第12章 夢を見たのは私
生きている。
「……どうして?」
目覚めてまず口に出たのはその言葉だった。白い天井を見上げながら、発した声は実際にはかすれていて、ほとんど音にならなかった。
それでも身じろぎしたのに気づいたらしく、部屋の中にいた誰かが彼の横たわる寝台の傍らへと歩み寄ってきた。その姿を目にして、チェシャ猫は驚く。
「ジャック……」
「おはよう」
彼が自分を助けたのか。不思議に思って見上げると、ジャックは何とも言えない笑顔になった。
「白の国に潜り込ませた間諜がお前が王を殺すのを見て、慌てふためいてお前を回収してきた。本当は俺に報告するのが先なんだが動転していたらしくてな、お前を城の外に連れ出してから連絡を忘れていたことに気づいたらしい。だがそのおかげで、その後白の王城で起きた謎の爆発騒ぎに巻き込まれず逃げ出すことができた。お前に感謝していたよ」
「……ジャック、僕は……」
ジャックの指が静かに降りてきて、そっとチェシャ猫の瞼を押さえた。
「今は何も考えるな、とりあえず眠れ」
ジャックの下には当然オルドビュウスが死んだという報せも、白の国の主要貴族が爆発に巻き込まれたという報告も届いている。だがそれを今は、今だけはチェシャ猫の耳に入れたくなかった。
もともと白の王の殺害から疲労しきっていたチェシャ猫の身体は休息を欲し、眠れと囁かれた直後、まるで魔法にでもかけられたようにあっさりと眠りへと堕ちる。
その額に、ジャックはそっと口づけを落とした。
◆◆◆◆◆
「どうかしたのか?」
彼は夜更けにその連絡を受け取った。
「教皇が死にました」
「死んだ? 何故?」
「何者かに暗殺されたようです」
教皇ジャバウォックは昨日まで元気に白の国征服を目論見、手駒としていた第一王子エルドラウト、チェシャ猫と呼ばれる人物の殺害まで計画していたというのに、次の日には自分があっさりと暗殺されてしまっている。
「まぁ、いいか」
報告を受け、彼はこれからの算段を立てながら気軽にそう呟いた。
「代わりなどどうせ、いくらでもいるのだから」
やれやれと呟くその言葉は、先日ジャバウォック自身が呟いたものと同じだった。
◆◆◆◆◆
「王様が暗殺!」
「戦争以来行方不明の第二王子様は!?」
「教会に行けば何かわかるだろうか」
「今王を失って、紅の国との戦争はどうなるんだ!」
城での爆発騒ぎを受けて、城下でも大騒ぎだった。城と街までの間に少し距離があるので爆発の余波が街を焼く事はなかったのだが、それでも一夜にして国の王と城、そして主要な貴族と役人たちが一気に消え去ったのだ。国民の動揺は激しい。
いつものように仕事をこなしながら、ウミガメモドキはふと、昔別れた兄のことを思い返した。今は黒い塊となってしまった、もとは白亜の宮殿を屋敷の窓から眺める。
「お兄ちゃん……」
屋敷には客人が到着した。屋敷の主人が昔城に仕えていた時の関係者だという。その老人はイモムシと名乗った。
◆◆◆◆◆
この屋敷はあなたに差し上げます。どうぞあなたの好きにしてください。
母上、あなたが、あなただけが生き残ったのを良いこととも悪いこととも僕には言えない。
ただ、僕はもう……咲くはずのない薔薇の花を欲しがることはやめたんです。
◆◆◆◆◆
まどろみから覚めると、そこには求めた人がいた。
「アリス……」
そちらの方が呼びやすいのだろうか、もはや彼は彼女をアリスタとは呼ばない。そんなことをぼんやりと考えながら見上げた見慣れぬ天井に、ここはどこだろうと思う。
ここは何処? ハートの女王や眠りネズミはどこ? 私たちはお城に向かっていたはずなのに、どうしてこんなところにいるの? どうして私は寝ていたの?
しかし寝台の中の彼女を覗き込む涙目の時計ウサギはそのどれにも答えず、ただ一言告げた。
「終わったんだよ、もう何もかも」
終わった。白薔薇の国が。ハートの女王たちの命も。
みんな死んだんだ、なんとなくアリスにもわかってしまった。最期に見た眠りネズミの微笑が忘れられない。ハートの女王と王、あんなに優しくしてくれた人たち。でももうこの世のどこにもいないのだ。チェシャ猫はどうなったのだろう。
不思議の国にいたことは、まるで夢を見ていたよう。今身を包む暖かな寝台にそう思う。こんな贅沢これまで知らなかったのに。
本当に欲しいものはそうではない。目の前の人さえいればいい。けれどこんな明るい、暖かな部屋の中にいると、もう何が夢で何が現かわからなくなる。
ああ、人生はまるで夢のようだ。
「……ねぇ、アリス。忘れていいよ。これまでのこと、全部。あれは悪い夢だったんだと」
時計ウサギの指が伸び、アリスの額を優しく撫でる。もっとお眠りと口づけて、自分は祈るように両手を組んだ。その手に、寝台から手を出してアリスは自らの手を重ねて微笑む。
自らの国を滅ぼそうとするチェシャ猫と時計ウサギ、それを止めようとしていたハートの女王、彼を殺そうと目論む帽子屋、その帽子屋を止めるために頑張っていた三月ウサギと、
紅薔薇の王子ジャック、グリフォンの妹ウミガメモドキ、城仕えをしていたイモムシ、ドードーなどワンダーランドの住人。
そして私は。
薔薇の枯れた国で、薔薇の咲かない園で、それでも幻の花を世話し続けた。
夢を見ていたのは、私。
了.
 




