第3章 真綿の蛹
伯爵家の薔薇園の土は、豊かな大地を持つ紅薔薇の国の国王から白薔薇の王妃に送られたものである。数年前に国王と仲たがいした王妃は王族である以上離婚などないが現在は別居中で、伯爵の屋敷に起居していた。
その王妃の好きなものは薔薇の花だった。珍しいことではなく、この国は白薔薇の名を冠する国だ。国花は言うまでもなく薔薇で、それを愛する者も多い。しかし白薔薇の王国と隣国の紅薔薇の王国で違うのは薔薇の楽しみ方だ。土が貧しいと言われる白薔薇の国では、よほどの手をかけないとまず扱いの難しい薔薇の花など育たない。薔薇は貴重品だったのだ。しかし隣国の紅薔薇では違う。かの国では土が肥えていて、薔薇はどこでも気軽に育てて楽しむものである。
その紅薔薇王国の豊かな土が、伯爵家の花壇に埋まっている。そこに植える薔薇の苗ごと隣国の国王から送られた土は、白薔薇の国の中でも見事な薔薇の花を咲かせた。
美しい紅い薔薇を。
ここは白薔薇の国であり、国花として親しまれているのはもちろんその名の通りの白薔薇だ。しかし王妃が伯爵家で育てさせたのは紅い薔薇。それを送ったのは紅薔薇の国の国王。
王妃は数年前から夫である白薔薇の国王と仲たがいをしている。
薔薇を育てさせるために王妃が雇ったのは、黒髪の幼い少女だった。その容姿は紅薔薇国の人間のもので、紅い薔薇を育てさせるにはこの国の人間よりも相応しく思えた。
薔薇の花は、本来あるべきではない別の場所で根付いた――。
◆◆◆◆◆
「まいったね。ジャックが手を出してくるとは」
いつも陽気な道化のように場をひっかきまわすハートの王が、今は珍しく厳しい顔つきで呟いた。彼女はその長い黒髪を、鬱陶しそうに手で払う。
「それだけアリス……アリスタがラヴィエスにとって重要人物だと目されているってことだろ?」
ハートの女王がドレスの裾を巻き込みながら足を組み、顎に手を当てて考える。艶やかなその姿は、本物の女性のようだ。
「となると情報を流したのは、やはりチェシャ猫様でしょうか」
「たぶん。兄上は教皇庁の人間だ。この国の王家にも紅薔薇の王家にも繋がりがある」
グリフォンの疑問にハートの女王がそう答えると、王が深く溜め息ついて謝罪した。
「我が愚弟が迷惑をかける」
はぁ、とつく溜め息はとにかく深く、女王やグリフォンの方が戸惑ってしまう。
「そんなことは……それを言うなら俺の兄上だって」
チェシャ猫のいつまで経っても幼い顔立ちを思い浮かべ、女王は沈み込んだ。
「オルドビュウス王子殿下、ティアラーデ王女殿下」
ワンダーランドと言う名の頚木の中で与えられた名前ではなく本名でハートの女王と王を呼んで、前回ジャックにその名を騙られた本物のビル、時計ウサギの配下の一人である男が言った。
「アリスタに、真実を教えるべきでしょうか?」
彼らがこの場に集い話し合っている内容はつまるところそれだった。渦中の人である少女アリスに、どこまで真実を教えていいものか。
その真実とは、この王国、否、白薔薇と紅薔薇、両国の秘密に深く関わるものである。
「まったく、ラヴィエスといいジャックといい、弟たちの暴走には困ったものだな」
ハートの王は頬に手を当てて、さも困らされているというように嘆いて見せた。
「でも、二人がああであるのは、上にあたる俺たちがこういう状態だからっていうのもあるんだし」
「まぁね」
女王の言葉に王も頷く。女王という呼び名でありながら実体は白薔薇の王子の一人であるオルドビュウス。王と呼ばれながら実際は紅薔薇の王女ティアラーデ。
「……ラヴィエスの思惑がまだ十分にはわからない。アリスとの関係も、あいつは俺たちにも何か隠している。それが何なのかわかるまで、少し様子見と行かないか?」
「そうだね」
そして結局話し合いは、そのように収まった。
◆◆◆◆◆
ワンダーランドの中は広い。建物自体が広い上に、室内の装飾がどこもかしこも個性的な騙し絵のようになっていて、迷いやすいのだ。
早く慣れるためにも、アリスはハートの女王が用があると言って出かけているその間、一人で屋敷中を巡っていた。まだ一人で館内を探検したことのないアリスだ。迷って元の部屋に戻ってこれなかったらどうしようかという根源的な問いかけを、うっかりアリスは忘れていた。
