第4章 時間殺しの牢獄
それは恋ではなく、罪だった。
王妃である母が、伯爵の館の花壇に持ち込んだのは土と薔薇の苗。この国の色ではない紅い薔薇が咲くのを、彼女は本当に楽しみにしていた。
しかし白薔薇の国では、いくら豊かな土をもらい、特別日当たりの良い場所に作られた花壇とはいえ、薔薇の花など簡単に育たない。そのために専用の庭師を雇い入れる必要があった。
腕の良い庭師は、しかし毎日伯爵家の屋敷に滞在するわけにはいかないと言った。最低限の世話をする者だけでも雇い入れる必要があった。
選ばれたのは、紅薔薇の国から何等かの理由で移住してきたらしい孤児の少女。口も利けないその娘を、王妃は他の年若い召し使いと違って喧しくなくて良い、という理由で雇い入れた。
ある日彼は、その娘を知る。
一日がかりとはいえ一人であの広い花壇の世話をするのは楽ではないだろうに、イヤな顔一つせずただただにこにこと薔薇の世話をする娘。おかげで伯爵邸には、見事な薔薇園が出来た。
しかしその薔薇が綺麗に咲く頃には、国王夫妻の仲はまた酷く悪化する。
「お前はまたあの男から送られた薔薇の花など眺めて!」
「私が私のもらったものをどうしようと勝手でしょ!」
「あの屋敷から出て行け! いや、いっそこの国から出て行ってしまえ!」
「何を馬鹿なこと言ってるのよ! この国は私のものよ! 上の子二人に異常が見つかった以上、この国はあの子が継ぐことになるのよ!」
彼が娘を知ったのはそんな時だった。口も利けない、幼い少女。何一つ思い通りにならない世界で、彼の言う事ならなんでも聞く召し使い。
「いいんだよ。何も考えなくて。君は僕にずっと従っていればいいんだ、アリスタ。ずっとずっと……ただ、僕だけに……」
◆◆◆◆◆
ここはどこだろう?
いつの間にか気絶してしまったアリスは、目覚めてまずそう思った。彼女がいつの間にか連れて来られたのは豪奢な一室で、しかし長椅子に無造作に寝かされている。明らかにワンダーランドの景色ではない。
「お目覚めかしら。シロウサギの屋敷に詰まった化け物ちゃん」
ぼうっと辺りを見回していると、入り口の扉が開いて一人の婦人が姿を現した。化け物と呼びかけられて、アリスはきょとんする。
「ここは『マッド・ティーパーティー』いかれたお茶会と呼ばれる屋敷よ。紅白両国の中立地帯として建てられたもので、私もよく使わせてもらっているわ」
意味のわからない単語が幾つか挟まったものの、それでアリスにはわかった。つまりここはワンダーランドではないということが。そして察するに自分は目の前の婦人の命令でここまで連れてこられたのだろう。
しかし、それがなんのためかはさっぱりわからない。
頭の上に幾つもの疑問符を浮かべているアリスの前で婦人が名乗る。
「私はワンダーランド流にいうのであれば、〈公爵夫人〉よ。よろしく」
よろしくと言いながらも公爵夫人の顔は笑ってはいない。いまだ長椅子に座ったままのアリスを見くだすように見下ろしている。
「もっとも、あなたはよろしくしたくないかもしれないわね」
孔雀の羽を使った派手な扇を閃かせ、公爵夫人は続けた。
「まったく、伯爵が目をかけている女と言うからどれほどの美少女かと思えばこんなチンクシャだなんて」
伯爵、アリスに関係のある伯爵と言えば時計ウサギしかいない。にわかに興味を持ちそれを示すように身じろぎした彼女を、しかし公爵夫人は冷めた眼差しで見下ろすままだ。
「聞きたい? あなたの知らない伯爵のこと」
こくん、とアリスは頷いた。
「じゃあ、教えてあげましょうか。あの方と私の出会いを」
◆◆◆◆◆
マッド・ティーパーティー。いかれたお茶会。その名を持つ館に、今は数人が足を運んでいる。
「帽子屋、君、どうしたの?」
〈三月ウサギ〉と〈眠りネズミ〉の二人は、突然出て行ったかと思えば間もなく少女を一人攫って来た知人の挙動に驚いている。三月ウサギはこの館の管理人であり、眠りネズミは彼の預かり子だ。三月ウサギも帽子屋も白薔薇の国の人間で、金髪に淡い緑の瞳をした二十代の男。眠りネズミは彼らより年若く、十五、六歳の少年だった。
「公爵夫人の命令だ。何でもあの娘は時計ウサギの関係者らしい」
