界は思い通りにならない。

 だから一つくらい欲しかったのだ、自分の思い通りになる、都合のいいお人形が。

 最初はただ、それぐらいの気まぐれだった。

 そう、最初のうちは――。


 ◆◆◆◆◆


「なぁ、ラヴィエス、お前本当は、アリスのこと――」

 時計ウサギと向かい合ったハートの女王は、弟の顔色を窺いながらもこれまでの遠慮や躊躇いと言ったものを取り払って問いかける。

「あの子のことを、愛して」

「やめてくれませんか? 兄上」

 しかし女王の目論見は、弟の冷たい眼差しにあって呆気なく崩れ落ちる。

「僕とアリスタの間には何の関係もありません。ただの雇用主とメイドです。あなた方が僕らを指してどのような言葉で関係を括ろうとも、それに僕が左右されることはありませんから」

「……相変わらず、勝手なんだな」

 弟の一方的な言い分を聞いて、女王は少しだけ悲しそうな顔でそう感想を口にした。時計ウサギは僕が、と言った。アリスが左右されるのは気にしていないと言う事だろうか。

「勝手? 僕が? そりゃあそうでしょう、あの母親と、父親の子どもなんですから」

「ラヴィエス、だからと言って――」

「うるさい! 今更いきなり出てきて、兄貴面するな!」

 これ以上はもう聞きたくないと言うように、時計ウサギは乱暴に女王の言葉を遮った。

「……わかりませんか? 兄上。あなた方は、特にエルドラウト王子の方は僕に王位を奪われるのだと大層勝手に思い込んでおられるようだが、文句を言いたいのはこちらのほうだ。これまでたいした手当てもない平民同然の下級貴族として育てられてきたのに三年前に突然王位継承者にされて、紅薔薇と白薔薇両方の国から命を狙われる羽目になって!」

「ラヴィエス……」

 激昂する弟の様子にかける言葉を失い、女王は一度は伸ばしかけた腕を引っ込める。

「それは……でも俺は、お前に王位を奪われるなんて思ったことはないよ」

「そうでしょうね。あなたとチェシャ猫が欠陥品である分を、僕に補ってくださいと王族と家臣一同が頭を下げに来たわけですから」

「ラヴィ」

「でも国王陛下はまだ僕をお認めになる気はないようですよ。母さんと……王妃殿下と仲違いしたままですからね」

 辛辣な口ぶりで時計ウサギの発した、しかしこの上なく正確な言葉に女王は悲しげに俯く。

「父上は……母上を愛しておられたんだよ。だからこそ、紅薔薇との戦争だって……」

「そうですね。妻を隣国の王に寝取られた男のつまらない嫉妬心により引き起こされた戦争。それで何十万の民が死に、何百万の民が今、貧苦に喘いでいるのでしょうね、薔薇の咲かない薔薇の国で。いっそ白薔薇なんてとっとと潰して、紅の国のジャック王子がさっさと両国を併合統治すればいいんですよ」

「ラヴィ、そんなこと」

「ああ、そうでした。そうとなると、二つの国を併合して王位につく人物にとって一番の邪魔者はこの僕でしたね。何しろあなた方が王位継承者として失格したために僕はこの白薔薇の国の現在第一王位継承者、そして紅薔薇の国のジャック王子にとっては異母兄ということになり、うっかり生かしておいたらどんなことになるかわからない。何しろ正妃とはいえ紅薔薇の国の貴族を母に持つジャック王子と、紅薔薇国王と白薔薇王妃にしてこの国の王位継承権をも持っている母上との間に生まれた僕では血筋の上では拮抗していますからね」

 皮肉に自分の現状を告げる時計ウサギの瞳は紅く、病んでいる。

 弟の苛立ちを感じ取りながら、しかし女王は何も言えない。

「とんだ幸せ者ですよ、僕は。命の危険と引き換えに、国王の座が何もしなくとも転がりこんでくるのですから」

 何もしなくとも。文字通り、それを望んだことすらなくとも。

 時計ウサギが言っていることは全て正しい。

 白薔薇の国と紅薔薇の国、隣接する二つの国は、これまでそれなりの友好を保っていた。

 それが崩れ始めたのは、白薔薇の国王が今の王に代わってからだ。そもそも現国王が誕生するまでに一悶着があった。彼の母親が貴族としては中程度の家の出で、他の王位継承者が夭折した混乱の最中に王に仕立てられた男。その権威を安定させるために、父の妹にあたる叔母の娘であり、高位の貴族を父に持つ従姉姫である女性と結婚した。

