ー 窮地 ー
ゆっくりと馬首を巡らし、徐々に栗色の風が近づいてくる。そしてそれを認識した数瞬間後、互いの間合いに入った。
「ハッ!」
「ふん!」
声と同時に、刀同士がぶつかり合う「カキン!」という音が響く。一瞬、沙波は目を瞑ってしまう。暗闇の中に、零の傷ついた姿が浮かんだ。今度は自分の想像が恐ろしくて、目を開ける。慌てて彼の姿を探すと、その心が杞憂に終わった事を確かめた。……幸いその時には、彼女の目に真っ赤な鮮血が映ってはいなかった。彼女の大きな目に映ったのは、刀を振り上げた状態の零と、その刀によって弾かれたらしい、右手が大きく上げられて体が開いている武将の姿だった。
「うおっ!」
強く刀を弾かれた相手武将は、その勢いで大きくバランスを崩した。その隙を狙って、零は少しだけ躊躇しながらも刀を閃かせる。……また不快な手応えが伝わって来るのが判った。彼の刀は、相手の太ももをざっくりと抉っていた。
「ぐあぁっ!」
バランスを崩し、敵武将は地面へとまっさかさまに落馬する。そして落ちた拍子にどこかを打ったのか、意識を失ったようだった。無防備に体をさらけ出していた相手の胴体を切り裂く事は容易だったが、零はそうしなかった。……もう、さっきと同じ目に遭うのはたくさんだ。できる限り、致命傷にならないようにしたかった。多少手加減もしてあったし、足ならこれ以上追ってくることもできないだろう。人を傷つける事に罪悪感は少なからずあったが、望んでいないのに自分達の命を狙ってきたのだ。それぐらいの痛みは我慢してもらうしかなかった。さあ、今のうちに早く逃げなければ……。
「沙波、今のうちに早く……」
「貴様、よくもっ!!」
「零、後ろっ!」
(……何っ!?)
振り向いた零は、想像以上の近さに声を聞き、反射的に向き直った。そこには、復讐に燃える目で武装した、五人の兵士が刀を持って構えていた。そのうち数人は、弓矢まで背負っている。
(……遅かったか……)
零は深く後悔した。……やはり、先ほどできるだけ遠くへ逃げておくべきだったか。しかし、今更そんなことを考えても何の意味も無い。こうなったら、例え人を殺すことになったとしても仕方がなかった。それしか生き延びる方法は無いのだ……。
「お願い、やめて!戦いたくないの!」
「抜かすな!同士の仇っ!」
零の背後から沙波が叫んだ。一瞬、兵士達の間に動揺が生まれたが、それは瞬く間に消え去った。
一人の兵士が叫び、それに合わせてジリジリと兵士達は近づいてくる。だが、自分達の上官がやられた事もあり、危険を察知した彼らは慎重に歩を進めていた。
「やめてくれ!俺たちは戦いたくないんだ!」
再び零は、必死で和平を叫ぶ。……しかしついさっき、目の前で上官を切り裂かれた兵士達に彼の言葉が届く事は無かった。
「よくも貴様、ぬけぬけと……」
「本当なの、お願い!」
「黙れ小娘っ!」
沙波はまだ何かを訴えていたが、兵士達は聞く耳を持たないようだった。とうとう零は覚悟を決める。……もし自分が彼らの立場だった場合、聞き入れてはくれないであろうことは簡単に想像できた。もし逆に自分の親しい人間が同じ目に遭っていたとしたら、きっと許せるはずが無いだろう。彼らにはもう、何を言っても無駄だと思った。……しかし、それでも……。
「ありゃあああぁぁぁっ!」
激しい気合、と言うよりは悲鳴と共に、零に一人の兵士が斬りかかって来た。先ほどと同様に、早鐘を打つ鼓動。しかし、考える前に体が動いた。そして今回も、零が想像した以上の速さと強さで彼の刀が走る。
「やめっ……」
零がそう言ったのと同時に、斬りかかって来た兵士の肩口が大きく切り裂かれる。またしても、鮮血は派手にしぶいた。
「がっ、あああぁぁっ……!」
兵士は刀を取り落とし、その場に膝を着く。自分の斬られた肩を押さえて、必死に痛みを堪えているようだった。……しかしそれも長く続かず、ついに横になって呻き声を上げた。
「痛え、痛ぇよ……」
肩を押さえてうずくまる兵士に、恐る恐る沙波が近寄っていく。そして倒れている兵士の横にしゃがみこむと、傷口に手を当てた。
「今手当をします。……お願いだからもうやめてください」
「何……!?」
抵抗できないながらも、警戒して彼女から遠ざかろうとしていた兵士は、その言葉を聞いて驚いたようだった。そしてその後、こんな状態ではもう逃げられないと悟ったのか、その場に仰向けに寝転んで静かに目を閉じた。
「殺せ……」