「ラヴィエス様の?」
三月ウサギも、公爵夫人が時計ウサギなる伯爵に執着していることは知っている。簡潔な言葉に一瞬で事情を飲み、彼は頭を抱えた。
「だからって、あんな幼女を誘拐!? 何考えているんだよ! 君は!」
「あの娘は現在ワンダーランドの住人だ」
三月ウサギがハッとした。
「今は時計ウサギが出かける間、ハートの女王に面倒を見てもらっているという」
「……君はまだオルドビュウス王子殿下を憎んでいるのかい? 帽子屋」
彼の問に帽子屋は答えなかった。その沈黙を肯定とし、三月ウサギが深く深く溜め息をつく。
「……別に何もしなくたって、このまま放っておけばそのうちハートのクイーンなる王子殿下は廃嫡なのだろう? 放っておけばいいのに」
「それでは俺の気が収まらない!」
「だからって、あんな小さな子を巻き込んでいいわけがあるのか?」
「だったらお前も、一度王宮の牢獄にぶち込まれてみるがいい!」
三月ウサギに向けて感情的に怒鳴った一瞬後、帽子屋は自分の発言の乱暴さに気づいたらしく肩を縮こまらせて項垂れている。
「……すまない。お前だって王宮にはいい思い出がないのに」
「ううん。僕も言い過ぎたよ。……君にとって、ハートの女王はまだ恨みの的なんだね」
ぽつりと呟くように三月ウサギが言うと、二人の間に気まずい沈黙が降りた。
帽子屋、今は〈いかれ帽子屋〉と名乗る彼は、以前無実の罪で投獄されたという恨みがある。一時期警察として街の治安に勤め、その事件の調査担当の最高責任者にいたのが、白薔薇国第二王子オルドビュウス――ハートの女王だった。実際には女王自身が目を通すこともない末端の事件で、帽子屋を投獄することに決めたのは別の人物なのだが、それでも冤罪が明らかになった際責任を問われたのは彼だった。帽子屋は今でもハートの女王を恨んでいる。
しかしその女王も、身体的な理由により白薔薇の王位を追われようとしている人物だ。
「君の言いたいことはわかるよ……でもそんな風に復讐に生き急ぐ君を見ていることは、僕らは悲しい。ねぇ、戻れないのかな、また昔のように、ただ笑いあっていた頃に」
三月ウサギが切実に呼びかけるが、帽子屋は答えない。
「……ハッタ? ヘイア?」
それまで部屋の隅で一人、長椅子に横たわり眠っていた少年が目を覚ました。
「ヤマネ」
少年はいつも大人しく、横たわっていては眠っているのか起きているのか区別がつかない。彼がはっきりと身体を起こしてようやく彼が目覚めていることを知る。
眠りネズミの異名で呼ばれるのは、盲目の少年だった。
「なんだい、ヤマネ。僕たちならここにいるよ」
三月ウサギが近寄っていって彼の手を握ると、眠りネズミは嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「……僕も、ハッタもここにいるよ」
少年を抱き上げて、三月ウサギは先程の席へと戻る。眠りネズミは見えない目で、じっと見つめるかのように、気配を頼りに帽子屋の方を向く。
開かない瞼の下の鮮やかな色をした瞳に声もなく見据えられているようで、帽子屋としては少し、居心地が悪い。
少年を抱きかかえたまま、三月ウサギが口を開いた。
「ワンダーランドに、僕たちも戻ろうかと思っていたんだ」
「ヘイア!?」
突然の宣言に帽子屋が目を剥く。
「いきなり何を言い出すんだ!」
「いきなりじゃないよ、ずっと前から考えていたことだ。もともとこの館の管理だって時計ウサギのものだし、あそこならヤマネがいたって問題ないだろう」
「お前は……」
「僕も。僕もあそこで、穏やかに暮らせればそれでいいんだ。無理に復讐を遂げる必要性なんて感じない」
眠りネズミの背に回した三月ウサギの腕の力が微かに強くなったのを、彼に抱きかかえられている少年だけが知る。
「だから、かな。君に復讐をやめてほしいというのは僕のエゴだ。その方が都合がいいからだよ。そうすればハートの女王とももう争わなくてすむし、公爵夫人と時計ウサギの間で苦しむこともなくなる。だってあそこは……どうしたの?」
三月ウサギの最後の言葉は、帽子屋ではなく腕の中の眠りネズミに向けて発されたものだった。いつものように瞳を閉じたまま、少年は何故か険しい眼差しで扉の方を睨んでいる。
