今週の短篇集 「初夏の栞」
喉の奥が、からからに乾いていた。
佐和子は重い瞼を押し上げ、遮光カーテンの隙間から差し込むナイフのような光に目を細めた。
視界に入るのは、昨夜飲み干したビールの空き缶と、机に山積みになった「季節のキャンペーン」の企画書。部屋の空気は淀み、まるで湿り気を失った砂漠のようだ。
「……また、土曜日か」
時計の針は十時を回っている。効率と成果を追い求める日々に、心はすり減り、いつしか休日はただ「死んだように眠る時間」に成り下がっていた。
その時だった。
遠くから、涼やかな風鈴の音を電子音にしたような、懐かしいメロディが聞こえてきた。
佐和子の指先が、無意識に布団の端を掴む。それは幼い頃、胸を躍らせて追いかけた
あの音。
「まだ、走ってたんだ……」
導かれるようにベランダへ出ると、抜けるような青空の下、住宅街の角を曲がる小さな青いトラックが見えた。
移動図書館「あおぞら号」だ。佐和子はパジャマの上にカーディガンを羽織ると、
裸足にサンダルを引っ掛け、外へと駆け出した。
外の空気は、驚くほど瑞々しかった。五月の終わりの風が、若葉の匂いを運んでくる。
青いトラックの周りには、数人の親子連れが集まっていた。
「……あ」
いざトラックを目の前にすると、佐和子は急に足が止まった。小綺麗な身なりの親子たちの中で、
寝癖のついた自分がいかにも場違いに思えたのだ。
(大人の私が、今さら絵本でもあるまいし)
無理に自分を納得させ、実用書の棚に目を向ける。
しかし、並んでいる「仕事術」や「マーケティング」の背表紙を見ても、吐き気がするだけだった。
今の自分には、一滴の物語も受け入れる余裕なんてないのだ。
「あんた、相変わらずそんな顔して本を選ぶのか」
不意に、しわがれた声が降ってきた。
振り返ると、シワだらけの顔に深い知性を湛えた老人が、トラックの影からこちらを見ていた。
移動図書館の主、源さんだ。
「え……?」
「昔からそうだ。眉間にシワを寄せて、正解を探そうとする。本は、探すもんじゃない。
向こうから呼ばれるのを待つもんだ」
源さんはそう言って、奥の棚から一冊の古い植物図鑑を取り出した。
それは表紙が擦り切れ、背表紙が少し色褪せている。
「これ、あんたが二十年以上前に返したきり、誰も借りていかなかった本だ。
中に忘れ物があるぞ」
受け取った図鑑は、ずっしりと重かった。
ページをめくると、懐かしい紙の匂い——バニラと古い埃が混じったような香りが鼻をくすぐる。
あるページで、指が止まった。
そこには、薄く透き通った紫陽花の押し花が挟まっていた。かつての瑞々しい青は失われ、
セピア色の琥珀のように静かに横たわっている。
その下には、丸っこい幼い字で書かれたメモが添えられていた。
『未来の私へ。大人になっても、朝の匂いを好きでいてね』
「あ……」
熱いものが、こみ上げてきた。
忘れていた。
かつての自分は、雨上がりの土の匂いや、朝露に濡れた草の香りに、世界が宝石箱のように輝いていると感じていた。効率なんて関係なかった。
ただ、生きていることが、呼吸することが、それだけで冒険だったのだ。
佐和子の頬を、一筋の涙が伝った。凝り固まっていた心の氷が、初夏の陽光に照らされ、ゆっくりと、けれど確かに溶け出していく。
「源さん……これ、借ります。あと、この詩集も」
佐和子が差し出したのは、仕事の役には一切立たない、
けれど美しい言葉が並んだ薄い詩集だった。
源さんは、細めた目で佐和子をじっと見つめ、深く刻まれたシワをさらに深くして笑った。
「ああ。おかえり、佐和子ちゃん」
「……ただいま、源さん」
返した声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
アパートに戻った佐和子は、まず窓を全開にした。
淀んでいた空気が一気に入れ替わり、カーテンが初夏の風に膨らんでダンスを踊る。
豆を挽き、丁寧にコーヒーを淹れる。立ち上る香ばしい香りが、部屋の隅々まで満たしていく。
机の上に散らばっていた仕事の資料を端に寄せ、借りてきた図鑑を開く。
特別なことは何もない、ただの土曜日の朝。
けれど、窓の外で揺れる若葉の緑が、淹れたてのコーヒーの熱さが、
そしてページをめくる指先の感触が、たまらなく愛おしい。
佐和子は、紫陽花の押し花を栞のように詩集に挟み、ゆっくりと最初の一行を読み始めた。
世界は、こんなにも美しく、潤いに満ちていたのだ。




