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新古事記  作者: 安楽樹
序章
5/11

序章伍 華蓮

夕方よりは少し早い時刻。

人通りもまばらな斜面沿いの道を歩く、一人の少女がいた。


辺りの車通りもそれほど多くなく、周囲には夏を待ち遠しげに鳴く虫の声が微かに聞こえ始めていた。

横を向いてゆっくりと歩く少女の視線の先には、急な勾配に沿った小さな林があり、その向こうに見える風景には、彼女の住むこの町が一面に広がっている。

……夕暮れ前の朱に染まりかけたこの風景が、少女は一番好きだった。


少女の年の頃は十七、八歳ほどで、どうやら学校帰りらしく制服を着ている。その服は、この町の人間ならほとんど知っている進学校の物だった。

結構細身で、背も同年代の女性にしてみれば高い方に違いない。

顔立ちも十人中、七、八人は美人と答えるような整い方をしていて、関係者の目に留まれば、モデルにでもなれそうな雰囲気を持っていた。


彼女の名前は華蓮。長谷川華蓮。

そんなモデルのような彼女が、少し物憂げな表情で坂を上っている。

傍から見れば絵になりそうな情景だったが、当の本人は現実的過ぎる悩みを抱えていた。


「はぁ……」


小さく、溜め息をつく。

彼女は、町の外れにある、この緩やかな坂道を上ってはいたが、先程からあまり歩が進んでいなかった。

ぼんやりとして景色を眺めながら、考え事をしている。


「はぁ、帰るのやだな……」


もう一度溜め息をつき、今度は同時に呟いた。

……彼女が悩んでいたのは、来年からの進路のことだった。華蓮は来年、高校を卒業するのだ。

彼女の父親にその事について相談すると、私立でも良いので自宅から通える近くの大学にしなさい、という返事が返ってきた。

しかし、彼女はそれだけは嫌だったので返事を曖昧にした所、それから度々、先生からだけでなく父からも進路指導を受けることになってしまったのだった……。


彼女の父は、一人娘の自由を許すタイプの人間ではなかった。

どちらかというまでも無く、堅苦しい人物であり、今までに華蓮は人並み以上の自由を与えられたことが無かった。

習い事や部活が無い時の門限は八時と決まっており、旅行にも学校の行事以外で友達と行く事は許されなかった。

中学の夏休みにたった一度だけ、母親と二人でオーストラリアに旅行に行った事があり、それが彼女にとって今までで一番自由を満喫した記憶だった。

それでも母がいた頃は、休みの日にはたまにどこかに連れて行ってもらうことがあり、そんな時は大抵父は疲れているからと家で留守番をしていたので、それほど不自由さを感じた事は無かった。


しかし華蓮が高校に入ってすぐ、両親が離婚し、華蓮は父親に引き取られることになった。

理由はあまり立ち入って聞きはしなかったが、離婚してすぐ、母は外国に行ったらしい。……きっとその辺りが原因なのだろう。

離婚してからは、母がいない寂しさからか、父は華蓮に対してより一層干渉してくるようになった。

華蓮も父の気持ちも判らないではないので、しばらくは黙って父の言うとおりにしてきた。

だが、半年前に父が再婚してから、ずっと抑えていた彼女の欲望が沸々と湧き上がって来るのを感じていた。


義母は、確か三十過ぎで、父の取引先関係の人だという事だった。

父も一度目の結婚で学習したのか、新しい彼女の母親は夫の意見を良く聞き、決して逆らわない女性だった。

華蓮ともまだそれほど打ち解けたわけではないが、彼女の卒業が近づくにつれ、進路についての話をする機会も増えてきた。……とは言っても、父親と同じ内容の台詞を柔らかく伝えられるだけだったが。


まだ彼女は誰にも言った事は無かったが、実はずっと外国に行きたいと考えていた。

留学、という建前を考えてはあるが、本音を言うと大学自体にはほとんど興味は無かった。彼女が外国で学びたいものは学問などではなく、もっと違う文化、違う町や人々をこの目で見てみたいと彼女は考えていたのだ。


