喋ったこともないくせに
「お前のこと、好きなやついるらしいよ」
卒業まで、あと一か月だった。
「へえ」
友達があまりにも普通に言うものだから、俺も普通に返した。
「誰?」
名前を聞く。
「あの子」
視線を教室の前へ向けた。
窓際の席に、小さな背中がある。
「ああ……」
知っている。
同じクラスなのだから、当然だ。
背は低い。
あまり目立つ方ではない。
顔は――たぶん、かわいい。
前に男子が「あの子かわいいよな」と言っていた気がする。
それくらい。
「……喋ったことないけど」
「らしいね」
「なんで?」
「知らねえよ」
友達は笑った。
俺も少し笑った。
意味が分からなかった。
喋ったこともない人間を、どうやって好きになるのだろう。
考えてみれば、見られていた。
それを聞いてから気づいたわけではない。
もっと前から、何度か思っていた。
俺が黒板の近くに行ったとき。
先生と話しているとき。
なんとなく視線を感じる。
一度だけ、そちらを見た。
彼女は俺を見ていた。
そのときは、
――なんだろう。
それだけだった。
人なんて見る。
俺だってよく人を見る。
むしろ観察する方だと思う。
歩き方。
喋り方。
誰と一緒にいるのか。
一人になった瞬間、どんな顔をするのか。
そういうものは、なんとなく見てしまう。
美人だと思う人だっている。
でも、
――美人だな。
それで終わる。
運動ができるのか知らない。
勉強ができるのか知らない。
何が好きなのか知らない。
どんなことで笑うのか知らない。
性格だって分からない。
それなのに、好きになる?
俺には、よく分からなかった。
「おい」
後ろから髪を触られた。
「ちょっ、やめろって」
「ボサボサじゃん」
「触んな」
手を払う。
また触られる。
「やめろって」
口ではそう言いながら、本気で席を離れることはなかった。
そいつは笑っている。
俺もたぶん、少し笑っていた。
ふと、前を見る。
窓際。
彼女がこっちを見ていた。
まただ。
「何見てんの?」
後ろの男が言う。
「いや」
視線を戻した。
「別に」
俺は女子とほとんど話さなかった。
嫌いだったわけではない。
何を話せばいいのか分からないし、わざわざ自分から話しかける理由もなかった。
そもそも男子にだって、自分から話しかけることは少ない。
誰かが来る。
俺が返す。
それで人間関係は成立していた。
一人でいるときは、よく怖い顔をしていると言われた。
別に怒っているわけではない。
普通にしているだけだ。
けれど男子といるときは笑った。
くだらないことを言われれば笑う。
絡まれれば、
「うるせえ」
と言いながら相手をする。
体育になれば、もっと笑った。
特にバスケ。
ボールが手に入った瞬間、教室にいる自分とは別人になる。
走る。
抜く。
パスを出す。
シュートを打つ。
「よっしゃ!」
入れば声が出る。
楽しかった。
長距離も速かった。
走ること自体は好きじゃない。
それでも二クラス合同なら、前にいるのは数人だけだった。
ゴールしたら、
「はぁ……はぁ……」
膝に手をつく。
息が整えば、また教室に戻る。
いつもの顔に戻る。
俺にとっては、ただの日常だった。
卒業した。
結局、彼女とは一度も話さなかった。
少しくらい話してみてもよかったかもしれない。
そう思った。
でも、それだけだった。
大学に入って、変な男に会った。
最初は嫌いなタイプだと思った。
クラスで目立つ。
明るい。
女子を見つけると、自分から話しかけに行く。
ある日、聞いた。
「なんでそんな女子に話しかけんの?」
「下心」
即答だった。
「最低だな」
「男なんてそんなもんだろ」
「一緒にすんな」
そいつは笑った。
流行にも弱かった。
有名人。
音楽。
映画。
服。
流行っているものがあれば、すぐ食いつく。
「お前、本当にミーハーだよな」
「流行ってるってことは面白いってことだろ」
「その理屈はおかしい」
俺なら嫌いになるはずだった。
こういう人間は苦手だ。
そのはずだった。
「シャトルラン、何回?」
「お前には負けねえ」
「は?」
意外と速かった。
走れば、俺と張り合う。
身体能力は高い。
なのに。
「パス!」
バスケットボールがそいつの手に渡った。
次の瞬間。
「……何してんの?」
