第5章 切り刻まれ煮込まれたあなた
あかぎれの酷い手に、気休めに息を吹きかける。そんなことをしても、もちろん傷は癒えずにじくじくと痛むだけ。
手際が悪いのだと、今日も主人に殴られた。明日はどんな粗相をして、酷い折檻が待ち受けているかも知れない。
「助けて……」
数年前の戦争から行方不明となった家族を思う。あれ以来何もかもが変わってしまった。白薔薇の国にもはや花が咲く事はない。
「助けて……」
少女は遠く離れた兄を思う。
◆◆◆◆◆
「と、いうわけで再び僕らはこの館でお世話になることにしました。よろしく!」
と、あまりにもあっさりとワンダーランドに戻って来た三月ウサギがアリスの面倒を見ているので、ハートの女王と時計ウサギは内緒話に勤しむことにした。
内緒話と言っても、話題はいつもと同じ国政のことである。乱行に明け暮れていると噂の父親、白薔薇の国王の代わりに実質国を動かしているのは国の重臣たちと、そしてここにいる二人だった。
ワンダーランドの一室、王子と言う身分だけあって一応は立派な個室を与えられているハートの女王の私室で、二人は向かい合う。ちなみにこの館の中で鍵のかかる部屋はこことハートの王である紅薔薇の王女の部屋しかない。
赤と黒の四角を敷き詰めたチェス盤を思わせる絨毯に、金色の猫足のテーブル、獅子と一角獣が争う場面を描いた絵と紅に塗りつぶされた白薔薇の国旗がかけられた部屋の中で密談。
「三月ウサギは本当に信用できるのか?」
かつての事件により自分を恨む男、帽子屋の親友である三月ウサギが戻って来たことにより、ハートの女王は警戒心を強めている。しかし、時計ウサギの意見は違うようで、大事な少女を彼とその養い子だという眠りネズミに預けても平気な顔をしていた。
「兄上、いくら三月ウサギがいかれ帽子屋と親しいとは言っても、彼自身の職業は武人でも何でもない元科学者。しかも、戦争協力を拒んでこのワンダーランドに投獄されたような人物です。滅多なことはしませんよ、きっと」
兄であるハートの女王とよく似た金髪に、兄たちの碧眼とは対照的な深紅の瞳が印象的な少年伯爵は事も無げに答える。
「……恋人を預けているわりに、余裕だな、お前は」
帽子屋に恨まれているのは女王だが、彼への恨みとなれば弟である時計ウサギも無視はできない。にもかかわらず飄々としている彼の様子に、兄である女王は首を傾げた。
真面目な政治の話題は一度置いて、弟と向き合う。これまであの黒髪の少女をさんざん気にしていた時計ウサギとも思えぬ態度に不審を感じていることを伝えると、時計ウサギは渋い顔をして返した。
「……僕とアリスタは、そんな関係では……」
この話題になると時計ウサギがいつも何故か言いよどむ。しかしだったらどんな関係かと突っこんで聞いても、答えることはない。
アリスは今三月ウサギと眠りネズミと共にいる。この部屋には鍵がかかっていて誰に会話を盗み聞かれる心配もない。
これまでの時計ウサギの様子とそしてアリス自身の様子から、女王には一つの予感があった。それを、今ようやく口に出す。
「なぁ、ラヴィエス、お前本当は、アリスのこと――」
異父弟から返って来たのは、敵意を含んだ眼差しだった。
◆◆◆◆◆
「と、いうわけでね。僕はこちらの出戻りなんだ」
三月ウサギはアリスの手をとり、軽く握手をした。もともと面倒見の良い彼だ。ワンダーランドに馴染みがあることもあって、アリスの扱いにもすぐに慣れたらしい。
「こっちは眠りネズミだよ。歳は君より三つ年上なくらいかな? 僕と帽子屋の息子だよ」
三月ウサギは男である。
いかれ帽子屋も男である。
アリスは顔に?を浮かべた。