兵士がそう言うのを聞き届けた後、沙波は傷口に手を当てた。零が手加減したため、決して深くは無かったが、痛々しい傷口を診て荒い息遣いを聞いているうちに、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。それと同時に、もっと奥深くから声が聞こえてくるのが判った。
『そう、願いなさい……』
さっきも聞こえたそれは、女性の声のように聞こえた。……どこから聞こえてくるのかは判らない。ただ、どうやらその声は沙波以外の他の人には聞こえないらしかった。沙波はその声を聞くと、不思議と力が湧いてくるような気がする。……そして勇気も。
声に従うまま、沙波は目を閉じた。一瞬で世界が暗闇に覆われる。……しばし後、沙波は心を落ち着けると、閉じた目の前に仰向けで寝転んでいる兵士の傷口に両手を当てた。徐々に、掌が熱を持ってくるのを感じた。そのまましばらくすると、今度は掌の間に何かが膨らんでくるような感触が生まれる。そして生まれた何かがようやく掌に収まりきらなくなるぐらい大きくなった時、沙波はその何かをそっと傷口に当てた。
「うぅ……、ぅ……」
兵士が小さく呻くと、静かに息を引き取った……かのように見えた。実際には、傷が塞がり、痛みから解放された安堵から意識を失っただけだったのだが、周りの人間から見たらそうではなかった。何やら怪しげな光が吸い込まれたかと思うと、兵士が急に動かなくなってしまったのだ。……きっとあの呪術で止めを刺されてしまったに違いないと思った。
「の、呪いだ……」
残った兵士の一人がそう呟く。沙波の力を目撃した全員がそう思い、怯えた目で彼女を見つめる。彼らは自然と後ずさり、腰が引けていた。
一方沙波は、そんな兵士達には気付かず、目の前の兵士の傷が塞がった事に安堵していた。自らの力に疑問を感じずにはいられなかったが、ただでさえ信じられない状況なのだ。とりあえず、そんな考えは頭の隅に追いやった。
(助かったみたい。良かった……)
『その気持ちを忘れぬ限り、あなたに力を貸しましょう……』
また声が聞こえたかと思うと、目の前にうっすらと人影が見えて声は消えた。一瞬だけ見えたその姿は、やはり女性のように見えた。その静かで穏やかな雰囲気は、彼女の強くて優しい母親を思い出させる。一瞬、頭の中に思い浮かべた母の顔が、何だかとても遠くに感じられた。沙波にしてみれば、ついさっき挨拶をして別れた母の姿……。ともかく、この不思議な力は、彼女から授かった力なのだという事が判った。
零は沙波の行動を目の端で見た後、兵士達が明らかに動揺しているのに気付いていた。そして、一人が怪我をすれば彼らも判るかと思い、零はもう一度停戦を主張した。
「……頼む、もうやめてくれ」
零にとって幸いだったのは、兵士達が組織立って彼を倒そうとしてこなかった事だった。今までに多対一の勝負を経験した事が無い零は、できるだけ一対一の形に持っていきたかったのだ。……しかし、逆にそれが悪い結果をもたらした。
次々と目の前の味方を斬られた相手の兵士は恐慌に陥りかけていた。零の持つ、不必要なまでに長い刀身にも圧倒され、その存在感は彼らの中で増大する。さらに、この男の後ろに控えているあの女は、気味の悪い術を使うらしい。今までに見た事のない光に、彼らは恐怖を覚えた。
……まだ四対壱と数の上では十分有利な立場だったが、誰も自ら進んで切り込もうとはしなかった。彼らの先頭にいた人間は、隣に味方を見ることができずに焦燥する。……斬らねば斬られる。そんな思いがまとわりついて離れなかった。この恐怖を打ち消すには、その根源を絶たねばならない。……零が何か話すよりも早く、追い詰められたと錯覚した兵士達は、一人また一人と奇声を挙げながら突進していった。
「だああああぁぁぁっ!」
「らあああぁっ!」
「うわああああっ!」
「……やめろ、待てっ……」
有利な側と不利な側の台詞がまるで逆転していた。恐慌に囚われて襲い掛かってくる兵士達は隙だらけだった。零はその隙を見逃さずに刀を振る。そして、次々と相手兵士の胴や足を斬り付ける。彼は破れかぶれに戦って斬られたりはしなかった。……しかし、何故か零の方が戦意を喪失しているのは明らかだった。
零はその消極的な台詞とは裏腹に、確実に相手を生かしたまま戦闘不能の状態に導いていった。だが一人を斬るごとに、彼の精神は徐々に疲弊していく。最初は酷く他人を傷つける事には抵抗があったが、段々とその感覚も麻痺している事に気付いた。停戦の主張も、一人を斬ってからは役に立つものでは無いと思い、口にはしてみるもののそれは小さな呟きにしかならなかった。
