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残酷遊戯  作者: 輝血鬼灯
10/12

第10章 世界を発明

 一歩足を踏み入れた途端、室内から馨しい薔薇の香りが漂ってきた。

 この国は土が貧しく、曇り空が覆うことが多く、よほどのことがなければ薔薇の花は咲かない。それを手に入れる手段も限られている。

 だのにこうして薔薇の香りが漂うと言うことは、この部屋の主がわざわざ薔薇の花を取り寄せたということだろう。しかし彼は、主が薔薇の花を好むどころか、憎んでいることを知っている。

 薔薇は部屋の主の愛した相手の愛した花だ。愛する女を理解するために、憎き薔薇の花に主は手を延べたのだ。

 それも結局は徒労に終わると知りながら、それでも。

「……え」

 彼は部屋の主に呼びかけた。


 ◆◆◆◆◆


「なぁ、公爵夫人のことはおいておいても、どうしてお前は僕たちを助けてくれたんだ?」

 娼館でジャックとチェシャ猫と一悶着を起こし、ようやく帰る折時計ウサギは帽子屋へ聞いた。

 黒服の男は、時計ウサギの兄であるハートの女王とは因縁の仲だ。彼は彼を殺したいほど憎んでいる。その弟である時計ウサギのことも忌々しく思っているはずなのだが、主人の命令というだけで彼を助けたりするものだろうか。

 帽子屋は時計ウサギの言葉に渋々と、彼の横に立つ少女を示して口を開いた。

「その娘が……眠りネズミと仲良くしていたからだ」

 帽子屋が三月ウサギと共に拾い育てている少年、眠りネズミ。彼とアリスは親しい。だから助けたのだと帽子屋は言う。帽子屋の歯止めとなるためにあえてワンダーランドに戻ると言った三月ウサギの目論見は成功しているらしい。

「そうか……ありがとう」

 素直に礼を言われたことが意外だったのか、帽子屋は目を見開いた。そして問う。時計ウサギが彼の反応を気にしていたように、帽子屋にも聞き捨てならない一言を時計ウサギは言った。

「……いいのか? ハートの女王を殺しても。お前の兄だろう」

 ハートの女王は、時計ウサギの兄だ。そして帽子屋の憎悪の的。殺していいのだという弟の勝手なお墨付きは、帽子屋にとってありがたいとも何とも言えない。

「あんな人を兄だと思ったことないよ」

 半分は血のつながった異母兄をばっさりと切り捨て、時計ウサギはどこか腹を括ったような、何かを悟ったような眼差しで言った。

 その視線の先は、帽子屋ではなく。

「もう、滅びるべきなんだ。この妄執に囚われた白薔薇の国は。ハートの女王もチェシャ猫も、僕自身さえも……勿論国王も」

 そしてその先には、どうかこんな狂気の王族ではなくもう少しだけマシなジャックの支配で、民にとって平和な未来を。

「お前……」

 帽子屋が眉を潜める。ようやく時計ウサギは顔をあげると、彼と視線を合わせた。

「僕が白の王を殺すよ」

 破滅の時は迫っている。


 ◆◆◆◆◆


「ふん……」

 馬車の中、ジャックは忌々しげに鼻を鳴らした。

「あの男、一体どういうつもりだ」

「……それを言うなら公爵夫人もだろう? こんな肝心なときに僕らを裏切るなんて」

 相乗り相手はチェシャ猫だ。どちらも白薔薇の国に関係が深いがこの国の住人というわけではなく、ジャックの居住はもちろん紅薔薇国王城内、そしてチェシャ猫は教皇庁の住人だ。

「それで、教皇庁はどう出るんだ、チェシャ猫」

 先程から沈んだ様子ではあるが、チェシャ猫は淡々と受け答えをする。

「変わらないさ。白の王を殺し、ラヴィエスも後継者から排除して紅薔薇のジャック王子、お前に二つの国の実権を握ってもらう。そしてその統治に我ら教会の者を滑り込ませてもらえれば、教皇のご意向としては満足のいく結果だ」

「……お前は?」

「僕? 僕だって変わらないさ。紅が白を統一したら、真っ先に教会に派遣されるのは僕になる」

「へぇ……」

 どこか呆れたような口調で、ジャックはチェシャ猫の言葉に相槌を打った。こうして話しながらも、二人はその後のチェシャ猫の処遇について、教皇ジャバウォックの考えはあらかた予想がついている。

