第二章『これはまた、奇妙なところに連れてきやがったな』(1)
「ん……うんん~……。ふぁあ~」
窓から差し込む朝日に、シェイナはようやく目を覚ました。ベットの中で丸めていた身体を伸ばして、素肌を覆っていた布団を持ち上げる。ちょっと気だるいが、気分はなかなか壮快だ。
そっと耳を澄ますと、窓の外から歌声が響いていた。今朝も誰かが歌っている。自分の最愛の人に向けて、自分の最愛の人を求めて。
頑張れ、とシェイナは唇だけ動かして声に出さず呟いた。
そんな健康的な心模様に陰りが指す。傍らの喪失感。
リクルはすでに起きたのか、ベッドの隣はもぬけの殻になっていた。
じっと、空のシーツを見つめるシェイナ。昨日の晩のことを思い出し、その顔に朱が走る。なかなか濃厚な夜だったようだ。
シェイナはキョロキョロと誰もいない寝室を注意深く確認すると……、バフッと音を立てリクルが寝ていたシーツに顔を押し付けた。
ふわっと広がる太陽の匂いに混じり、ほのかな汗の匂い。でも、不思議と心地いい。これが惚れた弱みなのだろうか。
息が苦しくなるほどシーツに顔を押し付ける。苦しくなるほど顔がにやける。リクルを選んで良かった。後悔はない。ただ、少しだけ会えなくなった人への寂しさが蘇った。もう一人の親友。あいつは今、どこで何をしているだろうか。
「……起きよ」
リクルと自分ともう一人、数日前の記憶に蓋をしたシェイナは、パシンと一発頬を叩いて身体を持ち上げた。彼はいなくなってしまったけど、代わりに変態がやってきた。そいつと夫に朝ごはんを用意してやらないと。
「昨日の晩は準備を任せちゃったから、今朝は全部ちゃんと準備してやらなきゃね」
シェイナはいそいそと服を着ると、寝室の扉を開けた。
「あれ?」
扉のノブを握ったまま、シェイナが首を傾ける。リビングもダイニングにもリクルの姿はない。ついでに、ソファーに寝ていたはずのイルドの姿もなかった。
散歩にでも行ったのだろうか?
昨晩、リクルがイルドに村を案内すると言っていたことを思い出す。それなら、自分も連れて行って欲しかった。寂しさとむかつきから口をすぼめるシェイナ。だが、もしかしたらリクル達は自分に気を使ってくれたのかもしれない。グライとミーリが逝って昨日の今日だ。正直、自分自身まだ整理がついていない部分はあった。
人が死ぬのが日常茶飯事であっても、やはり親しい人の死は悲しい。
シェイナの大きな眼が悲しげに細まり、視線が落ちる。ギュッと、ドアノブを握る力が強くなる。
誰もいない部屋は寂しさを増幅させる。寂しさは嫌な想像をかき立てる。リクルはシェイナより先に生まれた。その事実が現実となる日はすぐ傍だ。
「アイツら、いつ帰ってくるかな……」
思わず漏れた弱音に、シェイナがハッとして口に手を当てる。誰かに聞こえてなかったか。誰もいないと知っているはずの部屋を見渡し、やっぱり無い人影にほっと息を吐く。
吐いた息を大きな深呼吸で取り込んだシェイナは、いつもの力強い笑みを浮かべて「よしっ!」と強く頷いた。ついでとばかりに袖をまくり、エプロンを着けて臨戦態勢を整える。
テーブルには朝食を取った後は無い。ということは、二人が帰ってくるのはそんなに遅くはならないはず。それに、てきとうに歩いているならお腹を減らして帰ってくるはず。
昨晩はすでに出来上がった物を取り出したが、朝はちゃんと手料理を振まってあげたい。自分に朝食をせがんでくる情けない二人の姿に、シェイナはぷっと吹き出した。
「よし、やるぞ!」