「ドリブル」
「それが?」
「うるせえ!」
身体能力はある。
なのに、ボールを持った瞬間だけ全身がおかしくなる。
リズムがない。
動きが硬い。
例えるなら、音痴。
運動音痴ではない。
バスケ音痴。
「お前、なんでそれでシャトルラン速いんだよ」
「関係ねえだろ!」
笑った。
気づけば、俺はそいつをよく見ていた。
「でた、ダルがらみ」
友達がそいつの肩にもたれかかっていた。
「重いんだけど」
そう言いながら、どかさない。
翌日も。
「でた、ダルがらみ」
また別の日も。
「でた、ダルがらみ」
何なんだ、こいつ。
女子には自分から近づく。
同性には寄りかかられる。
クラスでは騒ぐ。
でも、一人になれば普通にスマホを見ている。
何か特別に頭がいいわけでもない。
すごい才能があるわけでもない。
聞けば、家庭にもいろいろあるらしい。
詳しいことは知らない。
本人が言わないから、俺も聞かなかった。
それでも次の日には、いつも通り笑っている。
それが強さなのかどうかも、俺には分からない。
そもそも本人は何とも思っていないのかもしれない。
知らない。
知らないことばかりだった。
ある日。
「疲れた」
そいつが俺の肩にもたれかかってきた。
「……何してんの?」
「ダルがらみ」
「自分で言うなよ」
重い。
でも、どかさなかった。
「お前らさ」
近くにいたやつが笑った。
「ゲイなんじゃね?」
「違うわ」
「こいつ女子と全然喋んないもんな」
「関係ねえだろ」
「目も合わせてなくね?」
「うるさい」
肩の重みはそのままだった。
別に、嫌ではなかった。
その日の帰り。
一人で歩きながら、ふと思った。
俺は、あいつの何を知っているのだろう。
好きなもの。
嫌いなもの。
家で何をしているのか。
将来どうしたいのか。
どうしてあんなに女子へ話しかけるのか。
いや、あれは下心か。
どうして友達に寄りかかられても、本気では怒らないのか。
どうしてあんなにミーハーなのか。
どうしてシャトルランは速いのに、バスケだけあんなに気持ち悪い動きをするのか。
何も知らない。
なのに。
明日もたぶん、あいつを見る。
女子に話しかけていたら、
――またやってる。
と思う。
友達に寄りかかられていたら、
――またダルがらみされてる。
と思う。
バスケをしていたら、
――やっぱ下手だな。
と思う。
そのとき。
昔の教室が浮かんだ。
窓際、一番前。
小さな女の子。
俺が黒板の前に立つ。
彼女が見る。
男子と話す。
俺が笑う。
彼女が見る。
後ろから髪をいじられる。
「やめろって」
俺が少し笑う。
彼女が見る。
体育では、バスケをする。
走る。
笑う。
長距離では、前を走る。
教室に戻れば、また一人で怖い顔をしている。
――喋ったこともないくせに。
ずっと、そう思っていた。
足が止まった。
俺はスマホを取り出した。
連絡先なんて知らない。
SNSも知らない。
卒業してから、姿すら見ていない。
もしかして。
あの子も、こんな感じだったのだろうか。
何も知らない。
だから、見る。
見ていると、昨日とは違う顔が見える。
一人のとき。
友達といるとき。
教室にいるとき。
体育をしているとき。
誰かに触られたとき。
好きなものを見つけたとき。
少しずつ知っていく。
でも。
一度も話していない。
だから、本当は何も知らない。
その矛盾のまま、
また見る。
それを「好き」と呼ぶ人もいるのかもしれない。
俺には、まだ分からない。
あの男のことだって、好きなわけじゃない。
ただ、気になる。
人として。
なんか変だから。
一言では説明できないから。
明日になったら、また知らない顔を見せそうだから。
歩き出す。
卒業してからずっと、
喋ったこともないのに、何が分かるんだ。
そう思っていた。
たぶん、今でも間違ってはいない。
話さなければ分からないことは、たくさんある。
見ているだけで勝手に作り上げた人間と、本当のその人は違うかもしれない。
それでも。
見ていたから分かることも、
少しくらいはあったのかもしれない。
「……一回くらい、話せばよかったな」
誰もいない道で呟いた。
返事はなかった。
だから今度は。
明日、あいつに一つだけ聞いてみようと思う。
お前、
なんでバスケだけそんなに下手なの?