 これは茶番だ。

「それでいいのかよ、チェシャ猫。本来ハートの女王の部下であり罪を裁く裁判官であるはずの時計ウサギが自らの役割放り出してあんな好き勝手やってるっていうのに、あんたはそれでさ」

 チェシャ猫自身にもわかっている。幼い頃に成長が止まり、永遠に大人になることのないこの身体。いくら教会がジャックの統治下で強大な権力を握ろうと、こんな見た目子どもにしか見えない者を、教皇庁が司教として派遣してくれるわけはない。

 この任務が終われば殺されるだろう。チェシャ猫自身にもそれはわかっている。

 だからこそ慎重に動くつもりだった。あらゆる人物の弱味を握り、自分の都合のいいように駒にして、裏切ったり手を結んだりしながら。

 ハートの女王はもともと兄でありながら王位継承権を追われたチェシャ猫に追い目を持っている。時計ウサギの弱点はアリス。

 ジャックとはこうして手を結び、チェシェ猫が有利になることで彼の負担もないのだから全ては上手くいくはずだった。そのはずだったけれど。

「人生は計画通りにいくものではないって、知ってるけどさ。まさかラヴィエスがあんな強硬な手段に出るとは僕も思ってなかったよ」

「結果としては変わらないっちゃ変わらないけどな。結局白薔薇を崩すこと自体は、誰も止められない。姉上とハートの女王だけでは無理だろ」

「そうだな」

 しばし沈黙が馬車の中を支配した。灰色の街並みの景色が窓の外を通り過ぎていく。

 荒れ果てた、みすぼらしい街。白の国のこう言った側面を理解し、経済的に立て直すのもジャックの目的の一つだ。そのために今回もわざわざ自国ではなく、隣国の視察に来たのだ。

 本来この国を救うべき人間たちが軒並み投げ出した国を、蹂躙者であるはずの隣国の人間が立て直す。

 なんて滑稽な悲喜劇なんだろう。

「ある意味一番の貧乏くじはお前だと思うけどね、ジャック王子。欲しいものなんて何もないその代わりに全てが欲しい。お前はわざわざ自分の全才能を使って、紅薔薇も白も両方統治してくれるんだろう?」

「それが俺の望みだから」

「本当王様向きの性格だな。たった一人の女の子のためなら兄まで殺していいとか言うラヴィエスとは大違い」

「……そうだな」

 ジャックの脳裏に、先程の時計ウサギの様子が過ぎる。大違いとチェシャ猫は言うが、ジャック自身はそう思わない。あれも時計ウサギとジャック、二人に共通する側面の一つなのだろう。

 そういえば、あの時彼は何か言っていなかっただろうか。

 ――でもここで彼女が死ぬのであれば、僕は修羅にでもなろう。白の王に継げと言われたこの国を継いで、君を殺すただそれだけのために何人でも傷つけ殺し悲しませよう。

「継げと、言われた……?」

「ジャック?」

 これまでの会話から連想された台詞を思い返して、ふとジャックはある可能性に思い至った。

「チェシャ猫、覚えているか? さっき時計ウサギは、『白の王に継げと言われた』と言ってなかったか?」

「え? ……父上が? だが、あの人はラヴィエスを認めてはいない」

「そうだが……だが、白の王はすでに狂人だ。俺の父への嫉妬に狂って、何を言い出すかわからない。もしも時計ウサギがその点を踏まえてああ言ったのだとしたら……」

「また僕たちを騙したのか!?」

 ジャックの推測に、チェシャ猫の顔色が変わる。彼にとってはこの件が自身の生命に直結するだけに、裏の裏まで穿たずにはおれない。

「あいつ……」

「確かめるか? 白の王に。どのルートで?」

「……僕が直接行く」

「大丈夫か?」

 明らかに大丈夫ではないのだが、ジャックはそう聞いた。

「大丈夫」

 明らかに大丈夫ではないのだが、チェシャ猫はそう言う。

「大丈夫だ」

 自らに言い聞かせるようにそう言う。


 ◆◆◆◆◆


 帽子屋は姿を隠し、時計ウサギとアリスは迎えに来てくれたハートの女王の馬車に乗った。

 基本的にワンダーランドに閉じ込められているはずの彼らではあるが、このぐらいの自由は許されている。あの建物を監視している者たちとその総締めであるジャックが、どういう基準でそれを許可しているのかはわからない。

 馬車の中、アリスはハートの女王に抱きついた。眠りネズミの姿を認めると、時計ウサギがふと顔を歪める。

「どうかしたのですか?」

 四人乗りの馬車であるため、これで全員だ。三月ウサギの付添いはなしにされた。そもそも時計ウサギが自分でここに駆けつけた移動手段があるはずなのだが、それは帽子屋が回収してしまったということまで、ハートの女王の推測どおりだ。