 しかし政治的な目的だけで結婚した二人の中は、上手く行かなかった。

 もともと血統という面において心許なかった現国王と、彼と結婚した王妃は継承を巡るライバルという間柄であったのだ。王妃には、愛してもいない従弟王の妻などという座ではなく自分が国王になるのだという野心があった。そのため周囲が現国王を優先した結果に納得できなかったらしく、子どもを設けても二人の間に愛情が通い合うことはなかった。

 そして事態は、隣国の王を巻き込んで更なる波紋を二国に呼ぶ。

 白薔薇の国が長引いた継承問題、及び能力的にもそれほどではない国王を据えたために衰弱し国力を低下させている間に、紅薔薇の国は白薔薇の国から流れてくる利益を吸い取って大きく成長した。現在の国王はやり手で、国の威勢を増すのに余念がない。しかも容姿は端麗で、度胸があり器が広い。

 二十年近く前の話だ。元来野心家である白薔薇の王妃は、この隣国の王に恋をした。

 紅薔薇の王の方でも、美しく気高い白薔薇の王妃に心を奪われた。白薔薇の国王は見た目もそれほど優れてはいなかったが王子たちが美形揃いであるのは、母方の血が大きい。

お互いの立場上表沙汰にはならなかったが、それでも二人は情を通じた。

 そして、バレた。

 十八年前のある日、二人の密会現場に、妻の不貞を突き止めた白薔薇の王が現れて事は全て露見する。しかもその時、王妃はすでに紅薔薇の王の子を身篭っていた。

 自らが愛されていないことを知りつつも、王は王妃を愛していた。妻と他の男との間にできた子の存在を認められない彼は生まれた赤子を葬り去ろうとした。

 しかしこの頃、白薔薇の国ではある問題が発生していた。

 それが第一王子エルドラウトの身体的な異変。国王として玉座に着くことはできないと判断された第一王子を教皇庁に差し出し、出家と体裁を整える一方で白薔薇の国はある危惧を抱く。

 現国王と王妃が従姉弟関係にあることからもわかるように、白薔薇の国では近親婚を厭わない。さすがに兄弟姉妹で結婚する事はないが、それでも近しい血の者同士で血脈を繋いでいく事は彼らの種にとってリスクと隣合わせだった。

 第一王子に問題が発生したように、第二王子にもこの先成長過程で何か異変が起きたら――? 

 周囲の思惑によって、王妃と隣国の王の子は殺されずに生かされておくことが決定した。表向きは王子ではなく、ただの下級貴族の子として。その子が王子であることを知っているのは国でも一握りの存在だった。

 そして周囲の危惧したとおり、異変は起きる。

 第一王子に続き、第二王子までもが身体的理由により継承権を欠格。したがって、王位継承権を持つ王妃と隣国の王との間に生まれた子に白薔薇の第一王位継承権が与えられることとなった。

 今更言うまでもなく、その子とはラヴィエス。時計ウサギとコードネームを名乗る、白薔薇の国王妃と紅薔薇の国王の息子である伯爵。彼が白薔薇の国王位を継ぐ者と暗黙の了解のうちに指名されたのは数年前。

 しかしそこで、白薔薇の国一国内ではすまない新たな問題が発生する。

 自分と王妃の間に生まれた王子たちがことごとく王位を継ぐに相応しくない存在だと知った白薔薇の国王は、病んだ。嫉妬と憎悪に駆られた彼はあろうことか、隣国である紅薔薇の国に戦争を仕掛けたのだ。

 だがもとより手腕に優れた王と優れぬ王、もともとの国力も紅薔薇は繁栄、白薔薇は衰退していたという背景であり、ものの見事に白薔薇は負けた。後は凋落の一途を辿るのみとなった白薔薇国。