「いや、別に僕らが生んだわけじゃなくてね。養子って制度知っているかな。子どもを引き取って自分の子どもにするってやつ。拾ってきたのは帽子屋だけど、戸籍上眠りネズミは僕の息子なんだよ」
詳しい出会いの部分は語らなかったが、そう言って三月ウサギをアリスに紹介した。
「……よろしくね、アリス」
眠りネズミの方でもアリスに向かい手を差し出す。しかし彼は盲目であり、誰がどこにいるのかわからない。アリスの気配にはまだ馴染みがなく、ワンダーランドという建物自体にも不慣れだ。
アリスはそっと自身に向けて差し出された手を握った。優しく触れることで自分の気持ちを露にする。目の見えない眠りネズミとは対照的に、アリスは口を利くことができない少女だった。
「そうだ、アリス、お願いしてもいいかな?」
二人の様子を見守っていた三月ウサギが声をあげた。
ここはワンダーランドの中にあるホールの一つである。狭い部屋だとものにぶつかって眠りネズミが怪我をするおそれがあるから、と広い部屋をわざわざ選んだのだ。しかしそんな心配も、介助者がいれば必要なくなる。
「僕がいない間、眠りネズミの面倒を見てくれる? この子も不自由しているし、まだこの建物に慣れていないから、ね?」
話題を振られてアリスはついつい頷きかけたものの、しかしちょっと考えてから困ったような顔をした。自分で自分の口元を指差す。
「うん、そうだね。君は声を出すことができないけれど、でも眠りネズミはこういうことには慣れてるから、ちょっと危ないものにぶつかりそうだったら袖をひっぱるとかしてくれるだけでいいんだ。それにもし君が何か言わなきゃいけない場面になったら、代わりに眠りネズミに声を借りればいい。……それでどうかな?」
「僕はそれでいいよ。アリス、君はどう?」
目の見えない眠りネズミと、声の出ないアリス。二人で足りない部分を補いあえばいいのだと三月ウサギは言う。
「もちろん、僕がいるときはできる限りヤマネの側についているけれど……」
けれどどうしても手が離せない場合などについていてほしいのだと頼み込まれて、アリスは自分が本当に役に立てるのか訝りながらもこっくりと頷いた。
「いいってさ、ヤマネ。よかったね」
「ありがとう。じゃあ、そのうち僕たちの間で伝わる合図を決めようね」
アリスはまたこくりと頷き、三月ウサギがそれを伝えた。
三月ウサギの親友である帽子屋はハートの女王と敵対し、その女王はアリスの主人である時計ウサギの兄だ。その関係からしてみると三月ウサギたちとアリスが仲良くするというのも妙な話ではあるのだが、この三人の間は異様にほのぼのとしている。
「なぁ、メアリアン、あれでいいと思うか……?」
「さぁ? でもアリスタのことはラヴィエス様が好きにさせておけと仰るのだから……」
時計ウサギことラヴィエスの忠実な下僕であるビルとメアリアンの二人が、彼ら三人から離れた場所でその様子を見つめてはこれでいいのかと疑うような顔をしている。
そんなホールの中に、新たな人物がまた足を運んだ。
「アリス様、ここにいたのですか」
これもハートの女王に仕える男、グリフォンだった。彼は何故かアリスを捜していたようで、少女の顔を見てほっとした様子である。
「どうしたんですか? グリフォンさん」
「三月ウサギか……そういえば戻って来たと聞いていたな……いや、たいしたことじゃないんだが、ちょっとアリス様に個人的なお願いがあって」
「お願い?」
瞳を閉じたまま顔だけをグリフォンの声のする方へと向けていた眠りネズミが、アリスの心を代弁するかのようにきょとんとする。
「そう、その……えーと……その、花束を作りたいのですが、そういうことにアリス様が詳しいと女王から聞きまして……」