 視線を感じて時計ウサギの方に眠りネズミは顔を向ける。

「いや……なんでもない」

 全てが終わったあと、どれだけの人物が生き残っているのだろうか。そんな無責任なことに、今目の前にいるハートの女王を殺していいと、眠りネズミの養父の一人である帽子屋に「指示」した時計ウサギは思いを馳せた。

 人々に破滅を運ぶのは必ず自分だとわかっている。

 

 ◆◆◆◆◆


「かわいそうに」

 目的地を変更し、途中で馬車を降りて歩き始めたチェシャ猫の小さな背中を見送りジャックはそう口にした。

「……殿下」

 出発前の少しの間、御者がそんなジャックを見返り呼びかける。しかしジャックは御者の呼びかけには応えずに、まるで独り言のように淡々と喋り続けた。

「チェシャ猫が王位を継げないのは、一つにはその成長しない身体。いつまで経っても子どもでしかないあいつが玉座に着いているのは世間体が悪いだろう。だが真の理由は生殖能力だ。あいつには次代を繋げる力がない」

 後継者を作れない。その血を残せない。

 それは王族にとって致命的だ。

「ハートの女王もそうだ。あの〈女〉は……男であり女でもある第二王子は、それ故に子どもを生むことも作ることもできない。だから王位継承者から外された。今の白の王の実子二人は、揃って生殖能力を有さない」

 けれどそれが何だというのであろう、ジャックは考える。

 能力的なものを言えば、チェシャ猫は第一王子として育てられただけあって優れている。それこそジャックにも時計ウサギにも劣らず。だが彼の即位を阻むのは、その身体的な問題。

「馬鹿げた話だ」

 ジャックは薄く笑う。

「子どもを作れないのが何だってんだ? 余計に精液垂れ流して変なとこに種まいたろくでもない男よりよっぽどマシだろ?」

「殿下、それは……」

 不敬罪だと御者が遠慮がちに口にする。ジャックが言っているのは、隣国の女王との間にラヴィエスという子を作った彼自身の父王のことだ。

「もともと俺たちは純粋な人間ではないんだ。自分たちがそもそもエスの手により制作された人造人間のくせに、血統だの生殖能力だのばかばかしい」

 神とされるものの名を出して、ジャックは全てを嘲笑う。

「そんな、たったそれだけの理由で……」

 御者はジャックを眺めながら、彼の視線がいつまでも人込みに消えるチェシャ猫の背を追っていることに気づいた。

「あなたは、本当は――」

「出発しろ。城に戻る」

「……はい」

 途切れた言葉の続きは、口にされなかった。


 ◆◆◆◆◆


 一歩足を踏み入れた途端、室内から馨しい薔薇の香りが漂ってきた。

 この国は土が貧しく、曇り空が覆うことが多く、よほどのことがなければ薔薇の花は咲かない。それを手に入れる手段も限られている。

 だのにこうして薔薇の香りが漂うと言うことは、この部屋の主がわざわざ薔薇の花を取り寄せたということだろう。しかし彼は、主が薔薇の花を好むどころか、憎んでいることを知っている。

 薔薇は部屋の主の愛した相手の愛した花だ。愛する女を理解するために、憎き薔薇の花に主は手を延べたのだ。

 それも結局は徒労に終わると知りながら、それでも。

「……え」

 その部屋に足を踏み入れたのは、本当に久しぶりだった。最後に入ったのはいつだったろう? あれはこの城を出て、教皇庁へと向かう別れの日。当時はそうだと知らされずにいたが、時期的には時計ウサギという弟の生まれた直後だった。十七年前だ。

 あの日と同じように、父親である国王は部屋の奥、暖炉の側に設えられた長椅子に腰掛けていた。あの日よりもその顔は生気を失くし、皺が増え、髪は白いものがちらほらと混じっている。父も老いたな、と思った。自分は変わらないのに。

 ……そう、自分は変わらない。何年経っても、恐らく何十年経っても。実際この二十年姿形がまったく変わっていない。

 だからこの城から追われたのだ。

「父上」

 密談をするのに正規ルートを辿る馬鹿はいない。かつての我が家とはいえ不法侵入したチェシャ猫は父親である白の王に声をかける。

「……エルドラウトか」

 今日この場所を訪れたのは、ただ一つのことを確認するためだった。挨拶も何も交わす前に本題に入る。

「本当なのですか? ラヴィエスにこの国の王位を譲るとは」

 それだけ確認しに来た。本来であれば自分が継ぐはずだった王国、その場所に代わりに据えられた異父弟。彼は目の前にいる、自分の父の血を引いてはいない。なのにどうしてあの弟を父は認めたのだろう。

