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新古事記  作者: 安楽樹
一章
7/11

ー 生死 ー

薄暗く日の翳った草原。周囲には地鳴りのような怒号と、低いそれらの声とは裏腹に、あちこちから上がる甲高い悲鳴とが溢れていた。群集は血と死体にまみれ、若草色の草原は今や真っ赤に変色して見える。

群集からは少し離れた所に、一組の集団がいた。鎧を着た一人の男と、他の人間達と違い鎧を着ていない若い男女。刀を構えた男同士が交錯し、一瞬の時が止まった。


ドサッ、と兵士が倒れる。大量の鮮血がしぶいた。その夥しい量の血が雨となり、斬った学生に降り注いでいく。その若い男は身じろぎもせず、その雨を全身に浴びた。


「……ぁ……っ……」


何も声が出なかった。激しい動悸の音がうるさく、何も考えられない。

例えようの無い恐ろしさがグルグルと脳の中を回り、刀を下ろすことも息をつくことも忘れてしまった。零は何が起こったのか判らずに、ただぼんやりと目の前で噴出す血の雨を眺めているだけだった。


「がああああぁっ、でぇ、痛ぇっ!」


零が刺した男は、まだ生きていた。無意識に手加減したのか、ただ傷が浅かっただけなのか、刺された兵士は見苦しくもがき、のた打ち回っている。零はその男の声で、突如我に返った。


「あ、……あ……あぁ……!」


呆然としていた。ゆっくりと自分の体を見回す。……目の前の男を傷つけておいて、自分の体が無事かどうか気になる自分が嫌だった。

……血で濡れた両手を見る。両手どころか、全身に返り血を浴びていた。うっすらと生暖かい血がべとべとしている。手に残っている感触が生々しく、心の奥底から恐怖感が湧いてくる。

……初めて人を刺した感触。二度と忘れる事ができないような、不快な手応えだった。まず鎧に当たった時の固い手応え。それから鎧の下にある、刃が吸い込まれていく柔らかい肉の感触。……思い出すと震えてきた。彼の体も震えだし、足はガクガクして力が入らない。さっきまでの滑らかな動きとは反対に、零の全身は固く強張ってしまい、その場へと尻餅をついた。


「……う……嘘だろ?」

「……零……」


沙波はゆっくりと零に近づいた。今目の前で起こった光景が信じられない。……悪い夢であってほしかった。しかし妙に生暖かい風と、脚を撫でる草たちの感触はあまりにリアルすぎて、一欠けらの夢の断片すらそこには落ちていなかった。

零に近づくにつれて、生臭い血の臭いはより強くなる。そのあまりの生臭さに、沙波は思わず吐き気を覚えた。気が遠くなりそうなのを必死で堪えながら、ようやく零の背中にしがみつく。

零は沙波の事に気付いているのかいないのか、こちらを向かない。


「はぁっ、はっ、はぁっ……」


彼は息を荒くし、驚愕したまま目を見開いている。……自分のした事が認識できていないに違いない。沙波ですら、これは悪夢なのではないかと思っていたのだから。


「うう……ぁ……、ぐぁっ……」


倒れた兵士は、地面でのたうって苦しんでいたが、段々と動きが鈍くなってきた。明らかに出血は酷く、意識が遠退きかけているらしい。このままではいずれ死ぬ……、そう思わざるを得ないほどの傷だった。


「れ……零、零……」


どうしていいか判らず、沙波は零の服を引いた。しかし、零は放心状態のまま動かない。


(……このままじゃ死んじゃう……。あの人、死……)


沙波はまだ人の死というものに立ち会った事はなかった。親戚の葬式などに出た事はあったが、目の前で人の死を経験した事は無い。……この人は助かるんだろうか、私に助けられるんだろうか……。そう考えてはみるが、あまりの惨劇と現実の死を前に、足が竦んで動かない。


「はぁっ、はっ……お、俺が……やったのか……!?」


その時、沙波はすぐ隣で零の声を聞いた。そっと零の顔を覗き込むと、彼の目はしっかりと焦点を結んでいなかった。目を大きく見開き、過呼吸かと思うほど息が荒い。彼は自分が行った現実を見て、沙波が今までに見たこと無いくらいに取り乱していた。


(……零が……殺した……?)


そう思った瞬間、沙波の体は勝手に動いた。血だらけなのも構わずに、倒れた兵士の元へ駆け寄る。


「早くっ!手当を!」


沙波はそう叫ぶと、もうほとんど意識の無い兵士の傷口を確かめ、制服のスカーフを当てて血を止めようとした。これだけ大量の出血に対してどれだけ効果があるのか判らなかったが、それでもやらないよりはましだと思った。


(……この人は死なせない。零を人殺しになんてさせない……)


その必死な想いが、彼女を突き動かした。

沙波のその突然の行動に、零は我に返ってきた。手当を、と叫ぶ彼女の声を聞いて、零の体は再び動くようになる。よろよろと駆け寄ると、沙波の隣に座り込んだ。


「さ、沙波。……これを」


道着を脱いで、沙波に渡す。そして自分は彼女を手伝うように、兵士の体を持ち上げた。……兵士の体は段々冷たくなってきている。改めて、自分がした事を思った。


(でも、そうしなければ沙波は……)


