約束
何となく薄紫色の明け方、僕はベッドから起き上がり、目を覚ました。
朝食も取らずに手早く出勤準備を済ませ、いつものタバコ臭い海老茶色のコートを引っ掛け、まだ人通りの少ない冬のバス通りをゆっくり歩いて会社へと向かった。
いつもの課長のお小言をうまく躱し、自身の単調でつまらない仕事をさっさと済ませ、それから僕の一日は始まる。
僕は会社を出ると足早に駅へと向かい、やって来た電車に素早く乗りこんだ。
立ったまま、ほとんどちぎれそうな吊革にしっかりつかまると、ゆっくりと電車は走りだした。
すると、その日少し行って、4丁目の曲がり角に差し掛かった時、何時もの様に、電車の警笛が低く鈍く、しかし鋭く鳴り響いたその時、偶然、電車の座席に座っていた美しい一人の女性と目が合った。美しい深い栗色の眼をした女性だった。彼女はちらりと僕を見て、すぐ目を伏せた。僕が彼女を見たので彼女も僕を見たのかもしれなかった。が、その微かに美しく微笑んだ様な視線は僕の胸中に深く突き刺さっていた。
僕は、特別気にもせずに、次の駅で電車を降りると、コートのポケットに手を突っ込み、カラスの鳴き声が妙に冷たく響く裏通りをしばらく歩き続け、いつもの 赤黒い、古びた暖簾の垂れた店の前に立ち、開きづらい扉にギシギシと力を込めていた。
その日、僕の財布の中には1000円札2枚の金しか何と無く憂鬱だった。タバコの臭いが染みついた海老茶色のコートを着たまま、カウンターに座り、ぼんやりと前を向き、タバコを口に咥えると、小汚くシミのついた前掛けをして、つまらなそうに焼き鳥を焼いてた店の親父は、僕の前にビールを置きながら言った。
「何か食うか?」
僕は咥えてたタバコを手元の灰皿に載せると、何も言わず、テーブルに置かれた ビールに手をかけた。
「どうした、飯はまだなんだろう?」焼き鳥を焼いてた手を止め、親父がしつこく絡んで来た。
それでも黙ったまま、僕が口を閉ざしていると、親父は軽く舌打ちし、
「つまんねえ、奴だな」そう言うと、再び店内に焼き鳥の焼ける音が響いた。
この店の親父は、話したくて話したくて仕方無い様で、店の中はいつも無口な酒飲み達で占められているのだが、時折り、話が盛り上がった相手には、平気でビールの中ジョッキをサービスする始末だった。
しかし、今しばらくは、店内は静かに無口な淋しい時間が流れていた。そして顔を赤くした酒飲み達がポツリポツリと口を開き始めた頃だった。
僕に向かって親父がつまらないことを問いかけて来た。
「お前、今日は嫌におとなしいな、えっ、女に振られたか?」
なおも僕が黙っていると、何時は口を閉ざす親父だが、その日の親父はなぜか黙らなかった。
「そうだな、お前に女がいるわけなかったか。どうした、おまえ、会社で本当に仕事してんのか?」
「えっ?、何やってんだ?」
無口だった酒飲み達のニヤニヤ笑いながら絡みついて来る視線がうるさかった。
そんな時、僕に、ざわついた店の厨房の奥から思ってもいない援軍が現れた。
「何言っているのよ、仕事してなきゃお店に来れないでしょ!」
すず子だった。彼女は、店の手伝いに来ている、三十代半ばの何処か影のある独身女だ。親父はすず子に頭が上がらなかった。なぜなら数学を知らない親父は店の経営全般をすず子に全て任せていたのだ。数学というか数字を親父は知らないのだった。
その日、いつもと違って、深く憂鬱だった僕は固く口を閉ざしたまま、黙ったまま静かに酒を飲んでいると、今度はそんな僕を見ながら親父が心配そうに言いだした。
「お前、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないのか? そろそろ給料日前だろ」
「うちじゃカードもツケもきかさねえぞ」
僕はその時、初めて自覚した。そうだった、そろそろ給料日前なのだ。言われるままに、僕は俯いたまま、ユラリと立ち上がった。
「1500円よ」カウンターの向こうから、すず子が無造作に、僕に手を差し出し言った。僕は使い古した財布の中から、皺の寄った最後の1000円の札2枚を抜き取って、彼女の手に乗せた。
そしてその日、初めて店で口を開いた。俯いたまま。
「ごちそうさん」
*
店を出た僕は、そのまま帰る必要もなく、あちこち一人で街を歩き回っていた。人気の無い、時間の止まった街かど、腐った臭いのする街かど、悪の染みつく街かど。
数人の若者がタバコを吸いながら面白そうに僕を見ていた。