「父上は、ラヴィエスを憎んでいたのでは――」

 王妃の不倫が発覚して以来、白の王は病んでいた。常に酒を片手に、ろれつの半ば回らない口調。時折思い出したように暴れて手がつけられないこともあるという。

 だからこそ煩わしい手順や決まりなど省略して勝手に会いに来たのだが、それは良かったのか悪かったのか。

 チェシャ猫の問いかけに反応し、白の王の顔にふと、これまでにはない色が乗った。皺の中に落ち窪んだ瞳が爛々と輝き、歪む。

「お前が……」

 年齢から言えばまだ老人と言うほどの歳でもないはずだが、老いた手を彼は二十年容姿の変わらない我が子に伸ばす。

 それは決して愛情などではなく。

「お前が、お前が普通の身体で生まれてさえいれば!」

「!」

 酩酊し錯乱しているにしては強い口調で、白の王はチェシャ猫を睨み据えた。容赦のない言葉が、雨のように降り注ぐ。

 白薔薇の国を常に覆う曇り空。

 一輪の花すら成長できない、薔薇の咲かぬこの国。

「わが国を、紅の王などに渡してなるものか! 国も、妻も、あの男などに決して渡しはしない」

「父上、だからと言って――」

 とうに正気を手放し、自分の憎しみを通してしか世界を見ていない白の王にはもはや正論など通用しない。今のこの国と隣国の関係、現状を憂えれば警戒すべきは紅の王よりもその息子のジャック王子だと、言っても聞かないだろう。

 そして何より、チェシャ猫がそれを口にするよりも早く彼の言葉は息子の胸を貫いた。

「そもそもお前が欠陥品だから!」

 成長しない身体。

 三十を超えた今でも、幼い子どもの容姿。

 生殖能力を有さない、自らの血をどこにも繋ぐことが許されないその身。自分が死ぬのを我が子に看取ってもらえる夢など見ようもない、孤独なそれ。

 恋一つできない身体では、利害関係なしに持てる絆は家族だけが全てだった、それを。

 欠陥品だと。

「父上、あなたは……!」

 ああ、最初から、こうなるとわかっていたのかも知れない。

「あなたは最初から、僕のことも、オルドビュウスのことも」

 愛してなんかいなかった。

 自らの欲望の王国を継がす道具にしたかっただけで、そうやって作った子どもが二人とも生殖能力を有さなかったのはあるいは白の王自身の業だったのかもしれない。

 けれど。

「ぎゃ……!」

 懐に短剣を入れていた。一見品の良い身なりに、しかし常にどこかに武器を隠し持っていた。

 豪奢な室内に鮮血が飛び散る。短剣の刃から滑った血糊がビシャッと音を立てて壁にぶち当たった。

 教皇庁での生活は楽ではなかった。所詮教会などと言っても人の集まるところだ、浅ましい欲から逃れられることはない。あるいは国という後ろ盾があるからこそ、更に問題は大きくなるのかもしれない。

 加えてこの身体だ。チェシャ猫に対する偏見は強く、どこにいても心安らげる時はなかった。

 ああ、そうだ。最初からこうなるとわかっていた、本当は。

 事切れた父王の身体が倒れるのを目にしながら、知らずつめていた息をチェシャ猫は吐き出す。

 こんな複雑な立場である以上、この任務が終われば確実に教皇から始末されるだろうことを、チェシャ猫はわかっていた。それでも、何か一つでも得られるものがあるのであれば、と。

 夢を見た。

 決して叶わない夢を。

「馬鹿だな、僕だって結局ワンダーランドの……いつか覚める夢、不思議の国の住人なのに……」

 夢の中の住人に、現実に住める世界などない。

 室内での異変が伝わったのか、部屋の外が俄かに騒がしくなってくる。チェシャ猫自身は姿を見られずにここまで入り込んだが、それでも王の護衛がいつまでも異変に気づかないなどあるはずがない。今はほとんどその価値を失っていても、それでもこの目の前の死体が白薔薇の国の王であることに変わりはないのだから。

「くっくっく……あっははははは!」

 笑う、笑う、お話の中と同じ、チェシャ猫は自身の存在を消しても、ただ、その笑みだけを、残して。


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