第2章 長くて短いお話
「この裏切り者!」
男は女の頬を張り飛ばす。夫は妻の頬を殴った。
「お前など死刑になってしまえ!」
しかし妻も負けてはいない。
「何よ! もともとこの国は私が継ぐはずだったのよ! 死ぬならあなたが死ねばいいのよ!」
「首を斬れ!」
「死になさいよ!」
「どいつもこいつも私を馬鹿にして! お飾りの王などと侮りおって! おい、首を斬れ! あのものを死刑にしろ! ……私のいうことが聞けないのか!?」
狂った王の命令は繰り返される。
「首を斬れ! 首を斬れ! 首を斬れ!」
「国王陛下……」
男はそんな国主の姿を、悲しい目で見つめていた。
グリフォンは言いました。
「本当に首を斬られた者なんかいないんだよ。みんな女王の妄想なんだ」
◆◆◆◆◆
「そしてなんでこうなるのだろう……」
〈女王〉は呟いた。彼の目の前には黒髪おかっぱの少女〈アリス〉がいて、彼はその世話を〈時計ウサギ〉から任されている。
「ラヴィエスのヤツ、自分は貴族との話し合いがあるからって自分の彼女の面倒を俺に押し付けやがって……そもそも、なんで兄上があいつのメイドとの関係なんて知ってたんだ?」
ぶつぶつと言いながら、それでも基本的にアリスの面倒を嫌がらずに見ている女王はお人好しなのだろう。
アリスの視線の先、彼の背中から突然にゅっと人の手が現れる。
「へぇ、これが時計ウサギの大事な子?」
「〈王〉!」
どう見ても女性にしか見えないが男だという〈ハートの女王〉の背後から顔を出したのは一人の女性だ。しかしこちらは男装の麗人で、紅いマントを羽織っている。
「私は〈ハートの王〉、よろしくね、〈アリス〉ちゃん」
王は女王の肩口から顔を出して、ひらひらと手を振る。長い黒髪がさらりと揺れた。瞳の色はルビーのように紅い。
ハートのキングとクイーン。
「私たちワンダーランドの住人は、基本的にこの建物から出ない。例外はあなたの恋人、時計ウサギのラヴィエスだけど、まぁ、あの子はね」
それはアリスも不思議に思っていた。あれからアリスは女王以外の人物とも顔を合わせたが、誰もこの館の外に出て行く様子はないのだ。
「……というか前々から言おうと思ってたんだけどさ、この子があいつの恋人って扱いでいいの?」
「女王、お前の弟がそれでいいというのならいいんじゃない?」
「あなたの弟でもあるだろう、王」
アリスの知らないラヴィエスのきょうだいがまた増えた。ハートの女王とチェシャ猫は時計ウサギの兄、そしてこのハートの王は彼の姉らしい。
「ま、この館は一度入ったら出られないけど、まぁ……勝手に出ていっても咎めるような人もいないんだけれど、それでも出ていかなければ大丈夫だから、好きにするといいよ」
王は結局アリスに何の説明もなくそれだけ言い放つと、来たとき同様どこから現れどこに行くのかわからない様子で姿を消してしまった。
だが彼女もワンダーランドの住人ならば、この館のどこかには常にいるということだろう。
「ああ、まったくあの人は……」
一方その放埓さに頭を抱えているのは残された女王だった。そしてやはり困ったようにアリスに笑いかけるのだった。
そういう顔は、瞳の色こそ違えど弟であるという時計ウサギに通ずるものがある。
「でもま、とりあえず屋敷の中でも巡って、遊ぶか?」
◆◆◆◆◆
「おや、初めて見る顔だね、こんにちは、お嬢さん」
女王と共にワンダーランドの中をめぐり、出会った男は〈ドードー〉と名乗った。もともと目的があって建物中を彷徨っているわけでもない。彼と女王はアリスを伴い、その場で話しこむ。
ワンダーランドの中は一部屋一部屋に綺麗な風景が絵画という形で飾られていて、暖炉の上でそこだけ別空間にしている。猫足の重たそうな椅子を引きずってきて座り、女王はドードーと言葉を交わす。
「それにしても、ハートの女王は城に戻る気はないのかね?」
「ハートの王にも言ってくれよ、それ……まぁ、戻る気はないよ。俺が今戻ったところで国が混乱するだけだろう。そんなぐらいならラヴィエスに全部任せて、俺は引っ込んだ方がいい」
「そうか。まぁそれがお前さんの選択なら我々にはどうすることもできんよ。こんな忌々しいところにまで閉籠もったんだ。お前さんの覚悟も本物なのじゃろう」