 今ではその気になれば、紅薔薇の国王は白薔薇の王妃を攫うこともできる。では何故そうしないのか? 今度は紅薔薇王家の方の問題に移る。

 紅薔薇の国では、国王が隣国の王妃と不倫をするくらいであるからして勿論国王夫妻の仲は不仲である。しかしここは一方が一方を嫌うのではなく、お互いに嫌いあっているのであるからまだマシと言えるのかもしれない。しかしその不仲こそが、紅薔薇の王位に関する問題を紡ぎ出す。

 紅薔薇の国第一王女ティアラーデは今年二十七歳、現第一王子ジャックは十六歳。

 そして白薔薇の王妃と紅薔薇の王の間に生まれたラヴィエスは十七歳。こうして年齢を羅列すれば、もうお分かりだろう。紅薔薇国王が白薔薇の王妃を正妻として迎えることになれば、今度は紅薔薇の王位継承問題が複雑になる。男児継承が普通である紅薔薇国において、年上のラヴィエスを王子として迎えてしまうと本来手に入れるべきだったものを手に入れられなくなる人物がいるのだ。それが第一王子ジャック。母親の身分から言えば、国内の貴族を母に持つ彼は白薔薇の王妃を母に持つラヴィエスには敵わない。

 ただし、紅薔薇国第一王子ジャックは、うかうかと他人に自分のものを横取りされるのを黙って見過ごすほど甘い性格ではなかった。

 父親に似て、否、それ以上に覇気が強く己の手を汚すことも厭わない十六歳の少年は姦計を巡らせ、両国の上層部を一挙に手玉にとる。

 ワンダーランドは、その集大成だった。彼は戦時中の策略で王国の関係者を次々に罠に嵌め、自分の姉である紅薔薇第一王女ティアラーデ、そして白薔薇の王位継承者であるハートの女王オルドビュウス、その他の者たちを軒並み「精神病患者」として一つの館に閉じ込めたのだ。

 しかもその思惑の中では、自国の王位を追われて復讐を目論む白薔薇の第一王子エルドラウトことチェシャ猫も動いている。チェシャ猫の陣営はまた他の者たちとは多少異なっており、彼は教皇庁からの使者として動いている。教会は二つの国が力を持ちすぎることを好まず、両国の国力を適度に削いで国内に宗教を布教するために王国の上層部を貶めようとしていた。もっとも、ジャックはそんな教皇庁の思惑すら見抜いて彼らと手を組んでいるのではあるが……いつの時代も宗教は人心を操るためのいい道具である。

 〈ワンダーランド〉は表向き、精神病院。実際に幾人かの患者もいる。だが、その真実は戦争の敗者たる白薔薇の重鎮と、紅薔薇でジャックに睨まれるようなことをした人々の収容所である。

 更に白薔薇国内にその建物を据えたのは、姉王女ティアラーデを見舞うという名目でジャック自身が白薔薇国内を訪れやすくするためでもある。

 だが、隣国にここまでされて白薔薇の王家でも黙っているわけにはいかない。

 ハートの女王は時計ウサギと手を組むことによって、じわじわと手の者を増やしている。時計ウサギは公爵夫人やグリフォンといった者たちの協力を得て、白薔薇国内からジャックの手を引かせようと行動している。