少し疲れて、なんとなく回り道をして、近くの小さな公園で、僕はゆっくりと足を止めた。
誰もいないベンチに静かに座り、風に揺れるブランコを見つめながら、冷たく重い海老茶色のコートのポケットに手を突っ込み、軽くなったタバコの箱から最後の1本を取り出し、100円のライターでそっと火をつけた。
紫の夜空を見上げて一息吸い込み、大きく煙を吐いた。
夜空を斜めに小さな星が走った様に見えた、その時、
「コラ、公園でタバコを吸うな」
突然、聴きなれた女の声が聞こえた。振り向くとそこに、公園の街灯の灯を受けて何となく影を纏い、すず子が立っていた。
待ち合わせをしていた分けではない。僕は思わず尋ねてしまった。
「どうしたんだ?」
「どうしたって……。今、帰るところよ。あなたこそ、こんなところで何してるの?」
そう言うと、何も言えずにいる僕を見つめながら、そっと横に座った。
風に静かに揺れている公園の古いブランコが心に揺れ、小さなコオロギの鳴き声が心に響くようだった。僕はそんな2つのアートに緊張してしまっていた。
「もう、とっくに終電は行ってるわよ。どうするつもり?」
そんな今に酔っていた僕を、彼女はいきなり現実に引きずり込み、軽く嘲る様に言った。
そう言われ、驚き、その日、初めて左の手首にしていた安物の腕時計を見て、僕は大きな衝撃を受け、しばらく黙ったまま時計を見つめていた。
すず子はそんな僕を、むしろ愉快そうに見つめ、軽く嘲笑していた。
僕は何故か、無意識に助けを求めるように、横に座るそんなすず子を見つめた。
二人の視線が合い、彼女はちょっと俯くと、空っぽの何かを暫く深く考えこんでいる様だった。そして力強く紫色の空を高く見上げた彼女は、僕の手を取り何も言わずに立ち上がった。
*
次の日の朝、休日だった。なんとなく疲れていた僕は目を覚まし、ベッドの横の緑のカーテンを開けた。するとそこに薄く真っ白な銀世界が広がっていた。
彼女はすでに起きて朝食の準備をしていた。女性的な香りのする部屋だった。
僕は起き上がり、ベッドに腰を掛け、テーブルの上にあった昨日のタバコの箱を取り出したが、中は空だった。
すこしして、すず子が朝食を持って部屋に入ってきた。
「まさか、これで終わりにしようっていうんじゃないでしょうね?」
僕の前にそっと何時もの銘柄のタバコの箱をさし出し、彼女が言った。
「あなた、会社を辞めて作家を目指して。あなたなら作家になれる。私も店の手伝いを辞めて働く。そして私の部屋で一緒に暮らしましょ。約束よ」
彼女はなぜか学生時代の僕の夢を知っていた。そう、僕は大学は文学部だった。
高校の3年の頃、僕は「憧れの綺麗な女の子」に手紙を渡したこともあった。そんな僕が、ただそれだけの理由で文学部を目指したのだ。もちろん何年か浪人生活を送った末にようやく合格した。
「あの店の親父も知ってるわよ……バカ」すず子が言った。
「あなた,酔った時に自分が何しゃべってるか知ってるの?」彼女が笑いながら僕の顔を覗き込んできた。
彼女の言葉を聞いて僕の顔は赤く蒸気を発するようだった。
朝食を終えると僕らはまた、昨日の公園に出かけた。二人でベンチに腰を掛けたその時だった。
「おい、松坂、松坂じゃねえのか?」僕は驚いた。
振り向くとそこには会社の同期の坂本が古びたジャンパーに手を突っ込み、愉快そうな顔をして立っていた。
「よう、誰なんだその人、姉さんか?」彼はすず子を見つめ言った。彼の視線は酒飲みの視線の様にニヤニヤ絡みついて来た。
すると彼に向かって、真剣にすず子が言った。
「失礼ね、この人の婚約者よ!」僕は特別否定する気も起きなかった。
「最近、婚約したんだ」僕はすず子を見つめながら言った。
「ろくに仕事もしないくせにやることはやってんだな、どこで知り合ったんだ?」
彼はさらに僕に詰め寄った。
すると隣に座っていったすず子が立ち上がり、大きな声で彼に向かい怒鳴りつけるように叫んだ。
「あんたに関係ないでしょ ‼」
坂本は驚いたようにすず子を見つめ、一歩あとずさった。
「行きましょ!」すず子は僕の手を取り言った。
僕らはそのまま、すず子の部屋へと向かった。
そして僕は彼女に言われるままに会社を辞め、僕らは、すず子の部屋で、一緒に暮らし始めた。そして僕は言われるままに作家を目指すことになった。
*
一緒に暮らし始めて2、3ヶ月ほど経った、ある日の日曜だった。
買い物を終えて部屋に戻った僕にすず子が訊ねて来た。
「あなた、この前のコンテストの結果はどうだったの?ご案内の封書が届いていたの……」