アリスにはよくわからない女王の身の上話から段々と、二人の会話は今のこの国の状況を憂えるようへと変わっていった。
「しかし惨めなものよの。紅く染められた白薔薇は」
絵具で塗りつぶされた無惨な国旗がかけられた壁の方を眺めやりドードーは言う。
「白薔薇の国に今の国王が即位してから、もう二十年になる。その間、ずっとこの国は不振だった。実りのない政策、隣国との緊張関係、しまいには戦争を始めてしまって、しかも負けた。かといってうちの国を負かした紅薔薇の国が得をしたかというと、そうも思えない。この国の土は痩せているからな、たいしたものも育たなければ、他の産業が優れているわけでもなし」
スタート地点は誰もが違う、涙の池で溺れた人々。それを乾かすために走って走って、けれど勝者はいないのだと。
それが正しいのかどうか誰にもわからない。
「なぁアリス、お前だったらどうする? 涙を乾かすために走った人々のために賞品を分けてあげられるかい?」
女王がクッションの上に座りこんで二人の話を聞いていたアリスに問いかける。彼女は困って首を傾げた。メイドである彼女は誰かにあげられるようなものは何一つ持っていない。
「別になんでもいいんだよ。物語の中で『アリス』がたくさんの生き物たちに与えたのはボンボンだった。しかもそれは大きな鳥には小さすぎ、小さな鳥には喉を詰まらせるものだった。その賞品を与える『アリス』自身も何か受け取らねばならないと言われて、彼女は名誉代わりとして、自らが持っていた指貫を一度差し出し、更にそれをもう一度自分に授与された。……おかしいだろう? でもそれが国というものなんだ」
国、と呟く女王の声が酷く悲しげだったので、アリスは僅かに首を傾げて彼を見上げる。
金色の髪に青い瞳。金髪に紅い瞳の時計ウサギと顔立ちは似ているかもしれないが、その瞳の色がどうにも違う。
アリスは一応この屋敷の中ではラヴィエスのものだとして面倒を見られている。しかしその肝心なラヴィエスはいつも忙しそうに出かけている。
その代わりに女王がアリスの世話をしてくれる。まるでラヴィエスに頼まれれば断れないとでもいうように。
そもそもワンダーランドと呼ばれるこの館は一体何なのだろう。年齢も性別も境遇も様々な人々が節操もなく押し込められていて、共同体でありながらまるで別々に暮らしているような館。
だが、考えることをそこでアリスはやめた。
――いいんだよ。何も考えなくて。君は僕にずっと従っていればいいんだ、アリスタ。ずっとずっと……ただ、僕だけに……。
耳の奥、幻の声が蘇る。時計ウサギはアリスに言いつけた。だからアリスは時計ウサギを追いかけてきた。
「ところで女王、今日はグリフォンはいないのかい?」
アリスからの答をもともと女王は気にしていなかったのか、彼はドードーに話しかけられてそちらへと顔を戻す。
「ああ、彼ならば今国王陛下の元へとやっている。帰りにまた〈ウミガメモドキ〉のところにでも寄ってくるんだろう」
「おやおや、お優しいご主人様だ。部下が恋人に会いに行くのを黙認するためにそんな都合までつけてやって」
「……そんなんじゃないよ」
女王は悲しそうに瞳を伏せた。
「俺は、あいつにはとんでもない迷惑をかけてしまっているから」
「他人に迷惑をかけずに生きて行ける人間なんておらんよ」
「でも、本当に迷惑とすらも言えない、大変な迷惑をかけてしまっているから。あいつにも、ラヴィエスにも……それに、兄上だって……」
「チェシャ猫のことはもう気にするな。あれはお前さんのせいではない、お前さんが気に病んだところで彼を救えるわけではない」
「でも……」
そう、言ったきり女王はなんと泣き出してしまった。まるでこの場に自分と好好爺然としたドードー二人きりで、ずっと年下の少女アリスのことなど頭に入っていないかのような泣きっぷりだ。吃驚したアリスは思わず彼の膝にすがりついて顔を覗き込む。
「あ……ご、ごめん。急に泣いたりして。驚いたよな。俺ってさ、情緒不安定なわけ。そういう病名ってことにしてここにいるの。だから気にしないでくれよ、ごめんな」
驚いたままドレスの裾に縋り彼を見上げているアリスの頭を女王はそっと撫でる。
「君の黒髪は珍しいな。知っての通り、この国では金髪や薄茶の淡い髪の色に、青や緑の眼の色が多い。お隣の紅薔薇の国では黒髪に紅い瞳、君は何等かの事情で紅薔薇の国から来たのかな」