外観は荘厳な教会をも思わせる建物であるワンダーランドは、別名をクローケーグラウンドと言うらしい。それはここにいる人間たちの中でハートの女王が最も身分が高いということで、彼に合わせてそう呼ぶのだと誰かが言っていた。
〈花〉たち、〈昆虫〉たち、〈子鹿〉、〈チェス駒〉たち、〈ドードー〉、〈ネズミ〉などなど、様々な人々がこの屋敷では暮らしている。個々の部屋と共に共用スペースと呼ばれる遊び場も数多く、探検するには困らない。しかもどんな理由か、この屋敷に住む人々は皆大概寛容で、個人の部屋に勝手に入っても滅多に怒る者はいないという不思議さだ。
今日もアリスはまた、これまで顔を合わせたことのない一人と新しく出会った。
「おや、お前が新入りと噂のお嬢ちゃんか」
それは水煙管を加えた老人だった。青い服を着て、やけに派手な室内の中で寛いでいる。椅子のデザインは茸だ。
「わしは〈イモムシ〉だ。よろしく、アリスのお嬢ちゃん」
老人がその場から動かずに手を差し出したので、アリスは部屋の中に入っていって彼の手を握った。他者から見るとおざなりだが本人同士はこれで普通だと思っている握手が終ると、イモムシはアリスに床のクッションに座るよう指示した。
「せっかくここに来てくれたのだから、一つ面白い話でもしてやろうかね。お前さんも興味があるだろう、きっと」
ことんと首を傾げたアリスに目を細めると、イモムシはこう補足した。
「お前さんのご主人様、〈時計ウサギ〉ラヴィエス伯爵のことだよ」
それは楽しそうだ、とアリスも居住まいを正した。彼女はもともと時計ウサギのメイドだ。ここに来てからは女王や王、グリフォンやビルやメアリアンなど他の人々も伯爵の館で暮らしていた時に比べるとよっぽど優しく親しく接してくれるので嬉しいが、それでももとの主人である時計ウサギに対しての興味とは別物だ。
アリスは彼のメイドだった。王妃の薔薇の世話をするためのメイドだ。館には彼女以外の紅薔薇人はいない。先の戦争の影響もあって、人々は敵国の人間を好まない。
「さて、まずどこから語ろうか。お嬢ちゃん、時計ウサギがハートの女王の弟だと言うことは知っておるな?」
それは知っている。アリスはイモムシの言葉に頷いた。
「そして、二人の上には更に兄のチェシャ猫がいる。それも知っとるか?」
アリスは再びこくんと頷いた。
「さて、ところで時計ウサギは本名伯爵ラヴィエス、そしてハートの女王は」
白薔薇の国、王子オルドビュウス。
「正確にはオルドビュウス王子殿下は第二王子、そして第一王子はエルドラウト……チェシャ猫のことだがね、この三人が兄弟というのは、いろいろな意味で不思議ではないかね?」
難しいことはよくわからないアリスは自分の頭の中でもう一度ゆっくりとそれぞれの立場を整理して、確かに、と首を傾げた。
白薔薇の王国第一王子はエルドラウト。しかしこの王子は早くに継承権を放棄して出家したという話を聞いたことがある。
だが実際のエルドラウト王子はチェシャ猫と名乗り、アリスの前に姿を現した。そして何よりも不思議なことに、ラヴィエスは十七歳、その兄であるオルドビュウスは二十代半ば、少なくとも彼らより年上でなければならない長兄エルドラウトは、外見はどう見ても十二、三歳の子どもだ。
もう一つ不思議なことは、ラヴィエスの瞳の色だ。白薔薇の人間は淡い髪色に青や緑の瞳である。特に王侯貴族の特徴は金髪に青い瞳だ。それが王家の特性だった。しかしラヴィエスの瞳は紅色だ。
そのもう一つの疑問に関しては、イモムシの更なる言葉で補足され、逆に深められたとも言える。
「お嬢ちゃん、ハートのキングには会ったかい?」
黒髪の美女の姿を思い出し、アリスはその質問にも頷いた。
「そうか。あの御仁は見ての通り紅薔薇の人間だ。お嬢ちゃんとも同じだね。彼女は紅薔薇王家の王女、今の国王の第一子だ。その弟はジャック王子、第一王子の彼が紅薔薇の国を継ぐことになっている」
ジャックと聞いて、アリスは先日出会った少年のことを思い出した。黒髪に紅い瞳の少年は、ビルを騙ってアリスへと会いに来た。その彼が紅薔薇の世継ぎの王子?
「ジャック王子には兄がいてな、……その兄というのが、ラヴィエス。ティアラーデ王女の弟でもあるが」
?
新たな事実に、アリスはまた頭の上に疑問符を浮かべた。
エルドラウト、オルドビュウス、ラヴィエスが三兄弟で白薔薇の王家の人間、そして紅薔薇王家はティアラーデとジャック、かつラヴィエスがティアラーデの弟でジャックの兄?