「コンテスト?封書?」僕は気にも止めていなかった。
「ええ、どこかの出版社から、ご案内の封書がご丁寧に届いてたじゃない」
「応募したんでしょ?」すず子の真剣な表情に僕は圧倒されてしまっていた。
「あっ、ああ……」
「どうだったの?」
「あっ、ああ……。だめだった」
「……」僕は何も言えなかったが、彼女は全てを見透かしたような表情だった。
実を言うと、彼女と一緒に暮らし始めて2、3ヶ月、ろくに小説など書いてはいなかったし、まともに机に等、向かってはいなかった。が、その時のすず子の真剣な表情を見てから僕はまじめに机に向かうようになっていた。
ところがその年の秋、町中も赤く染まりだした9月の終わり頃だった。
「キョウ、カアサンガシンダ、ソウギアス」アルバイトの最中に、メールが妹から突然届いた。僕はそれまで母の見舞いには一度しか行っていなかった。
僕が帰えると、その日は出勤だったはずのすず子が何故か部屋にいた。
「どうしたの?」
すず子が不思議そうな顔をして僕に尋ねて来た。
「い、いや……」
すず子には、僕に母がいることを話していなかった。
「何があったの?」彼女の視線が痛かった。
「じ、実はお袋が亡くなったらしいんだ」
「え、お母さんがいらしたの?」
「いやいいんだ、君はまだ婚約者ということだから」そう言って、すず子を振り切り僕は部屋を出た。
病院に着くと、僕は病室の片隅の窓際にある小さな椅子に腰を下ろし、一度だけ見舞いに来た時の事を何となく思い出していた。
病室に入った僕はベッドで眠る、もう何も言わない母を見た。
「苦しまずに、眠るように亡くなりました」医師が僕を見て優しく言った。
その言葉を聞いただけで僕はホッとした。
葬儀が始まると、僕は隅っこで一人、酒を飲んでいた。知らない祖母さん達が大勢来ていたが、僕はただ頭を下げるしかなかった。そこへ兄の健一が高そうな喪服を着て僕に声をかけてきた。
「どんなんだ、調子は?」
彼は酒のコップを手に、僕に近づいてきた。
「えっ……」
「頑張ってるんだろう?」
兄と話すのは5年振りだった気がする。兄は現役でT大学を合格し、大学でフランス文学を勉強して、今は保険の外交員をしていたはずだ。親戚の期待を一身に集めていた男だ。
「とりあえず……」
「小さい頃から本が好きだったからな、お前は」
「……」
「あまりいい噂は聞かんが、どうなんだ?やっていけそうなのか?」
彼が言うと、僕は口元を少し歪めて何故か寂しそうに笑った。
「兄さんこそどうなんだ?」
「まあ、給料はいいよ。最近、美人の女性と婚約もしたんだ」
僕はその「美」と言う言葉に何の感動も覚えなかったはずだった。
彼はコップの酒を煽ると、僕の前に置いてあった徳利から、自分のコップに酒を注ぎ、再び酒を飲みだした。
「……」
「がんばれよ、やれるだけやれるのは今のうちだぞ」
そう言うと健一は立ち上がり、振り向きもせずに席を離れていった。
僕は戸惑った。兄に励まされるとは思ってもみなかったのだ。
葬儀が終わり、最後に見た深く栗色の眼をした母の遺影は僕に向かって微かに美しく微笑んでいた。
その日、僕はろくに親族に挨拶もせずに斎場を後にした。
部屋へ向かうためのバス通りに向かい、誰もいない駅に立つと、珍しく電車はすぐに来た。
するとその次の駅で、一人の女性が乗って来た。
女性は、ただつり革につかまったまま、背筋を伸ばして、真直ぐと前を向いて立っていた。その彼女に僕は何となく最後に見た母の遺影を感じた。その時、突然電車の警笛が低く鈍く、しかし鋭く鳴り響いた。すると彼女はちらりと僕を見て、すぐ目を伏せた。僕が彼女を見たので彼女も僕を見たのかもしれない。 深く栗色の眼をした女性だった。
女性はすず子にはない、何かを持っていた。その何かに僕の心は激しく揺らされてしまっていた。
するとその時、彼女がゆっくりと頭を少しかしげて、再びちらりと僕を見つめた。そして僕に近寄り、そっと紙を一枚手渡した。
『約束です。今日の六時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます』
駅に着き、顔を上げると、彼女はもういなかったが、僕の胸中に彼女の残像が残ってしまっていた。
部屋に戻ってもすず子は何も言わなかった。
時間はまだ、5時を過ぎた頃だった。札幌の10月はもう寒く、一日は短い。しかし、その日の一日はいつもの一日に比べてどこか長い。