女王はアリスの頭に手を置いたまま、窓の外を眺める。
「薔薇の名を冠していても、この国では薔薇は咲かない……咲かないんだ」
咲かないんだ、そう零した声が、抑揚が女王は時計ウサギに似ている。
そして彼らの母親にも。
アリスの仕事は彼女のために薔薇の世話をすることだった。伯爵である時計ウサギの屋敷に一緒に住んでいた高貴なる婦人、彼女が薔薇を好むというので、その世話役として雇われたのがアリスだった。
アリスはふと時計ウサギの伯爵家を思い出す。今しがた女王はこの国の土では薔薇は咲かないと言ったが、そんなはずはない。時計ウサギの屋敷では確かに花壇で薔薇が咲いていた。他でもないアリスが世話をしていたのだから覚えている。
「咲かないんだよ」
あれは何だったのだろう。
◆◆◆◆◆
「そう、あの人に、そんな相手が……」
公爵夫人は呟いた。厚く紅を塗った唇を白い歯がぎりりと食い破る。
「連れて来てちょうだい、その〈アリス〉とかいう小娘を。アリスという怪物を、あなたが見に行きなさい」
「私にトカゲの〈ビル〉の役をやれと?」
「そうよ、そういう契約でしょう?」
「かしこまりました、公爵夫人」
◆◆◆◆◆
「へぇ、君がアリス?」
ワンダーランドにおいて彼女はことごとく珍獣扱いなのか、今日も千客万来だ。
「あの時計ウサギの大事な女の子?」
しかし今度の相手は彼自身も今までの相手と少々毛並みが違う。病的に白い肌に黒髪と紅い瞳の少年、年齢は時計ウサギと同じくらいか少し下といったところだろう。白薔薇ではなく、紅薔薇の国の人間の特徴を持っている。
「君、なんで何も言わないの……って、ああ、口が利けないのか。ふーん。じゃ、まあいいや。とりあえず俺の話を聞いてくれれば。俺は……」
そこで彼は少し考えるようにしてから名乗った。
「俺は、ビル。トカゲのビルだよ。よろしく」
微妙な溜めは気にせず、アリスはビルと名乗った相手を素直に受け入れ頭を下げる。その頭をよしよしと少年が撫でた。
「それでさ、ある筋から君があの時計ウサギの恋人だって聞いたんだけど、本当?」
問われて、アリスはことんと首を傾げた。ハートの女王やチェシャ猫、ハートの王などもみなそう言うのだが、そもそもアリスは自らのそういう立場がわかっていない。
恋人って何だろう? ただ彼女としては時計ウサギもとい伯爵ラヴィエスが命じたから従った、それだけに過ぎない。
不思議そうな顔をするアリスに、初めこそ穏やかな表情をしていた少年はしかし徐徐に顔色を変える。どうやら彼女が何もわかっていないようだと見て取り、口元を手で覆う。
「まさか……」
けれど彼が次の言葉を発する前に、叫びが室内を裂いた。
「アリスタから離れろ!」
いつの間にかワンダーランドに戻って来たらしい時計ウサギが戸口で叫んでいる。彼の両側から大男とメイド姿の女が武器を構えている。
「お前……!?」
しかしそんな勇ましい彼らの様子も、アリスと向かい合っていた闖入者がその背中を振り返り、彼らに顔を見せたところで変わった。
「どーも、時計ウサギの兄さん」
「ジャック王子……!!」
アリスの位置からでも、時計ウサギが顔を強張らせるのがわかった。廊下を人が駆けてくる音が聞こえるが、彼らは動けない。
一方、ビルと名乗ったはずのジャック少年はきょとんとしているアリスの脇をすり抜け、窓枠を蹴る体勢に入る。
「ジャック!」
ハートの女王と王が駆けつけた。時計ウサギの肩口から顔を出して王が名を呼ぶが、ジャックはにんまりと笑みを浮かべると呼び止める彼らの声には答えず、二階から飛び降りる。
「じゃあね! 姉さん、兄さん!」
◆◆◆◆◆
「失敗した?」
公爵夫人は柳眉をひそめる。
「申し訳ありません。どうやら〈ジャック〉に先を越されたようでして」
部下の報告に公爵夫人が美しい青い目を瞠る。
「〈ジャック〉ですって……!? ではやはり、あの噂は本当だったのね」
彼女の手の中で、鮮やかな色彩の扇がばきりと折れる。
「であればなんとしてでも、伯爵をこちらに引き込まなければ。そう、お前にもう一度チャンスをやりましょう。今度こそ必ず、その娘を攫ってきなさい」
そう言って彼女は、骨の折れた扇を無造作に床に投捨てた。