人のためだったからと自己弁護をしているのではないのかと、自分の中に疑問が生まれてくる。しかし、そんな事を考えるのは後でいい。今はこの状況を乗り切るのが大事だ。零は必死で気持ちを切り替えた。

兵士の刀で服を切り裂き、重い体を持ち上げて胴体に巻く。意識の無い大人の男を動かすのは、二人がかりでも思った以上に重労働だった。そして鎧を外し、傷口にスカーフを当てる。全てを覆えたわけではないが、無いよりはマシだろう。……最後に体の前できつく服を縛った。


「……どう?」

「……うん、一応できる事はやったけど……」


兵士の傷口にできる限りの布を巻き、見様見真似の止血は済んだ。……しかし、問題なのはこれからだろう。既に大量の血液が流れてしまっている。素人の彼らにはどれだけ流れたかは判らなかったが、完全に血の気を失っているその顔を見れば、危険な状態である事は間違いなさそうだ。早く治療をしなければ。……近くに病院はあるのだろうか。いや、それ以前にここは一体どこなのか。……それすらも判らない彼らには、これ以上の治療法などある訳がない。もう、彼らにできることは何もなかった。


「どうしよう……」

「……」


沙波のその言葉に、零は何も答える事ができない。……本当は彼が聞きたいぐらいなのだ。零は黙って兵士の顔を見つめる。


「この人……」

「ん?」


死んじゃうのかな、と続けようとして沙波はハッと口篭もった。零が私を守ろうとしていたのは知っている。仕方なかったんだと言っても、きっと正義感の強い彼は納得しないだろう。きっと彼は自分をすごく責める。……でも彼に罪の意識は持って欲しくない。


「……あ……うぅ、……」


兵士はまだ苦しそうにうめいている。自分が斬ってしまったとはいえ、零は彼の無事を祈った。その隣の沙波も同じく祈る。……でもその祈りの答えはどこからも返って来なかった。ただ少し冷たくなった風が吹き抜けただけで、周囲の戦の声も遠のき、空には一層雲が厚く立ち込めた。


「あ……、母……ん?」


意識が戻ったのか、兵士はうわ言を呟き始めた。まだ朦朧としているらしく、沙波を誰かと間違えているようだった。


「ごめ……んよ……」


ふらふらと手を伸ばしてくる。いたたまれずに、沙波は差し出されたその手を握った。力一杯握ったその手は、僅かな力も無く、ひどく冷たかった。……それがやけに悲しくて、沙波は冷たい手を両手で力一杯包み込んだ。


「お、……俺、出世できな……ったよ……」

「しっかりして!」

「……お、おい!」


たまらず、二人は叫んだ。この声が届けば、きっと助かる。……そう思って叫んだ。両手はしっかりと兵士の手を握り、どこかへ行ってしまいそうな彼の魂を必死に引き留めていた。


「ごめ……」


徐々に声が小さくなってくる。兵士はただひたすらにごめんと繰り返していた。


「しっかり!」

「おい、しっかりしろよ!」


沙波は必死で両手を揺さぶる。零も叫びながら、兵士の体をゆすった。ここがどこだとか、罪にさせたくないとか、そんな事は全て忘れて叫んでいた。ただ目の前の消えていく命を繋ぎ止めたい。この人を助けたい。それだけの気持ちで一生懸命叫んだ。……祈った。


「ぉ……め……」


もはやそれはほとんど声にはならず、微かな呼吸音と唇の僅かな動きだけが言葉となった。そしてそれも段々小さくなっている。


「しっかり!ねぇ、……しっ……」

「……っ」


そして、……止まった。


「……」

「……」

「……」

「……ぉぃ、嘘だろ?」

「……う、ぅっ……」


沙波は泣けてきて仕方なかった。ここは全く知らない場所で、この人も全く知らない人だったが、何故か泣けてきた。まだ両手は彼の手を握り締めたままで、零れる涙も拭おうとしなかった。ぽたぽたと落ちる涙が、止血のために巻いたスカーフへと染み込んでいった。


「おいっ!起きろって!」

「……なんで?……なんでなの……」


零はまだ叫んでいる。沙波は嗚咽が止まらずに、小さく呟くだけだった。なんで私たちがこんな所に来なければならなかったのか。こんな所に来ていなければ、この人も死んだりしなかったのに。深い悲しみとぶつけどころのない怒りが、沙波の頭の中で渦巻いていた。


「……」


その隣で零は、ようやく兵士の体から手を離した。……信じられない。俺がやったのか?俺がこの人を?……嘘だろ?


「う、うわあああああああぁぁっ!」


零は頭を抱えて叫んだ。こ、こんなのは悪夢だ。そうに違いない。……だけど、この真っ赤な両手は何だ?動かないこの人は一体何だ!?

