第1章 Down,down,down
「……やっぱり、咲かないわ」
王妃はそうして、白い手で掬った土をそっと花壇の中に零す。白魚のような手が泥で茶色く汚れた。
彼女の目の前には結構な広さの花壇があった。花壇が特別広いというよりも、その庭が広いのだ。王妃の愛でる花を育てる花壇はもちろん王宮の庭の一つにあるに違いない。だから花壇は相当な広さだった。
けれど、その煉瓦で四角く区切られた地面に今は何の緑の影も見えない。花壇とは名ばかりで、花の影など欠片も存在しなかった。
薔薇は育てるのに手間のかかる花だ。ここの花壇は土が悪く、日当たりもそう良いわけではない。王宮の花壇が特別悪い場所にあるわけもそうないだろうから、きっとこの国自体国土が肥沃ではないのだ。
だから、薔薇の花は咲かない。
どんなに手を入れても、どんなに気を配っても。
「……咲かないのよ」
薔薇の花は咲かない。
◆◆◆◆◆
待っていてください、ご主人様。必ず見つけ出してさしあげます。
肩口で切りそろえた短い黒髪の少女は街中を歩いている。服装は一目で職業のわかりやすいシンプルなメイド服だ。外見年齢十二、三という少女はメイドとして働くには若すぎるかもしれないが、今のこの国では珍しいことではない。街中は貧しい者たちで溢れ、路地裏には時折死体が転がっている。
もとよりこの世界全土が荒廃しているが、数年前の戦争に負けて以来、この国は更に荒れていく一方だった。王様は戦争を起こした隣国との話し合いが上手くいっていないらしい。偉い人たちの話し合いは下々の民には伝わらず、ただ景気の悪化だけが現実として国民にのしかかってくる。
そんな政治の難しい話などおいておいて、少女はあてどもなく、しかし何かを探すようにきょろきょろと周りの景色に視線を移しながら道を歩いている。大人たちの難しい話などろくな教育を受けていない彼女にはわからず、道行く人々の嘆きの言葉も耳をすり抜けていく。貴族の屋敷で働いていると一目でわかるメイド服の彼女に声をかける者はいない。お貴族様になど関わるものではないからだ。
彼女にわかるのはただ一つだけ、自分の大切なご主人様がある日突然いなくなってしまったということだけだった。
だから彼女は彼を捜そうとして、勝手に屋敷を出てきた。勝手と言ってももともと主人である伯爵の母親の道楽である薔薇の世話しか任されないような少女には自由な時間が多い。そしていつも通り、他の使用人たちに断りをいれずに屋敷を出てきた。
薄灰色の汚れた石畳を歩きながら、きょろきょろと視線を巡らせる。背の高い大人たちに囲まれて見通しは悪い。彼女のメイド服でさえかなり人目を引くというのに、仕立ての良い貴族の服を着た人など見つかるはずもない。
そうやって余所見をしながら歩いていたせいか、途中で彼女は誰かと派手に衝突した。彼女自身もかなり小柄だが向こうも同じようで、二人はそれぞれ逆方向に、自分が元来た方向に知り持ちをつく。
「あいったたたた、なんだよ、もう」
彼女が正面衝突した相手はどうやら見た目彼女と同じくらいの少年らしい。十二歳前後の、金髪に薄青い瞳が特徴的な少年だ。身なりは良く、それこそ彼女が探し求めていた伯爵と同じような貴族の服を着ている。いや、貴族と一概にくくってしまうのとは少し違う様子だが、とにかく格好は下町の人間などには見えず整っている。
けれどもちろん彼は彼女の捜し人である伯爵ではない。打ち付けたらしい腰を手で押さえながら立ち上がり彼女を睨みつけた彼は、しかし次の瞬間不思議そうな表情を浮かべた。
「ん? 君ってあの……」
彼女には彼に見覚えがないが、どうやら彼の方では彼女を見知っていたらしい、首を左右に一度ずつ傾げて何事か思考した彼は、彼女に向けて手を差し伸べた。
「……僕はラヴィエスの居場所を知ってるけど、よかったら来る?」
少年の口から零れ出た主人の名に、彼女は立ち上がり一も二もなく頷いた。
◆◆◆◆◆
「な……っ! 兄、上!?」
目の前にいる美しい〈女〉の人は何故か低い〈男〉の声で、彼女をここに連れて来た金髪の少年を「兄」と呼んだ。
外見年齢はどう見ても目の前の女性の方が上で、二十を幾つか過ぎた頃だろうか。一方少年は彼女と同じ年頃、すなわち十二、三歳。どう見てもちぐはぐな光景だった。
密に疑問に思っている彼女に全てを説明してくれる気はさらさらないらしく、彼女の腕を引くと途中で馬車に乗せ、ここまで連れて来てくれた少年は女性との会話を続ける。