 そのはずだったが……

「兄上、僕は抜けさせてもらいますよ」

「え?」

時計ウサギの唐突な言葉に、ハートの女王は目を丸くした。

「もう、白薔薇の国も紅薔薇の国もどうでもいい。どうとでもなればいい」

「お前、何を言って……!」

 内容を飲み込んだ瞬間、思わずがたりと椅子を鳴らしてハートの女王は立ち上がった。目の前の長椅子に座っていた時計ウサギの胸倉を掴む。

「それがどういうことか、わかっているのか!?」

「わかってますよ」

 ハートの女王と時計ウサギであれば、弟である時計ウサギの方が圧倒的に力は強い。ハートの女王に胸倉を掴まれたぐらいでは、時計ウサギは動じもしない。

「僕が動かなければ、このまま白薔薇の国は紅薔薇のジャックに蹂躙される」

「それがわかっていながら、何故……!」

「いいじゃないですか。少なくともジャックは辣腕で冷静な策略家だ。嫉妬で国を滅ぼしかける今の国王陛下に比べたら、よっぽどいい治世を敷いてくれますよ」

 時計ウサギが溜め息と共にそう言うと、ハートの女王は憤怒の形相で彼を睨みつける。

「本当にそんな甘いことを思っているのか!? あいつは紅薔薇の人間だ、ヤツがこの白の国の人間を厚遇などするはずがない!」

「甘いのはあなただ、兄上。真の策略家というものはつまらない差別感情などで生産性を落とすような真似はしません。ジャックならば紅に白を虐げさせてくだらない優越感に浸るようなことはないでしょう。むしろかつて二つの国が一つの薔薇王国であったことを強調し、真の統合を謳いあげるでしょうね。そして倍になった国土を活用し、機械都市マグル・アルケッセにも、クルデガルド王国にも負けぬ大国となす。素晴らしいではありませんか。あなた方のお父上が統治するよりもよっぽど民にとって平和な国ができあがりますよ?」

「貴様! 生かされた恩も忘れてよくも!」

「僕を生かしたのは国王ではなく、その周囲と母上だ。しかも僕がそれを望んだわけではない。ちなみにジャックにはすでにこれらのことを打診してあります」

「何!?」

「本来敵同士であるはずの僕と彼ではありますが、こちらが敵意のないことを示したら、彼は快く僕の協力を受けてくれましたよ?」

「国を売って、自分の未来を買ったのか……!?」

 ハートの女王は愕然とする。時計ウサギは皮肉気に笑うと、わざとらしく肩を竦めて見せた。まだ怒りを解かない女王相手に、トドメの一言を投げつける。

「それともあなたが彼を信用できないのは、あなたの個人的な理由ですか? 兄上、あなたが彼に犯されたから」

 瞬間、カッと女王の頬に朱が走った。思わず殴りかかろうとするのを、逆に時計ウサギは女王の腕を捻り挙げてねじ伏せる。そのまま体勢を入れ替えるようにして、これまで自分が座っていた長椅子に女王を組み敷いた。

「くっ……!」

「愚かな人だ、その身体であなたが僕に敵うわけない」

「放せ!」

 女王はもがくが、時計ウサギの腕はびくともしない。だがこれは別段、時計ウサギが世間一般の男性から突出して腕力があるわけではない。

 むしろ女王の力が男性としてみるには弱すぎるのだ。

 時計ウサギは女王の両手を頭上で一つに纏めさせると、空いた片手でその胸をわしづかむ。

「ああっ!」

 普段からハートのクイーンを名乗り女装姿でいる女王だが、本日もドレス姿だった。普通の男性であれば扁平であるはずの胸は、しかし控えめながら膨らんでいてやわらかい。その感触を乱暴な手付きで堪能しながら、嬲るように時計ウサギが告げる。

「ちょうどいい。あなたは生殖機能に異常があるということで王位継承に失格したんでしたね。試してみますか? 本当にその身体で子どもができないか」

「やめろ!」

 異母兄弟とはいえ弟に組み伏せられ、引きつった顔で女王は叫ぶが時計ウサギは意に介さない。

「〈王子〉の腹が膨らんだら、白薔薇の宮廷内はさぞや面白いことになるでしょうね。大丈夫、なにも殺しはしません。僕がジャックと取引してそこそこの領地を確保したら、愛人ぐらいにはしてさしあげますよ」

 勝手なことを言ってドレスの胸元を破ろうとした時計ウサギに向けて一言、女王が叫ぶ。

「俺が愛人なら、正妻にはアリスを置くのか? ラヴィエス伯爵!」

 ぴた、と時計ウサギの動きが止まる。

「――何を馬鹿なことを」

「馬鹿なこと? 違うだろう、ラヴィエス。お前は口ではどんな薄情なことを言ったって、本当はアリスを愛しているはずだ!」

「……僕がアリスタを愛している?」

 女王を押さえつけて上から覗き込んでいた時計ウサギの顔が、ふいに歪む。

 それはまるで、今にも冷たい雫の零れそうな真冬の曇天のようだ。

「馬鹿な、ことを」

 二度繰り返したその言葉の先は、引き攣れた笑いに消された。

「アハハハハハ! わかりませんか、兄上。アリスタだって、僕にとっては今のあなたと同じですよ」

「何……?」

「犯したんですよ、何も知らないあの娘を。近場で一番手頃だったから」

 女王が息を呑む。

「アリスタは口が利けないし、文字の書き取りもできない。おまけに紅薔薇人のメイドは屋敷の中で親しい者もおらず、誰に助けを求めることもできない。だから簡単だった。まず甘い言葉で手なずけなければならない公爵夫人のような女たちよりよっぽど後腐れがなくていい」