……救いを求めて、零は沙波へと手を伸ばしかけた。だが、すぐにそれを引き戻した。血で濡れたこの真っ赤な手を見て、沙波が怯えるのではないかと思った。そしてその光景をまざまざと想像してしまったのだった。


「ぐ、ぐぅぅ……っ」


……零のこのぶつけどころのない思いは、地面へとぶつけるしかなく、只ひたすらその拳を地面へと叩きつけたのだった……。


「ねぇ、……ねぇ……起きてよ……」


一方、沙波は未だショックから立ち直れずに、虚ろに名も知らぬ兵士の体を揺さぶっていた。あまりに泣きすぎて、理性が白濁としている。何だか現実感がなく、首から下げている勾玉が光っているような気さえしてきた。


『……願いなさい……』


唐突に声が響いた。沙波は驚いて辺りを見回す。もちろんそこには彼女たち以外、誰もいなかった。隣にいる零は、この声に気付いていないようだった。


『……その人を助けたければ、願いなさい。』


また声が聞こえた。空耳ではないはずだ。どこからかは判らないが、確かに聞こえた。考える前に、彼女は目を閉じた。


(お願い……)


沙波はただ純粋に願った。この人が助かって欲しいと。神だろうが悪魔だろうが、そんな事はいい。彼女にできるのは、ただ願う事だけなのだから。だからお願い……。


「沙波……?」


零は目を疑った。ついさっきまで泣いていた彼女がキョロキョロ辺りを見まわしたかと思うと、突然胸の前で両手を組んで祈り始めたのだ。しかしただそれだけでなく、組んだ両手の辺りから光がこぼれている。映画でも見ているかのような、不思議な現象だった。思わず零は、自分の気持ちも忘れて見入ってしまった。

さっきまで彼女は、勿論何も持っていなかった。もしかしたら何かを持っていたのかもしれないが、懐中電灯やそういった物とは違う、不思議な輝きがそこにはあった。言うならば、そこには小さな太陽があるかのような……。

光は段々と大きくなり、彼女の体全体を包んでいく。……零には、何だか彼女が妖精のように見えた。淡い光に包まれた彼女は、必死の表情で何かを一心不乱に祈っている。

きっとそれは、目の前の命が助かって欲しい、という事である事はすぐに判った。……彼女はそういう子だ。

体全体へと広がった光は、今度は横たわった兵士へと移っていった。

零はそれを、ただ見て驚いていた。両手を添えた彼女の手から、ゆっくりと穏やかな光が流れて、兵士の傷口の周りへと覆い被さっていく。集まった光は眩しく発光し、近くでは直視できないほどの明るさへと変わっていく……。

時間にすると、約数十秒の出来事だっただろうか。不思議なその光は、またゆっくりと兵士の体に吸い込まれるように消えていった。沙波の体からも光は消え、全て消えたかと思うと、彼女はふらっと零の方へ倒れこんできた。……荒く息をしている。沙波の体を支えた零は、彼女を軽く揺さぶってみた。


「……おい、沙波。どうした?沙波っ」

「……ぅ……ん……」


良かった。どうやら無事のようだ。沙波はゆっくりと目を開ける。それと同時に、握っていた両手から勾玉がこぼれた。


「あれ、沙波これ……」

「……零、私……?」


どうやら彼女自身、何が起こったのか理解していないらしい。まだ虚ろなその目は、宙を映していた。


「ど、どうしたんだ沙波……?」


零は今起こった出来事を口にしてみようと思ったが、何だか言葉にしてみると、自分の見た事が半信半疑になってきてしまう。そして段々、さっきの不思議な出来事が本当に起こったのかどうか、自信が無くなってきてしまった。


「声が……、声が聞こえたの」


沙波は身を起こすと、零にそう告げる。どうやら意識もしっかりとしてきたようだ。零がほっと胸を撫で下ろすと、沙波は急に前へ倒れこんだ。


「さな……?」


よく見ると、沙波は横になっている兵士の胸に耳を当てていた。心音を聞いているらしいという事は一目で判ったが、まさか今ので……?そんな……。零は驚きを隠せない。これでそんな事が起きたら……。


「零、零!ちょっと見て!」

「……そ、そんな……嘘だろ……」


その明るい声を聞いて、大体予測はできたが、そんなことがあるはずないと零は思っていた。……いや、誰だってそう思うだろう。

しかし兵士の様子を見ると、さっきまで血の気が無く、力なく横たわっていた兵士の胸が、静かに上下していた。……よく見ると、呼吸もしているようだ。顔にも生気が戻ってきている。


「ど、どうしたんだよ沙波……?」

「……わかんないけど、声が聞こえたから。……それより、良かったね!」


唖然としている零とは裏腹に、沙波は純粋に喜んでいる。そのあまりの無邪気さに、驚いている自分が間抜けに思えてきた。

……人にできない事ができる人間というのは、こんなものなのだろうか?ただそれは、『できたからやった』というだけのものでしかないのだろうか。とにかく、本人がこれなのだから、自分にはこれ以上知りようがない。零は安堵し、自分が殺人の罪を犯さずに済んだ事を素直に喜ぶ事にした。


「……ああ、助かったよ。沙波」

「うんっ!」


その返事は、元気一杯のいつもの彼女だった。


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