怪訝に思って三月ウサギと帽子屋も扉の外を気にしていると、やがて足音が聞こえてきた。体重の軽い子どもの足音はよっぽどでなければ聞こえないはずだが、閉ざされた視覚の分別の感覚が鋭くなっている眠りネズミにはわかったらしい。
「……チェシャ猫」
扉を開けて現れた存在に、三月ウサギも帽子屋も固まった。帽子屋としては敵でも味方でもない上に厄介な立場と性格のこの相手を警戒して。三月ウサギは純粋にチェシャ猫が苦手で。
三人を前にして、チェシャ猫はにんまりと笑った。
◆◆◆◆◆
「と、いうわけ。これが私と伯爵のなれそめよ」
なれそめと言うには舞踏会で縁故を持ったというただの出会いのようだった気もするが、とりあえず公爵夫人は一通り語り終えたようだった。
「さて、あなたは……ん?」
そしてアリスにもラヴィエスのことを喋らせようとして、ここでようやく公爵夫人は彼女の様子に気づいたようだった。
「ちょっと、やだ、あなたもしかして口が利けないの?」
こちらに連れてこられてから、アリスは一言も口をきいていない。もっと早く気づいてもよさそうなものだが、この公爵夫人にとってはアリスの無言など些細な問題だったようで今になって気づいている。
こくんと頷いたアリスの様子に、公爵夫人は孔雀の羽を使った扇を振って顔をしかめる。
「だから、何もないくせにワンダーランドの住人として認められているというわけね。あの館は欠陥品の集まりだもの。ラヴィエス様もどうしてあなたのような子どもに手を出したりしたのかしら。やはり同情? 憐れみ? あなたには何かあるというの?」
公爵夫人の言葉に、アリスはことんと首を傾げる。彼女の矢のような言葉は悪意を持って放たれるが、肝心のアリスはそれをわかっていない。
「……ああ、聞いても答えられないのね。つまんない子。でも文字くらいかけるでしょう? え? それもダメ?」
喋れないなら筆談だと、紙とペンを差し出そうとした公爵夫人に対しアリスは首を横に振った。アリスは簡単な文なら読めるが、難しい言葉は知らない。また、書き取りは一切できない。
「伯爵はどうしてあなたのような子を側においているの?」
心底不思議そうな様子の公爵夫人に、しかし答えたのはアリスではなかった。
「それは私だけが知っていればいいことです。公爵夫人、余計な手出しは無用です」
いつの間にか時計ウサギが部屋の入り口に立っていた。彼の背後にはハートの女王までがいる。
「約束どおり、俺たちだけでここまで来たぞ、アリスを返してくれ」
伯爵よりその背後の女王に気をとられ、公爵夫人が一瞬息を飲む。
「……殿下、見れば見るほど女の子ですわね」
「ほっといてくれ。そんなことよりも、アリスを返せよ」
「私は放っておいてもいいのですけれど、よくはない人が一人ここにはいるもので」
公爵夫人が白い手袋に包まれた指をぱちりと鳴らすと、どこからともなく黒マントの男が現れた。
「オルドビュウス、覚悟!」
剣を向けられ、女王は咄嗟にドレスのスカートをたくし上げ内側に隠し持っていたナイフで応戦する。
「お前は……帽子屋!」
自分を恨みに思う男の顔をみとめて女王が眉を歪めた。チェシャ猫の伝言から彼がアリスを攫ったということはわかっていたのだが、実際にこうして顔を合わせると複雑な心境になる。
「今日こそ貴様には死んでもらう」
殺意をもって女王に斬りかかる彼の前に飛び出したのは、剣を抜いた時計ウサギだった。兄を庇って帽子屋と斬り合う。
「ああ、やってるねぇ」
事態を攪乱するように、更に姿を現したのはチェシャ猫だった。帽子屋と時計ウサギの戦いにパチパチと手を叩いている。
「兄上!」
時計ウサギと女王にアリス拉致の報を告げたのはチェシャ猫だ。
だが何を隠そう、帽子屋たちに時計ウサギと女王がこの館に到着したことを伝えにいったのもチェシャ猫だった。
彼はどちらの味方でもない。
戦いを止めたのは公爵夫人ともう一人だった。
「おやめなさい、帽子屋」
彼女の一言に帽子屋はぴたりと動きを止める。それでも油断なく剣を構えていた時計ウサギの服の裾を、誰かが引っ張った。
「なっ、……アリスタ」