言われてアリスは納得した。もともと時計ウサギの屋敷で薔薇の世話をしていた彼女は植物の扱いが得意だった。今回グリフォンもそれが理由で彼女を訪ねてきたのだという。
深い事は気にしない性格のアリスはさっそく庭に出ると、グリフォンの伝えるイメージどおりに花を選んで、彼の花束作りを手伝う。
「恋人にでも贈るんですか? グリフォンさん」
突っこんだのは三月ウサギだった。庭の花を摘むことを禁じられてはいないが、それで花束を作りたいなどと言われたら誰だって理由を知りたくもなるというものだ。
「……いや、妹にだ」
ハートの女王に仕えるグリフォンは彼と敵対する帽子屋の親友である三月ウサギとは、アリスよりももっと緊張感のある関係のはずなのだが、何故か二人の会話には慣れた雰囲気がある。
それもそのはずで眠りネズミの不思議そうな問に答えることには、彼らはもともと白薔薇の王宮で働いていた同僚だったのだという。帽子屋もそうだ。三人とも部署は違うが第二王子オルドビュウス――つまりはハートの女王の部下だった。そのせいもあって、今は敵対ぎりぎりの関係にあるにも関わらず二人の態度は気安い。
「妹さんに?」
「ああ。これから行ってこようと思うのだが……」
「じゃあ僕らもついて行こうか、ねぇ、アリス」
「ま、待て! 何故そうなる!?」
いくら気安い間柄とは言っても、突然の三月ウサギの提案にグリフォンは度肝を抜かれた。何故か巻き込まれたアリスが特に考える様子もなく頷いたのでますます困った顔になる。
「アリス様、あなたまで、何故!」
別に特段の理由はないが。
「僕もついて行っていいでしょうか?」
「そうだね、ヤマネ」
眠りネズミもちゃっかり賛同し、一行はついていく気満々だ。
「何故お前らがついて来るんだ!」
叫ぶグリフォンの耳元で、三月ウサギがそっと囁いた。
「君一人だと、いつ女王の関係者として帽子屋の襲撃に遭うかもしれないでしょ? 僕らを連れて行った方がいいよ?」
「お前……まさか初めから、そのつもりでここに戻って来たのか?」
三月ウサギがにっこりと意味ありげな笑顔を浮かべたので、とりあえずグリフォンは考えることをやめた。
◆◆◆◆◆
少女は今日も主人に叱られていた。
「まったく、何をやらせても愚図な娘だな!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
それでもひとしきり仕事を終え、彼女は腫れた頬を冷ますために外に出てくる。屋敷の水は勝手に使えないため、休憩時間に街の広場へと井戸を借りに来た。
広場には布を敷いて、屋根もないその場所を家だとするように浮浪者がたむろしていた。曇天の下、粗末な敷物の上に横たわる彼らを踏みつけないよう注意しながら井戸を使いにいく。
その途中で、絡まれた。
「おい、お前、何をやっている」
「井戸をお借りしようと……」
「この辺り一帯は俺たちの縄張りだ。出てけ」
「でも、広場の水は誰のものでもないと……」
「つべこべ言わずに出て行け!」
立ち上がり少女の行く手を塞いだ浮浪者の一人が、ついに手を振り上げる。
「きゃあ!」
殴られることを覚悟して顔を庇った少女の上に、しかしいつまで経っても衝撃は降ってこなかった。
「いけないな、おじさん。こんな子どもに暴力だなんて」
金髪の見目麗しい青年が、男の拳を掴んで止めている。その身なりと物腰に一瞬ぎょっとした男は、しかし青年が彼のコートのポケットに紙幣を幾枚かそっと差し入れると、暗黙の了解と頷いて二人から離れた。
「あ、あの……」
青年にお礼を言おうとした少女は、しかし言葉が上手く出てこない。一方青年の方はにっこりと笑うと、あらかじめ用意してあった台詞を喋るようにすらすらと言葉を紡いだ。