そしてとうとう五人目を斬った頃には、零の肉体と精神はやや虚ろな状態になっていた。連戦により息も上がり、意識も朦朧としている。
「ハァ……、ハァ……」
(これで……)
追っ手を全て無力化し、ようやく終わったかと思った零が見た光景は。
顔を上げた零と、同じく沙波は信じられないものを見る。
「いたぞーっ!天軍の残党だーっ!」
けたたましい声がすぐ近くから聞こえる。いつの間にか、戦場の真っ只中に移動したのかと思った。……少し見渡す限り、あちこちに兵士の姿が見えている。しかも、どれもが零が今斬った相手と同じような鎧で、旗印も見えた。……つまり、敵だ。
「何だって……!?」
信じられない情景に、零は呆然とした。……さっきまではあんなに広々とした平原だったのに。戦場は、もっと遠くの方だったはずだ。そう思った。しかし、彼が逃げながら数人と斬りあっているうちに、戦場の方はほぼ決着がついていた。地軍、……つまり零が斬った相手の軍が戦局的勝利を収め、敵軍だった天軍は退却を始めていた。地軍は勢い付き、そのまま追撃に移った。そうして、戦場にいた地軍は兵士達は散り散りになり、多くの兵士が零たちの居る場所の近くまでやって来たというわけだった。
「何で……?」
沙波も同じく、今ようやくこの事態に気が付いたようだった。……彼女が見る限り、逃げ道は無い。思わず零の方を見ると、彼は必死な表情で辺りを見回しながら、何かを考えているようだった。
(……私のせいで……)
沙波はそう思わずにはいられなかった。私がちゃんと、零の言うまま逃げていたら……。今更悔やんだ所で仕方がないのは判っているのだが、それでもやはり考えてしまうのは人の性なのだろうか?……責任感の強い沙波は、いざとなったら自分が囮になってでも零を逃がしてあげようと決めた。自分が居ては足手まといだが、零のあの剣捌きを見ると、一人ならばきっと逃げきれるに違いない。どこまでできるかは判らないが、できるだけ時間を稼がないと……。
沙波がそう考えていると、零が近くに寄ってくる。さっきまでの戦いで相当疲れているようで、肩で息をしていた。
「……いいか沙波、俺の側を離れるなよ」
「うん。……でもいざとなったら、零だけでも逃げて」
「馬鹿、何言ってんだよ。そんな事考えてる暇があったら、二人で助かる道を考えろ」
「……でも」
「いいか、俺が絶対お前を……っ!」
そこまで零が言った時、急に零の足に激痛が走った。一瞬、足の感覚が無くなり、膝から崩れ落ちる。目を向けると、そこには一本の矢が刺さっていた。
「零っ!?」
沙波が短く悲鳴を上げる。矢は小さめだったが、零の行動の自由を奪うには十分な楔となっていた。
「くっ……、大丈夫だ沙波。後で手当してくれ」
恐らく、生まれて初めて経験したほどの痛み。焼けるような熱さが太ももを襲う。少しでも気を抜けば声が出てしまいそうだったが、沙波の前だという事もあり、零は気丈に振舞った。……それに何より、今は痛がっている場合ではない。幸い、痛みさえ堪えれば足は動く。まだ希望を捨てるのは早いと零は思った。
「そんな……!?大丈夫じゃないよ!早く傷見せて!」
「……これで俺だけじゃ逃げれなくなったな」
「何言ってるの!早く!」
慌てて押さえつけようとする沙波を押し留め、零は刀を杖代わりにして立ち上がった。ヨロヨロとして不安定だったが、何とか立ち上がることはできた。新手の敵がもう十歩ほどの距離まで来ている。少しでも危険から遠ざけるよう、零は沙波を後ろに押しやった。
「零……」
「……」
「見ろ!奴は手負いだぞ!」
一番近い相手は三人の集団だった。互いに叫んで士気を鼓舞する。対照的に、零は沈黙を守っていた。……それとももはや、何かを話す気力も尽きてきたのかもしれない。そして黙ったまま、再度手に持った刀を構える。柄の部分を強く、決して放さぬよう固く握った。もはや頭の中は空っぽだった。さっきまでの悩みはどこかへ消え、必死で痛みを堪える理性と、ただ生き延びようとする意志だけが全てを占有していた。
そして彼は、一歩前へと進む。……それが決意の現れだった。
「零、……死なないで」
彼女なりに零を励まそうと思い、口にした言葉は、しかし彼女が思ったよりも微弱で小さな声だった。……当然、返って来ると期待していた言葉は無く、零は彼女から遠ざかる。代わりに沈黙と、幼い頃より何度も見てきた彼の背中の姿だけが沙波の元に残された。




