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新古事記  作者: 安楽樹
序章
4/11

序章肆 皇耶

自分は、この時代に生まれるべきでは無かったのではないか。

……そう考える事がある。


彼、御雲皇耶は、誰もいない道場で一人、型の練習をしていた。……彼此、三十分ほど前からだ。

年季の入った板張りの間に、少年の掛け声だけが響いている。


辺りはまもなく夕日が差し込んで来ようかという時間帯。

微かに差し込んでくる太陽の光に、少し長めの黒髪が反射する。その髪の間から見える切れ長の目が、彼の風貌に理知的な雰囲気をかもし出していた。

白い道着と濃紺の袴に包まれている、華奢というほどではないが痩せている体は、すらりと高い彼の身長をより長身に見せている。


ここは近所にある、槍術の道場だった。

師範が一人と門下生が二十数人。その内の一人である彼は、小学校の頃からここに通っていた。

長い間通っている彼は、この道場の師範と随分親しくなっており、稽古が休みの日にはたまにこうして一人で使わせてもらう事もある。

現在その師範代は、来客中ということでここにはいなかった。

よって、皇耶は誰一人存在しない道場の真ん中で、一人黙々と型をこなすことができたのだった。


まずは払い。

刀などとは違い、切るというよりは相手の足止めをするのが目的とした動作で、イメージした相手の膝元を狙って槍を鋭く旋回させる。

遠心力によって程よく負荷のかかった長槍は、気を抜くと彼の体こと振った先へと運んでいかれそうになる。

それを皇耶は体全体の力で止め、今度は逆向きに同じ動作を行う。

百回ほどそれを繰り返すと、手に心地よい抵抗と慣性による負荷がかかってきた。自分が手にしている武器の重みと、その洗練された道具の感触が伝わってくる。


彼は悩み事や考え事があると、よくここに来るのだった。

一人で繰り返し練習をしていると、集中して考える事ができるし、また気晴らしをする事もできる。

これまでにも、幾度となくこの場で悩み事を解決してきた。


現在も彼にはある悩みがあり、学校の帰りにここへ立ち寄ったのだった。その悩みとは、全ての人間が抱えるものでもあり、彼独自のものでもある。

綺麗な水の底に溜まった泥を掻き出すように、一回一回の動作を着実に繰り返す。

ただ、今回の考え事はそれとは逆に、濁った泥水の中から、透き通った玉を探し出すようなものであったかも知れない。


……その悩みとは、彼の来年からの進路についてだった。

高校三年生になった彼には、ついに今後の進路を決めなければならない時期が到来したのだ。


皇耶は成績が悪いわけではなく、むしろ良い方だった。

進路指導の先生は、お前の成績ならば国立大も狙えると、強く推薦してくれる。

しかし彼は、国立大などには全く興味は無かった。それどころか、大学という機構自体にも関心がない。

……だが残念ながら、彼の希望を叶えるには、現在の日本では大学が一番適している場所だという事は確かだった。

彼が唯一大学に進むとしたら、その目的は、どこでも良いので文学部に入り、彼の好きな歴史について学ぶ事だ。


……彼は幼い頃から歴史の世界へ傾倒していた。

槍を習い始めたきっかけもそのためであり――いや、槍を習い始めたから歴史が好きになったのかもしれない。

ふとしばらく考えてみたが幼い頃の記憶のため、そのきっかけはもう曖昧だった。

しかし、既に今の彼にとって歴史に思いを馳せる心は、空腹になったら食事をするのと同じように、至極当然の事になっていた。


今では皇耶は、槍を選んで良かったと思っている。

近所には他にも剣道などの道場があったが、それよりも彼はもっと雰囲気があるというか、槍術の方がより『それらしい』気がするのだった。

彼はいつも日常とかけ離れた世界のこの長い槍の先に、とうの昔に過ぎ去った、歴史的な世界を思い描くのだった……。


続いての型は突き。

これも眼前にそびえ立つ敵の姿を思い描き、中心線に沿った人体の急所を正確に貫いていく。

迷いを振り払うように、渾身の力を込めて突く。


……きっとこのまま大学で歴史を学んだとしても、それを職業として過ごせる人はごく僅かだ。

自分にはそれほどの熱意が無いことも、十分自覚している。かといって、彼の父親のような普通のサラリーマンになるのも嫌だった。


「安定した生活を送れる大人になりなさい」


彼の父親は進路について話す時、決まってこう言う。

……なんだよ、安定した生活って。

喧嘩になるのも嫌で彼は口にしなかったが、仕事から帰ってビールを飲み、煙草を吸いながら野球を観る。……そんな父親のような毎日だけは過ごしたくなかった。


安定した生活。……その先に一体何があるのか。

ただ社会の小さな部品として一生を終える。それで自分は満足などできない。


彼はずっと戦国時代に生きることを夢見ていた。

命を懸けて戦い、策を巡らし、そして己の志を貫き通す。そんな生き様に憧れていた。

明晰な彼の頭でなくとも、そんな願いが叶えられる事が無い事は判ってはいたが、どうしてもその妄想じみた気持ちを捨てきることができずに、その思いは歴史小説を読んだり、歴史を模したゲームに浸る事で紛らわせていた。