自分の不安を払拭するように一段と気合いを込めたシェイナは、意気込んで朝食作りに取り掛かった。青野菜を取り出し、包丁で手際よく切り簡単なサラダを作る。男の子であるリクルとイルドのことを想い、チーズを加えてちょっとこってり系に。続けてクリームスープを手際よく作りつつ、ライ麦パンを切ってオーブンへ。パンの焼ける香ばしい匂いと、スープが煮える甘い香りがキッチンに立ち込める。
食欲をそそる香りが増すキッチンで、シェイナは自然と歌っていた。
「窓から朝日が差し込むよ
君のいないベッドを照らすよ
寂しさが込み上げて
それでもやっぱり恋しくて
あなたの残り香と戯れた
夢のような孤独の中で
君たちを待って作る料理
君たちを想って作った料理
並ぶよ並ぶよ並べるよ
サラダにスープ。ジュースも添えて
速く早く帰っておいで
美味しい料理が待ってるよ」
旋律に合わせ踊るように料理を続けていたシェイナが、ふとその手を止めた。
「メインはお肉にしようかな。いや、やっぱり魚もいいかも」
腕を組みながら、トントンと爪先で床を叩く。悩ましい表情は、すぐに豪快な笑みに変わった。
「悩んだら、やっぱりどっちもよね」
なんとも気持ちの良い結論を出したシェイナが、いよいよメインの料理に取り掛かる。肉はチキンに決め、まずは叩いて柔らかく。程よく焼けたパンをオーブンから取り出し、鶏肉に軽く塩コショウを振って下味を付けたらブロッコリーやニンジンと共にオーブンへ。
続いて魚を取り出した時、不意に玄関の扉が開き、柔らかな朝日が差し込んできた。
「あ、良い匂い」
「リクルっ!」
無意識に大きくなる声。朝日を背負って現れたリクルは、空色のオーバオールを着こみ片手にショベルを持ち、いつも通りの嘘っぽい笑みを浮かべて立っていた。
「あれ? 花壇の手入れしてたの?」
「うん。そうだよ。というか何で疑問形?」
「てっきりイルドを案内してたのかと思ってたから……」
ちょっと拗ねたように答えるシェイナ。
そんなシェイナにリクルは笑みを濃くして歩み寄ると、無言のまま唇をそっと重ねた。
目を丸くして固まるシェイナに、唇を放したリクルが寝癖のついた妻の髪を撫ぜながら目を細めて微笑む。
「君を、置いて行くわけないだろ」
「リクル……」
じゅんっと、シェイナの胸の中を温かなものが満たした。
「イルドなら銃の鍛錬に出かけたよ」
「そ、そうなんだ……」
鍛錬……音がしないってことは少なくとも近くにはいないだろう。つまり、今ここで何をしても、聞こえるはずがない。いや、それ以前に帰ってくるまでもう少し掛かるだろう。
そう思うと、物足りなさがこみ上げてきた。軽く触れるだけじゃなくて、ぎゅっと力強く抱きしめてほしいという衝動に駆られる。でも、それを一気に押し出せるほど、シェイナは積極的にはりきれない。でも……せめて、もう一度。
「リクル、あのさっ! あの……さ」
シェイナの視線が部屋の中を彷徨う。すぐ近くにあるリクルの顔を直視できず、自分の「お願い」が言葉にできない。
「ん、なんだい? シェイナ」
視線が定まらないシェイナとは対照的に、リクルは細めた優しげな目を真っ直ぐにシェイナに向けていた。どこまでも穏やかな笑みは、どこまでも意地悪な笑みでもあった。
「だからさ、もう一回、さ」
「ん、なにが?」
リクルの微笑みが濃くなる。紳士のような詐欺師の笑み。腹の底が見えない笑みを浮かべる瞳は、悪魔も真っ青な加虐的な喜びに満ちていた。「言わせるまで、やめないよ」。無言の唇が囁く。