たった一度だけ行った、母と一緒のオーストラリア。

そこで彼女は、色々な人々と出会い、彼女の母親からも外国の色々な事を聞いた。

不思議なほど、彼女の母は様々なことを知っており、それらの話を、華蓮はまるで子供が御伽噺でも聞くように夢中になって聞いていた。


その時初めて聞いたのだが、母は結婚するまでずっと、世界の文化を研究していたらしい。

そしてそのまま職業として研究を続けようかという時に父と出会い、結婚したらしい。

だからきっと、母は今その研究の続きをやっているに違いない。

……あの旅行の夜の、母の生き生きとした顔を思い出し、華蓮は少し母が羨ましくなった。


一台の車がすぐ横を通り過ぎ、華蓮はまた現実へと意識を引き戻される。

……また景色に紅さが増してきている。

眼鏡を掛けた頑固そうな父の顔を思い出すと、到底外国なんて無理に思えてくる。

……しかし少なくとも、この町を出て一人暮らしはしてみたかった。

ただの自分の願望と言うだけでなく、再婚してまだそんなに経っていない父と義母にとっても、それがよいと思うのだが……。


「何て言えばいいんだろ……?」


今日こそ言おう、今日こそ言おうと思いつつも、父を納得させるような台詞が思い浮かばず、先送りにしている毎日だった。


そんな時、彼女は決まって行く場所があった。ここから近くにある祖母の家だ。

祖母の家は、代々薙刀の道場を開いていて、華蓮も幼い頃よりそこに通っていた。というより、母の代わりにここで祖母に面倒を見てもらっていたことが多かったのだ。

その甲斐あって、今では華蓮の薙刀の腕前は相当な物になっていたが、特に段などにはこだわっていなかった為、彼女はまだ初段すら持っていなかった。

さらに、両親が離婚してからは父親があまり通うのに好意を示さなくなったため、華蓮は時折こっそりと通うようになっていたのだった。


景色の良い坂を上りきると、のんびりとした住宅街が広がっている。

所々に下町のような雰囲気が残る商店街を抜け、華蓮は古びた屋敷の前に立った。表札には『不知火』とある。

離婚後たまに連絡をくれる母が、この前「不知火に戻って良かった」などと言っていた事を思い出す。

娘の前でよく言えると思うが、華蓮はそんな母の奔放な所が嫌いではなかった。

母は現在、ドイツにいるらしい。あまり具体的に教えてくれないので細かくは判らないが、前にくれた電話でそう言っていた。


(ドイツか、……いいなぁ)


漠然としたドイツのイメージを想像し、華蓮は羨ましさを覚えた。

いつもそうなのだが、祖母の家の門は開いていた。

いくら下町とは言っても無用心だと言っているのだが、祖母は一向に聞こうとはしない。「この辺の人はみんな知り合いだからいいの」と言っていた。そして実際に何か起こったことも無い。