そしてイモムシの言葉とこれだけ王族の名前が出てきて改めて思い出したのだが、ラヴィエスはそもそも王族ではない。彼はあくまでも伯爵で、オルドビュウスやジャックのように王子ではない。
けれど、彼の伯爵家の館には王妃がいた。
国王と別居中の彼女が何故ただの伯爵であるラヴィエスの屋敷になどいたのだろう。
それはつまり、彼はただの伯爵ではないということなのだろうか……?
「混乱しておるようだな。つまりのう、時計ウサギは一人だけ親が違うのだよ。彼は白薔薇のオルドビュウス、エルドラウトとは異父兄弟、紅薔薇のティアラーデとジャックとは異母兄弟だ」
なるほど、と納得した半面アリスのうちにはまた別の疑問が芽生えた。
白薔薇の王子とは異父兄弟、紅薔薇の王族とは異母兄弟、では彼の父と母は誰だ?
伯爵ラヴィエスの館には白薔薇の王妃がいた。
イモムシがアリスの疑問に解を与える。
「つまりな」
そしてそれこそが、数年前の戦争の引き金となったのだとも知った。
「時計ウサギこと伯爵ラヴィエス、彼は白薔薇の王妃と、紅薔薇の国王の息子だよ。そしてどちらの国の王位継承権も持っている」
白薔薇の国の王妃はもともと王族、現国王とは従姉弟関係にあり、彼女も王位継承権をもっているのだから、と。
◆◆◆◆◆
「……聞いてしまったんだね、僕たちのこと」
イモムシと向かい合って彼の話を聞いていたアリスは驚いて背後を振り返った。
そこにはいつ来たのか、チェシャ猫が立っている。
「……殿下」
その幼い姿をどこか憐れむように、イモムシがそっとチェシャ猫へと呼びかけた。
「うるさい。貴様などに用はない」
もともとは王宮の人間だったと名乗ったイモムシはチェシャ猫とも面識があるということか、二人は顔見知りの様子。けれどチェシャ猫に親しみを持っている様子のイモムシに対し、チェシャ猫は冷たい。
「あのお堅いラヴィエスに恋人ができるなんて思ったこともなかったのに、どういう風の吹き回しだろうね。でもアリス、今聞いたとおり、二つの国の王位継承権を持っていて二つの国どちらをも脅かすラヴィエスという存在にとって、君はまたとない弱点となる。僕らにとっては、それは好都合なんだよ」
何故? アリスは彼に言われたことがわからなかった。チェシャ猫は時計ウサギの兄ではなかったのか?
なのにどうして、これではまるでチェシャ猫が彼を憎んでいるようではないか。
「ああ、憎んでいるんだよ。僕はオルドビュウスもラヴィエスも、僕に手に入れられないものを手にするあいつらが憎い。せっかくオルドビュウスに身体的欠陥が見つかって王子として国を継ぐには不都合とされたのに、まさかあんな弟がいただなんて……!」
彼の口ぶりからすると、チェシャ猫はある時まではラヴィエスの存在を知らなかったのだろうか。
チェシャ猫はすでに教皇庁へと出家した身、そしてアリスにはよくわからないが、ハートの女王オルドビュウスにも何か身体的な問題があるという。つまり白薔薇の国では、ラヴィエスが王位を継ぐ可能性があるという。
そこでようやく、アリスは何故彼が突然失踪したのかに思い至った。
彼は権力争いを避けるために姿を晦ましたのだろうか。だがそのことを、チェシャ猫もハートの女王も知っている。
何がなんだかもうわからない。
「ねぇ、アリス。君も本当に〈アリス〉になってくれるの?」
先程までの険しく冷淡な表情とは一転して、不自然なまでに可愛らしく子どもぶりっ子でチェシェ猫は尋ねた。
「君も全てを捨てて、ワンダーランドの住人になってくれるかい? この有刺鉄線の館の住人に。どこにも行かず、どこにも行けず、夢幻の時間の牢獄に囚われたまま」
イモムシは黙っている。アリスも答えられない。
チェシャ猫の言葉は続く。
「君がラヴィエスを引き止めて、この場に繋ぐ鎖になってくれれば僕たちも手荒な真似はしなくてすむよ。ただ――」
彼の言葉の続きを聞く前に、疾風が部屋の中を駆け巡った。
「お嬢ちゃん!」
悲鳴をあげることもできないアリスをイモムシが呼んだ。彼女は一瞬のうちに、部屋に飛び込んできた怪しい黒服の男に抱えあげられていた。
「貴様は〈帽子屋〉!」
「イモムシよ、ハートの女王と時計ウサギに伝えろ。この娘を返してほしくば、『マッド・ティーパーティー』へ来いと!」
男はアリスをしっかりと抱えると、窓を突き破って建物から飛び降りた。