決して現代では活かされる事のない武勇と知略。そんな力は自分には備わっていないのだろうか。

たとえあったとしても、それは発揮される事なく、表面にすら出ずに終わってしまう。

それが、発達した文明社会というものだ。

……平和とは、何と素晴らしく退屈な物なのだろうか。


一通りの型が終わり、彼は一息ついた。

先に丸い布のついた槍を元の場所に戻し、道場の中央に正座をする。

そのまま、ゆっくりと目を閉じて息を整えた。


この社会ではもう、誰か一人の力で世界を変える事など不可能だろう。彼はそう思う。

周囲の友人たちは徐々に世間を受け入れ始め、平凡な道を歩んでいこうとしている。

しかし、自分はまだ自分を捨て切る事ができない。


……自分は一体何者なのか。

単なる一個人でしかないのか。

それとも、自分は何者かになれるのだろうか。


……そんな思春期の少年にありがちな思いを、彼は今抱えているのだった。


ゆっくりと目を開けた彼の視線の先に、細長い布の袋が目に入った。

その袋は、道場の壁の高い位置に飾ってある神棚に奉納されていた。

小さい頃、師範に聞いたら、それは業物の槍だと教えてくれた。実際に見た事は無かったが、もちろん真剣だろう。

幼い頃は全く手も届かず、周囲の目も光っていたため、中身を見ることはできなかったが、今ならそれは届く位置にある。

あれからずっと気にしていなかったが、ふいに皇耶の心に好奇心が芽生えてきた。


道場の片隅に置いてあった椅子を持ち出すと、神棚の下に置いた。その上に乗って手を伸ばす。

……悠々とそこにある槍に手が届いた。


(そんなに小さかったかな……)


槍を習い始めた時の事を思い出し、しみじみ思う。

彼は背の高い方だとはいえ、あの頃はまだ今の身長の半分程しかなかった。

奉納された槍を手に取ると、ずっしりとした重量が伝わってくる。

ちらりと入り口に目を向けて、誰も来る気配が無いことを確かめた後、皇耶は槍が入っている袋を開けた。


……そこに入っていたのは、彼の想像した以上に立派な槍だった。

槍が入っている事は判っていたのだし、そう驚く事は無いと思っていたが、その槍の持っている雰囲気に、皇耶はしばらく息をする事も忘れ、見入ってしまった。


槍の長さは、彼の身長よりもやや高い。……百八十センチ程はあるだろうか。年代物を感じさせる漆塗りの柄に、銀色に輝く穂先。

その先端は十字形に形作られている。初めて見る真剣に、皇耶は思わず息を飲んだ。

よく見ると、柄の部分に何かの紋が彫られていた。……どうやら、太陽から伸びる光を模しているらしい。

槍を見ているうちに、皇耶の心に更なる欲望が芽生えてきた。同時に考える。

師範が戻ってくる前でなければ、その欲望は叶えられないだろうと。


皇耶は構えた。

大きく深呼吸をし、息を整える。

槍の穂先に真剣が納まっているのを見ると、皇耶はもう一度、最初から型をやり始めた。


やはりさっきまでの練習用の槍とは重さも感触も違う。

しかし真剣の割に、予想したよりも重くはなかった。バランスも先ほどとは違って、先が重い。

ただ練習用の槍と多少勝手は変わるが、十分彼にも振り回せるほどの重量だった。


槍を使いこなす事に集中しているうちに、目の前にぼんやりと相手が浮かんできた。

最初は一緒に稽古をしている知り合いたちの姿だったが、次第にそれは戦国時代の侍へと変わっていった。

……脳裏に浮かぶ見知らぬ景色。

皇耶の頭に、何度も想像した戦場の様子が浮かんでくる。


もし、彼が本当に戦国の世に生まれていたとしても、そこで世の中を変えるような人間になれるとは限らない。

その事も彼は十分に承知していた。

しかしそれでも、自分はただの平凡な人間だったとしても、それを知るまでは納得できなかった。

彼自身でそれを確かめるまで、納得する事はできないのだ。


気が付くと、耳鳴りが聞こえていた。

……いや、聞こえているというよりも頭の中に響いている、というべきだろうか。

あまりにそれが収まらないため、皇耶は軽く頭を振った。……しかしそれは終わることなく響き続ける。

何故かふと、その耳鳴りは彼の持つ槍から聞こえてきているような気がした。


……誰かを呼んでいるようにも思える。


皇耶はその耳鳴りに耳を傾けるように、槍を構えたまま目を閉じた。

段々と意識が薄れていくのが判る。……微かに声が聞こえるような気がした。

聞いたことは無いのに、何故か懐かしい。


『……自らの目で確かめ、そして自分が何かになれるのか、試してみるがよかろう……』


その言葉に、皇耶は無意識のままはっきりと頷いていた。


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