中に入った華蓮は、玄関へは向かわず、右手にある広めの庭に向かって歩き出す。庭には縁側があり、そこに面した居間にいつも祖母は居るのだった。


砂利を踏み分けながら、緑が溢れる小さな庭園に足を進める。あまり手入れはされていないようだが、それほど景観は損なわれてはいなかった。

典型的な日本庭園の風格があり、時代劇に出てきてもおかしくはない。

縁側には誰もいないのを見て、華蓮は引き戸を開ける。……もちろん鍵はかかっていない。

見渡した場所に誰もいないのを確認して、華蓮は中に声を掛けた。


「お婆ちゃーん、いるー?」


大きめの声で呼んでしばらく待つと、「はいはい」という声がして、奥から祖母が出てくる。……どうやら食事の支度をしていたらしい。


「……あら、華蓮ちゃん。いらっしゃい」


そうして出てきた祖母は、手早くお茶とお茶請けを用意しながら、華蓮に対して話しかける。

その一連の動作は、長年の歳月が積み重ねられているのがすぐに分かるほど無駄が無く、様になっていた。


「どうしたの?今日もお稽古?」

「うん。あと、こないだお母さんから連絡あったから、その報告」

「あらそう。……陽華元気だって?」

「相変わらずみたいだね。……お茶もらっていい?」


華蓮は祖母の話と、祖母が話してくれる母親の話が好きだった。

そのため、何かある度に祖母の元を訪れては現在の母の事を話し、昔の母の話を聞いていた。


「誰かに守ってもらおうとしていては駄目、大切な物は自分で守れるようになりなさい」


祖母は、母が小さい頃からそう教え、母もこの道場で薙刀を習っていたらしい。

確かにその言葉は、華蓮が幼い頃よりよく聞いていた言葉だった。

そして、華蓮も薙刀を習い始めるようになった。

練習の合間に祖母の入れてくれるお茶を飲みながら、文字通り母の武勇伝を聞くと、何だか自分も負けていられないような気になり、元気が出てくるのだった。


「だから、お父さんが何て言っても今回ばかりは引き止めさせないつもり」

「……そう、貴女ももう一人前だものね。自分の道は自分で決めるといいわ」

「うん。……でも本当の事を言うと、やっぱりちょっと不安もあるかな」

「……そう。そうよね」

「…………」

「いい物を見せてあげる」


そういうと祖母は、奥の部屋へ戻っていった。

華蓮は特にする事も無く、ちゃぶ台の前に座りながらじっと待っていた。

今はその役目を殆ど終え、ただ一人のために立ち続けている木製の家具は、その年季からか不思議と華蓮を落ち着かせた。

何となく、日本の田舎へ行ってみるのもいいかもしれないと、そう思う。


……程なくして戻ってきた祖母は、長い棒状の物を包む袋を持っていた。

華蓮は、見てすぐにそれが薙刀だと確信する。しかも、その包みからして相当に古い物のようだった。

少し驚いている華蓮の前で、祖母はゆっくりとその包みを解いた。

……やはり、そこから現れたのは、素人目に見ても立派だと判る年代物の薙刀だった。


「これは……?」

「『焔』って言うの。うちの家宝よ」


……『焔』。とてもいい響きだ。

華蓮は一目でこの素晴らしい業物の薙刀を気に入ってしまった。そして、自然とある欲求が生まれてくる。


「……振ってみてもいい?」

「いいわよ。あなたのお母さんも昔、何か悩んでいる時にはいつもこっそり持ち出して振り回してたしねぇ」


母の意外な昔話を聞き、華蓮は今は遠くにいる、最愛の家族であり親友でもある女性の過去を思った。

浮かんでくる優しい顔を眺めると、またさらに親しみが湧いてくるような気がした。


「……そうなの?お母さんらしいね」

「ええ。ふふふ」


そしてすぐに華蓮は、焔を持ったまま、ちょっとした広さのある庭へ降りた。

ここでなら、薙刀を振り回しても垣根が邪魔をして通りからは見えないのだ。

雨が降っていない時は、いつも華蓮はその庭先で稽古をしていた。


辺りはもう完全に夕暮れとなり、紅い光が庭全体を照らしている。

緑に包まれた庭園は、一時的に秋の色を見せようとしていた。

日差しが差し込み、周囲が朱に染まる。

もう一度焔の刀身を見つめると、薙刀の刃に写った自分も何かに興奮しているかのように顔が赤く染められていた。


……まずはしっかりと構える。

薙刀の柄を両手で掴み、その幅を肩幅より少し広く取る。半身になり、足の幅も両手と同じくらいの幅に広げた。


「全ての基本は構えから。達人は一日中構えたままでいられるものよ」


そう最初に言った祖母の言葉を思い出す。

習いたての頃は、その言葉が本当かどうか疑わしかったが、今となっては本当だと思える。それほど基本の構えは華蓮の体に染み付き、最も集中できる姿勢となった。

今では構えるだけで、ある種の精神統一の役目も果たしてくれるほどだ。

こうしていると、全ての雑念が取り払われていくのを感じる事ができる。


別に訪れる場所は観光名所で無くても良い。そこにはどんな人々がいて、どんな暮らしをしているんだろうか。

まだまだ自分の知らない事が多すぎる。

もっと知らない所へ行ってみたい。


……頭の奥がうずうずしてきた。

そうか、判った。私の好奇心は本能だ。抑えきれるはずがない。


「……うん、やっぱり決めた」


母もきっとこんな気持ちだったのだろう。

そう、色々考えすぎて先へ進めなくなる前に行動してみよう。

……在り来たりだけど、何もしないで後悔するより、何かして後悔した方がまだいい。そんな後悔だったら望むところだ。

湧き上がってくる好奇心を抑えきれず、華蓮は身震いした。

顔に笑顔が戻ってくる。


「おばあちゃーん、私決めたよ。やっぱり……」


家の中で再び食事の支度を始めたらしい祖母に向かって、そう叫ぶ華蓮。もう答えは決まった。

だが、祖母の返事が返ってくるよりも早く、彼女の体に異変が生じた。

……何だか、足元がふらつく。


「あ、あれ……?」


目が回るような感覚。

浮遊感は不思議なほどに長く続く。

何か、水のような池のような、液体に飛び込んだような感触。

そして、華蓮の意識が途切れた。


「華蓮……?」


……庭に出た彼女の祖母が見たのは、可憐なまでに赤く染まった夕焼けの景色だけだった。


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