バカ、いじわる。と、シェイナも精一杯に瞳で訴える。啖呵ならいくらでも切れるシェイナだが、こういったものにはいまだに初心なのだ。伝えられないもどかしさと、羞恥心。そして、そんな自分とリクルが嫌いになれないというおかしな気持ち。しっとりと濡れた手が、弱弱しく宙を掴む。
恥ずかしさが限界に達し震える体を、「どうしたの? 寒いかい?」とリクルが優しく包み込む。嬉しいけど、違う。シェイナが望んでいるのは、先ほどの不意打ちの……
「……ス……てよ」
「聞こえないよ。もう一回言って」
耳元で囁くリクルに、シェイナは顔をリンゴのように赤く染めながら、消え入るような声で呟いた。
「キス、して」
「はいはい。喜んで」
顔立ちに似合わず、ガーデニングで硬くなった手のひらがシェイナの頬を撫でる。ようやくもらえるご褒美に、胸が高鳴る。リクルの唇が間近に迫……
「あーあ、チキン焦げてるぞ」
さっと血の気が引く。目の端を、奇妙奇天烈な紫の物体が横切った。
紫に身を包んだ奇妙な生き物が、オーブンを開けて中から表面が焦げ始めたチキンを取り出して皿に盛り付けている。
「え、イルド?」
いや、答えるな。頼むから、答えないで。
「よお、シェイナ。のろけるのはいいけどよ、火の元はちゃんと見ないとな」
涙が目に溜めるシェイナの願いは、「あちちちち」と耳たぶを摘むイルドに見事に撃墜させられた。
「ちょ、ちょっと。なんでいるの? 銃の鍛錬に行ったって、リクルが」
恥ずかしさが混乱に代わり、頭を抱えたシェイナがイルドに問いただす。
イルドは、肉汁を吸ったブロッコリーをつまみ食いしながら答えた。
「ん、ああ。鍛錬はしてたぞ。この家の庭で」
「庭でって。そんな、音なんか全然してなかったわよ」
「ん、音? あははは、音なんかするわきゃねぇだろ。イメトレなんだから」
「イメ……トレ?」
よろよろとリクルに寄りかかりながら、シェイナがイルドの言葉を復唱する。
「ああ、そうだ。弾丸は高価だからな。そうそう無駄うちは出来ねぇし。それに、朝っぱらから銃をぶっ放したら迷惑だろ。だから俺はいつもイメージでトレーニングしてんだよ」
「で、でも。リクルは……」
すがるように上目使いで見上げてくるシェイナに、リクルはあの加虐的な慈悲深い笑みを作りながら答えた。
「僕はイルドが家から『銃の鍛錬に出かけた』って言っただけで、『遠くに行った』なんて言ってなかったはずだよ」
まったく自分に落ち度はないと語るリクルに、シェイナは最後の希望を乗せてイルドに訊いた。
「どこから、見てたの?」
「『だからさ、もう一回、さ』って、ところから」
シェイナの声色を真似て、イルドが真面目な顔をして答える。
その顔は笑っていなかった。
「あはははは、そうなんだ~」
乾いた笑い声を上げながら、シェイナはリクルを押し退けると、家にあるフライパンの中で一番重くて硬い一振りを握りしめた。
うふふふふ、と嫌に楽しげな笑い声が背中越しに聞こえてくる。ブンブンとフライパンが重い音を立てて風を切る。素振りには気合いが入っていた。フォームが綺麗なところが、さらに一層怒りの深さを感じさせる。イルドとリクルの顔に生じる焦燥。二人は申し合わせたかのように回れ右し、ぬき足差し足で玄関の戸を目指す。
「どこ、いくの?」
二人を呼びとめる優しすぎる声。リクルは早々に眼鏡を外した。覚悟を決めた友に、イルドも仕方ないと溜息を零しながら、東方で習った「ネンブツ」という祈りを唱える。
「じゃあ、二人とも。ご飯ができるまで、もうちょっと寝ててね」
家の中に連続して鳴り響く金属音。
イルドが朝食にありつけたのは、それから三時間ほど経ってのことだった。