「久しぶりだね、オルドビュウス。ああ、また美人になったんじゃない? それはともかく、はいこれ」
これと言いながら少年は彼女を指差す。
「ってこの子は何? 兄上」
「ラヴィエスへのお届けもの。あいつの使用人の一人のはずだけど、お前は知らないか」
「ラヴィエスの……あいつなら今、〈公爵夫人〉のところに行ってていないけど……」
「そう」
そこでようやく少年は彼女へと向き直ると、自己紹介とは言えないような簡単な自己紹介を始めた。
「僕は〈チェシャ猫〉。この〈男〉は白薔薇の国第二王子オルドビュウス……って言っても君みたいなメイドに王族の名前なんかわかるわけないか。ま、本名よりも〈ハートの女王〉の通り名の方がここではわかりやすいだろうね。ねぇ、ワンダーランドに迷い込んだ〈アリス〉ちゃん?」
アリス、というのがどうやら彼女に向けられた言葉らしいことはわかる。少年は〈チェシャ猫〉、美しい女性はどうやら女性ではなく男性で、ただし呼び名は〈ハートの女王〉というらしい。
「ここはワンダーランド、〈不思議の国〉だよ」
役者のように大仰な仕草で両手を開き、チェシャ猫はアリスにそう説明した。くすくすと理由もなく笑みを浮かべる彼の幼い顔立ちとハートの女王の困ったような顔を見つめながら、アリスはこの二人が金髪に薄青い瞳で良く似た顔立ちだということに気づく。
「ま、彼女の求める〈時計ウサギ〉が戻ってくるまで、お前が案内でもしてやれ、女王」
「ちょっと、そんな勝手に!」
「じゃあな」
アリスの世話をハートの女王に全て丸投げして、チェシャ猫はさっさと待たせていた馬車の方へと戻ってしまう。時間にして五分間も過ぎていないだろう。アリスをこの場所に連れて来たかと思うとハートの女王に押し付けてとっとと帰宅。
「ええと……とりあえず、建物の中でも見る?」
女王はやはり困ったようにアリスをそう誘った。
◆◆◆◆◆
「ここは〈花〉たちの部屋、ここは〈昆虫〉たちの部屋、それから向こうが〈子鹿〉の部屋で、その奥がチェス番ホールと名なしの森って部屋。あの中にあるのは硝子テーブルの食堂と金の鍵を模した燭台。えーと、あとそれから……」
アリスの手を引きながら、ハートの女王は建物の中を逐一説明しながら案内してくれる。外観も綺麗だが何の建物だかよくわからなかった〈ワンダーランド〉と呼ばれるこの場所は、やはり一つ一つ部屋について説明されても何の施設なのだかよくわからない。
床に敷かれた絨毯も赤と黒の菱形が無限に敷き詰められた形で、まるでチェス番の上を歩いているようだ。廊下にはチェスの駒を模した像も並んでいる。
建物内部には他の人間の気配もするが、誰一人として二人の様子を身に出てくる気配はない。
「……ん? どうした」
アリスが立ち止まろうとしたことに気づいたのか、女王がその歩みを止める。
彼女が興味を引かれたのは、ホールに無造作に散らかされた幾枚もの布切れだった。よくよく見るとそれは国旗で、彼女も知るそれはこの白薔薇王国の国旗だった。
けれど、見慣れたはずの紋章はいまや、めっためたに別の色で塗りつぶされている。紅い絵具が血のように白い薔薇の図案にぶちまけられて、紋章の色を塗り替えられていた。
そして白薔薇の紋章が紅い色で塗り替えられると、良く似た紋章の別の国の国旗のようにも見える。
「白い薔薇を紅く塗れ、か……ほら、君はまだ小さかったろうからよくわからないかもしれないけど、戦争があっただろ? そしてうちの国は負けた。隣国である紅薔薇王国に。その後、こうやってうちの国の国旗を紅く塗るのが一時期流行ってね……」
アリスの手を握ったまま疲れたような表情で女王は続ける。
「父上――白薔薇の国王はいまだ抵抗しているけれども、この国が紅薔薇に飲み込まれるのも時間の問題だ。いや、国王に関しても、あれは抵抗と言えるようなものか……あの人はただ、自分が不幸になりたくないから戦争を起こしたのかもしれない。だから今頃になってラヴィエスを……」
唐突に出てきた主人の名前にアリスが女王を見上げ首を仰のけると、そこでようやく女王は我に帰ったようだった。アリスに向かって慌てて笑顔を作ると、その小さな手を引いて次の部屋の案内を始めた。
◆◆◆◆◆
「では、そちらの方向で話を進めたいと思います」