「こんにちは。〈ウミガメモドキ〉さん」
「は?」
ワンダーランドの住人が彼女に勝手につけた、本人も知らないあだ名で呼ぶと彼女は怪訝そうな顔をした。その手に、青年は小さな花束と封筒を一つ押し付ける。
「あの、これって……」
「君のお兄さんからの預かり物だ」
「お兄ちゃん!? あの、兄は生きているんですか!?」
青年はその質問には答えずに、続きを一方的に吐き出していく。
「その中にはとある人の紹介状と資金がおさめられている。もしも今の職場が辛いならそれを持って別の場所に勤めるといい。君のお兄さんは訳あって君とは会えないけれど、君の幸せを心から願っている」
「え――……」
ウミガメモドキと呼んだ少女が不思議そうな顔をしている間に、青年はさっさとその場を立ち去ってしまう。
「待って!」
彼女は追いかけるが、うまくまかれてしまって追いつけない。
一方、上手くウミガメモドキをまいて戻って来た青年はというと。
「お帰り、ヘイア」
眠りネズミの言葉に、青年――三月ウサギはにっこりと笑ってただいまを言った。そしてグリフォンに顔を向ける。
「ほら、僕たちが来て良かったじゃないか」
「結果的にはな」
妹の不遇を救う役目を三月ウサギに任せる羽目になったグリフォンは渋い顔をしながらも頷く。
「苦労していたみたいだね、ウミガメモドキちゃん。そうだね、これじゃ会えないな……実態はどうであれ今の君は貴族の従者の格好をしていて恵まれているように見える。会えば恨みに思われても仕方ない。けれどワンダーランドに連れてくることは……」
「あの場所に健常な人間を連れてくる事は、人生を終わらせてしまうのも同然だ」
下を向いたグリフォンの声が震える。
二人の話を聞いていても、アリスにはまったく何のことだかわからない。
答を与えたのは彼らではなく、路地裏に乱入した一つの声だった。
「そりゃあそうだよね! あんな場所に入ったら、人生は終わったも同然だ!」
明らかに馬鹿にするような響を持って、そう言うのはいつの間にか現われたチェシャ猫だ。
「殿下!」
前触れのないいきなりの登場に度肝を抜かれて、三月ウサギとグリフォンが思わず警戒を示す。彼らは元王宮勤め。だからこそチェシャ猫とも面識がある。だからこそ警戒もするのだ。
王家を追い出され出家という形で教皇庁に放り込まれた正統なる第一王子は、実弟であるハートの女王と時計ウサギをどれだけ憎んでいるか知っているから。
「ワンダーランド? 不思議の国? 笑わせてくれる……! あんなものただの精神病院じゃないか!」
思わずアリスと眠りネズミが怯えて三月ウサギにしがみつくような暗く低い声で、チェシャ猫はそう言った。瞳にぎらぎらと憎悪が滾っている。
「お前たちの主に伝えろ」
僕はただのメッセンジャーだ、チェシャ猫はそう前置きした上で続けた。
「時間殺しを始める。巻き込まれたくなければ、ワンダーランドで大人しく夢でも見続けていろ、とさ」
「待った、殿下、それは一体誰からの伝言だ!?」
三月ウサギの問いかけに、しかしチェシャ猫は答えない。
「お前ごときが、この私に質問できる立場にあると思うてか? ……じゃあな、気ちがいども!」
前半と後半で意味合いは違えども居丈高に言い放ち、チェシャ猫はまたもや現われた時同様唐突に身を翻す。追おうと思えば追えただろうが、三月ウサギもグリフォンもその場から足を動かさなかった。
「あの……ヘイア? 今のは……」
まだよく事態がわかっていない眠りネズミとアリスの不安そうな顔を見て、三月ウサギは表情を引き締めてグリフォンに提案する。
「とりあえず、ワンダーランドに戻ろう……時計ウサギたちに報告を」