瞬間的な苛立ちを湛えて険しくなった顔つきを、しかし時計ウサギは自分の服の裾を捕まえている相手を見て押さえ込む。アリスが彼の戦いを妨げるように服を握ってその動きを邪魔していた。
ふるふると首を横に振る。もう戦わないで。
「……わかったよ」
時計ウサギが剣を収める。一連のやりとりを見ていた他の面々はそれを不思議なものでも眺めるような目で見ている。
「やっぱり、ラヴィエスにとってアリスは――」
「皆さん!」
乾いた部屋の空気をかき回すように、また新たに扉の向こうから顔を出した姿があった。
「ここはあくまでも話し合いを目的とするための中立地帯ですよ! すぐに剣を仕舞ってください!」
三月ウサギが部屋の中に飛び込み、帽子屋とラヴィエス、それから女王のナイフを見咎めて全員に得物を仕舞わせた。それから公爵夫人の方へと顔を向け、精一杯険しい顔を作り睨む。
「困りますね、公爵夫人。いくらあなたが貴族と言えど、ここはワンダーランドのルールに則った施設の一部。あまり無体なことをなされては」
「はいはい。わかったわよ、管理人のうかれウサギさん。私は今日はもう帰るわ」
「そうしてください。それから、ここはしばらく封鎖しようと思うのですが」
「何故?」
「私もこれからワンダーランドに向かいますので。いいですよね? ハートの女王」
「あ、ああ」
反射的に頷いた女王を冷めた目で見遣り、公爵夫人も渋々承諾する。
「……そう。わかったわ」
三月ウサギの乱入によって二者の争いはなし崩しに終了となり、双方は帰り支度を始める。
ハートの女王や時計ウサギ、帽子屋や公爵夫人の中でははっきりしているのかもしれない敵対関係も、彼らの事情を飲み込めないアリスにとってはまったく何が何だかわからない。
「あーりすっ」
そんな中、両者の事情に通じていそうながらどちらに加担する様子も見られない不思議な存在であるチェシャ猫がアリスに声をかけてきた。
「これがワンダーランド。敵も味方もない。味方も敵もない。誰もが敵で誰もが味方。そして時間殺しの牢獄で争い続ける」
「猫殿下」
「……変な呼び方やめてくれる? 三月ウサギ」
アリスと向かい合っていたチェシャ猫のもとに、三月ウサギがやってくる。アリスにとっては初めて見る顔である彼は、チェシャ猫に対してこう言った。
「あなたが〈時間〉を憎んでいることはわかります。そのために影で〈ジャバウォック〉と手を組んで何かをやろうとしていることも。ですけれど、それに無関係な存在を巻き込むのはやめた方がいい。時間殺しの罪は、僕たちだけで背負うべきだ」
「……アリスに関しては時計ウサギに言ってくれ。あいつがこの子を巻き込んだんだよ。僕はそれをちょっと後押ししただけ」
「その後押しが余計だと言っているんです」
「そうかな。でも本人はどうだろう? ねぇアリス、僕は余計なことをしたかな?」
チェシャ猫が言っているのは、彼がアリスをワンダーランドなるあの建物に連れて来てくれたことだろうか。ならば、とアリスはふるふると首を横に振って否定した。アリスは彼に連れて来てもらい、ラヴィエスと再会できてよかったと思っている。
「ほら、どうだい?」
得意げな笑みを浮かべるチェシャ猫に対し、三月ウサギは処置なしとばかりに肩を竦める。
「……しょせんここは『いかれたお茶会』。時間殺しの罪を背負うものたちが、永遠の狂気の宴を繰り返すだけの場所なんだ」
「そうだよ。だから君も気にせず、汚れたカップでお茶を飲み続ければいい。中身のないお茶を。そうだろう、うかれウサギ」
チェシャ猫の言葉に三月ウサギは瞳を鈍く細める。
「僕たちはワンダーランドに戻ります。……計画もそろそろ大詰めでしょうから」
「ああ、そうだね。そうするといい」
「あなたとジャバウォックの好きにさせるわけではありませんよ」
「もちろんだよ」
チェシャ猫と三月ウサギの間に流れる奇妙な緊張感。それを無理矢理断ち切って、三月ウサギは荷物を取りに、眠りネズミの待つ部屋に戻る。
公爵夫人が帽子屋を連れていっとうはやく館から出発し、やがてアリスも時計ウサギと女王に呼ばれた。三月ウサギと眠りネズミなる人物をチェシャ猫が馬車に乗せる。
そしてマッド・ティーパーティーからは誰もいなくなった。