「お前……」

「僕はあの娘を愛してなんかいない」

 女王が呆然と碧い目を見開く。

 次の瞬間、先程とはまた別の意味で時計ウサギの顔が歪んだ。

「はいはい、きょうだい喧嘩はそこまでよ」

 割り込んできたのは艶やかな女性の声だった。ハートの王は手に鞭を持ち、戸口に立っている。

「その人を虐めていいのは私だけよ。そろそろ退いてね、ウサギちゃん」

 鞭で打たれた時計ウサギは痛む場所をさすりながら、仕方なくハートの女王の上から退く。

「ティア……」

「助けに来たわよ、女王様。ってこれ普通男女役目逆よね? まぁ、あなたは完全な男じゃないからいいのかも知れないけど。あら、でも私も王子様じゃないわね」

 紅薔薇の王国第一王女ティアラーデ。彼女は傍目から見れば能天気で暢気。弟のジャックの手により隣国に設えた精神病院と言う名の牢獄に閉じ込められながら、日々何の憂いもなく生きているように見える。そんな彼女を真の狂人だと言う人間もいる。

 しかし時計ウサギが部屋を出て行こうとするすれ違いざま、扉に手をかけ鞭を構えるでもなく肩にかけた彼女はそっと口を開いた。

「ねぇ、オルドの言っていたこと、本当でしょ?」

「あなたまで何を馬鹿なことを、殿下」

「そーぉ? でもだったら、あなたは何故今頃になって方向転換したの? これまで一応白薔薇国をジャックから取り戻す方向で動いていたのに、今になって裏切るなんて。しかも、ジャックと手を組むまでの行動が早すぎるわ。――あなたがそうやって態度を変えたのは、チェシャ猫がアリスちゃんを連れてきたからよね?」

 ぴく、と時計ウサギが眉を歪める。

「教皇庁に弱点である愛しい少女を押さえられちゃったから、それでしかたなく私たちを裏切って、ジャックに肩入れしたのよね?」

「……そんなわけありませんよ。もともとこういう計画だっただけです」

「そうかしら?」

 狂人などという風評がまったく当てにならない、全てを見通した者の意地悪げな笑みを浮かべて、ハートの王は投げキスを送りながら彼を見送る。

 時計ウサギは、顔をしかめながら女王の部屋を後にした。


 ◆◆◆◆◆


 ああ、あまりにも世界は思い通りにならない。

 王位などいらなかった。自分のせいではないところで勝手に人から恨みを買ったり買われたり、母は半分薔薇狂いで自分に見向きもしなかったり、何も知らずに権力に取り入ろうとする輩のおべっかに付き合わされたり、もう何もかもが鬱陶しくて仕方ない。世界は本当に思い通りにならない。

 だから一つくらい欲しかったのだ、自分の思い通りになる、都合のいいお人形が。

 最初はただ、それぐらいの気まぐれだった。

 口も利けず文字も書けず他の使用人から仲間はずれにされているようなメイドの少女は、そう言った手慰みの相手にはぴったりだった。

 何しろどんなに手ひどく扱っても悲鳴の一つもあげることもできないのだから、安っぽい愛を囁いてくれる代わりにこちらの愛を強請る他の女たちと違って、五月蝿くなくていい。

 最初はただ、それだけだった。一度行為に及んだ後は、二度目からはどんな顔で逃げられるのかと思えば多少気が重くなったりもしたが、さしたる問題ではなかった。

 そう、自分によって手ひどく傷つけたはずの相手が、それでも翳りのない花のような笑顔を見せる不思議に出会うまでは。


 ――ああ、これはまるで夢だ。

 ウサギ穴に落ちた少女が見るような、まるで不思議な夢のようだ。

 怒るべきところで笑うなんて、まるで脳髄からイカレているようじゃないか。

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