「ええ、教皇庁にはこちらから連絡を」
「お願いします」
妙齢の婦人を目の前にして、それまで端正な面差しに緊張の色を濃く浮かべていた少年は会談終了の合図にようやくほっと息をついた。元来このような役目は自分には向いていないと重々承知している彼は、目の前のまさしく貴族然とした婦人が大の苦手だった。
「どうしたのですか、伯爵。そのように緊張なさらなくてもよろしいのに」
くす、と失礼でない程度に艶やかな笑いを零す〈公爵夫人〉に対し、〈時計ウサギ〉はお愛想を絶やさぬようにしながらも、居心地の悪い思いを完全には隠し切れない。
「今日のことは、〈チェシャ猫〉閣下から厳重に言いつかっておりましたので、つい緊張して……」
「あらあら、可愛らしいことですわね。でもあの方の依頼ならなおさらそう気にすることはないのではないかしら。いくらあの方でもご自分の弟君であるあなたにそう無体な真似はなさらないのでは?」
「そう……ですね……」
失礼にならないように公爵夫人の言葉に頷きながら、時計ウサギは憂いを帯びた溜め息をつく。彼女の言うように事態を楽観視できるほど、彼はそう単純な立場にはいない。
「またいらしてね、伯爵。今度はどうかお仕事ではなく、プライベートの話をしましょう」
絹の手袋に包まれた細い指先を伸ばす公爵夫人の手からそっと逃げ、時計ウサギは曖昧に笑う。
「ええ……機会がありましたら、ぜひ……」
わかりやすい誘い文句は、しかし彼にとっては煩わしいだけだった。何とかやり過ごして。公爵邸を後にする。
薄曇の空を見上げると、灰色の塊はどんよりと垂れ込めている。もうすぐ雨が降るかもしれない。早く帰ろうと馬車に乗り込みながら彼は思った。
白薔薇の国はその名に薔薇の二字を抱く国としてはそぐわないほどに、土が痩せている。育てるのが難しい薔薇などどんなにいい肥料を与えても滅多に咲くものではない。それも、今は戦争に負けてどこもかしこもが苦しいのだ。薔薇など咲かせて愛でる余裕はどこの家にもなかった。街中の灰色の景色を馬車の窓からぼんやりと眺めながら、彼は思っていた。それがあるのは――。
家に帰らず、彼の目的地は実家とは違う場所を御者に指示する。帰路をそれて、街の外れの建物へと向かった。窓の外の景色が流れていく。やがてゆるりとその流れが止まる。馬の嘶きが聞こえた。
辿り着いた小奇麗なその建物の外観は一見教会にも見えるほど荘厳だ。しかし時計ウサギはワンダーランドの内実を知ってしまっているので、それを美しいとはもう思えない。
帰り着いた彼を出迎えたのは、意外な人物だった。
「アリスタ!?」
駆け寄ってきた見慣れた少女の身体を、時計ウサギは驚きながらも抱きしめる。呼んだ名前に反応したのは当人よりもその背後の人物で、女王は少年伯爵とそのメイドを不思議そうに眺めた。
「アリスタ? それが本名か。チェシャ猫はアリスと名づけていたけどな。けど時計ウサギ、お前の家でこんな小さなメイドって雇って――」
「兄上!」
それまで呆然とアリスを抱きしめていた時計ウサギが声を荒げる。金髪に紅い瞳の彼は、女王を兄と呼んだかと思うとキッと睨みつけた。
「これはどういうことですか! どうしてアリスタが、こんなところに!」
「知らないよそんなの! 俺は兄……チェシャ猫がこの子をお前にって連れてきたから、館の中を案内しただけだ!」
弟に詰め寄られて、女王はたじたじと後ずさる。長いスカートが動きづらそうだ。
「エルドラウト王子が……!? まさか、館から攫って来たのか!?」
血相を変える時計ウサギだったが、その質問にはアリス自身が彼の袖を引き注意を向けさせた上で、目の前で首を横に振ってみせることで否定した。
「アリスタ……じゃあ、どうして?」
泣きそうな顔になる十七歳の少年伯爵、時計ウサギの彼にアリスタは目と仕草で説明する。彼の首筋に思い切り抱きついた。
「まさか、僕を追ってきたの……?」
アリスの行動から読み取り、時計ウサギが愕然とした表情になる。二人の様子を眺めている女王は弟とそのメイドのやりとりに、再び眉根を寄せていた。
◆◆◆◆◆
「さぁ、犀は投げられた」
教皇庁、チェシャ猫は目の前の男のために跪きながら口中で小さく呟く。
「ラヴィエスの弱点らしきものを、ようやく見つけた。これでようやく、白薔薇の国は終る」
薔薇の花は咲かない。
咲いた花も枯れる。この国は薔薇の廃園。