いつの間にか僕は、すず子に何も言わずに部屋を出る準備をしていた。
「……」すず子は、うつろな表情で、出かける準備をしていた僕を黙って見ていた。そして、いつのまにか僕は部屋を出ていた。
表は静かに闇が降り始め、風は切れるように冷たかった。そんな小さな町に夜が響いていた。
ヨーカドー地下入り口を、6時が5分ほど過ぎた頃だ。
するとそこに女が一人、薄いベージュのコートを着て憂鬱そうに立っていた。
そして彼女は再び顔を上げると深い栗色をした目で僕を見つめ妖しげにニッコリと微笑んだ。
もう日の暮れた道を二人で急ぎ足で歩き、僕らは彼女の部屋に向かった。
「お久しぶりね……」彼女は冷たくそう言うと、ベッドの横で僕の上着にそっと手をかけた……。
すず子にはない、女の匂いだった。「美」を漂わせ、「美」を匂わせている……。
そして彼女のその美を纏った細い体がその夜ベッドの上で美しく燃えた。
*
次の朝、僕は目覚めてみるとどこか知らない、いやに整理された部屋にいた。何とか起き上がってみると、柔らかいベッドに一人で横になっていた。が、昨日の感激は何も残っていなかったし、それが感激だったのかすら覚えていなかった。ただ掌にわずかに柔らかな胸の膨らみの感触が残っていただけだった。その時、僕は突然怖くなった。
僕は底のない孤独に落ち込んでいた。目の前が真っ暗になった。僕はベッドを飛び起きた。そして逃げるように部屋を出ると、僕は、大きなマンションの部屋を出た。そこはどこか誰も知らない異郷の地のようだった。
スマホをポケットから取り出し「すず子」と投入し、検索した。しかし反応があるはずもない。目をつぶり大きく息をついた。
右へ進めばよいのか、それとも左へ進めばよいのか。助けを求めても誰も答えを教えてはくれない。僕は何もない道に迷ってしまった。誰も助けてはくれない、
「どうしたんです?」そう聞かれて、
「不倫の帰りなんです」とは言えない。
自分のすべての過去が重くのしかかってくるようだった。まるでもう一人の自分の様に。
しかし、小走りに走り回っていると、遠く彼方に小さくバス停が見えてきた。
ありがたい。
僕はホッとしたが、静かで、新しい住宅街、彼女がこんな住宅街、しかもあんなマンションに住んでいることが僕にとって意外だった。(というより僕がこんな高級マンションに連れ込まれたのが意外だった)
人通りもなく、風のない少し霧がかった様な肌寒い朝だ。僕は、部屋にすず子がいるだろうか混乱していた。もし、いなければ僕はどうなるのか?
バス通りに出ると、大勢の小学生が重たそうなカバンを背負い、自分よりも大きな傘を差しながら歩いていた。わずかに雪が降ってきた。
バスを降りると市電に乗った。いつの間にかもう日は暮れかけている。
札幌の市電はいつもは、心が初恋のときのようにドキドキさせられたが、その日は帰ったらすず子が何を言うかドキドキしていた。僕は何となく迷っていた。
結局、僕はすぐに部屋に帰ることができずに、何故か、あの時の公園に行き、ベンチに腰を掛け、俯いた。
顔を上げると誰も乗っていないブランコが淋し気に風に揺れていた。
そんな時だった、突然嫌な奴が現れた。
「よう、久しぶりだな。今日は一人か?彼女はどうした?」
僕は黙ったままポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
すると奴が言った。
「公園で煙草を吸うもんじゃねえぞ」そう言って、立ち去って行った。
それを聞いた僕は立ち上がり、しばらく考え込んだが、ようやくすず子の待つ部屋へと足を向けた。
部屋に着き、そしらぬ顔で部屋に入ると、夕日を浴びながらすず子が何食わぬ顔で、洗濯ものを取り込んでいた。
僕も何食わぬ顔をして言った。
「ただいま」
すず子が洗濯物を取り込む手を止めた。市電の音が秋の夕陽を割く様に響いた。
「どこ行ってたの?」
「吉田と飲みに出て、ちょっと飲みすぎてやつの部屋に泊めてもらった」
「……」その眼差しには懐疑の色が薄くにじんでいた。
「連絡くれてもよかったんじゃない」
「ああ、ゴメン。奴と飲むのも久しぶりだったから」
「……」すず子は何も言わず、洗濯物に目を向けていた。夕陽が照らしだした彼女の頬が僅かに震えていた。が、少しすると彼女が言った。
「まあ、いいわ……。これから夕食の買い物に出るけど付き合ってね、約束よ」
「えっ……」
終わり
最後まで読んでいただきありがとうございました。




