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第七話:神域の錬成と、深まる亀裂

 まどろみから意識を引き戻したのは、窓の外から聞こえる騒がしいほどの鳥の囀りと、鼻腔をくすぐる瑞々しい花の香りだった。

 数日前まで、このアルトワ領の別邸を支配していたのは、鉄が錆び、土が腐り落ちる「死の静寂」だけだったはずだ。


「……起きたか、レイ様」


 すぐ傍らで、透き通るような声が響いた。

 視線を向けると、そこには見違えるほどに整えられた姿の少女――ルナが椅子に腰掛け、私の顔を覗き込んでいた。

 彼女の銀髪は昨日の汚れが嘘のように白銀の輝きを放ち、新しく買い与えたフード付きの外套が、その整った容姿をより神秘的に引き立てている。


「……ああ。魔力は、完全に底を打っていたみたいだな」

 私は重い体を起こし、自分の右手を握りしめた。

 指先まで魔力が行き渡る感覚。一日に一度、世界の理を書き換える『不文律の反転インヴァージョン』が、再び私の奥底で静かに拍動を始めている。


「一日半、眠っておられましたわ。……おかげで、私の『仕事』も捗りましたけれど」


 ルナの背後から、もう一人の少女が音もなく現れた。

 没落令嬢、リタだ。

 昨日まで泥にまみれ、絶望に瞳を曇らせていた彼女の姿は、もうどこにもない。

 灰色の髪は艶やかに梳かされ、上品な青いドレスに身を包んだ彼女は、かつて『腐敗令嬢』と蔑まれていたことなど信じられないほど、凛とした気品を纏っていた。


「リタ。……その様子だと、力の扱いに慣れたようだな」

「ええ。すべては、レイ様が私を救ってくださったおかげです。……見ていただけますか? 私が、あなたのために用意した『供物』を」


 リタが優雅な仕草で、部屋のテーブルの上に置かれた二つの品を指し示した。

 一つは、ルナが使っていた、刃こぼれだらけの安物の鉄剣。

 もう一つは、私が長年使い古し、昨日の反転の余波でボロボロに焼け焦げていた黒い外套。


「……これが、お前の『神域の錬成エターナル・クラフト』か」

 私は息を呑み、その二つに歩み寄った。


 ルナの剣は、もはや鉄の塊ではなかった。

 刀身は薄く、しなやかな白銀の輝きを放ち、その中心には血管のような青い魔力線が脈打っている。リタが物質の時間を巻き戻し、不純物を極限まで削ぎ落として再構築した結果、それは神話に語られる魔剣の域に達していた。


「名は『残響の銀閃エコー・シルバー』。……ルナさんの卓越した速度を、決して殺さない軽さと、空間を切り裂くほどの鋭さを与えました。……ルナさん、お気に召しました?」

 リタが少しだけ勝ち誇ったように微笑む。

 ルナは無言でその剣を抜き放った。

 空気を切り裂く音さえしない。ただ、銀の閃光が一閃し、部屋の隅にあるロウソクの芯だけが、火を灯したまま綺麗に切断された。


「……悪くない。重さを感じない。私の腕が、そのまま伸びたみたいだ」

 ルナは短く答えたが、その瞳には隠しきれない驚きと、そして……リタへの微かな対抗心が宿っていた。


 リタは満足げに頷くと、次に私の外套を手に取った。

「そして、レイ様。こちらはあなたの『深淵の魔導衣アビス・ケープ』です。……ただの布ではありません。この領地に眠っていた呪具の残骸を分解し、あなたの魔力と共鳴するように編み直しました」


 受け取った外套は、驚くほど軽かった。

 羽織った瞬間、私の周囲の空気が凪いだ。

 外部からの魔力干渉を遮断し、私の微弱な魔力を効率よく循環させる、まさに今の私にとって唯一無二の防具。


「レイ様。……サイズを確認させていただきますわね。……失礼します」

 リタが私の懐に滑り込むようにして近づき、外套の合わせを整え始める。

 鼻腔をくすぐる、彼女の魔力から発せられる花の香り。

 彼女の細い指先が私の胸元に触れ、丁寧に襟を正していく。


「……リタ。もう、十分ではありませんか?」

 横から、ルナの冷ややかな声が飛んだ。

 彼女の『神速の直感』は、リタが「装備の調整」という大義名分の影で、私に密着して独占欲を満たそうとしているのを正確に見抜いていた。


「あら、寸法が狂えばレイ様に万が一のことが起きますわ。……ルナさんこそ、剣の感触を確かめに、外で素振りでもしてらしたらいかが?」

「……主様の守護に、素振りなど不要。私がここにいるだけで、ゴミ一匹近づかせない」

「まあ、心強い。……でも、主様の『身だしなみ』を整えるのは、女性としてのたしなみがある者の役割ではなくて?」


 二人の間に、目に見えない火花が散る。

 絶望から救い出された彼女たちにとって、私は唯一の光であり、世界のすべてだ。その隣を巡る争いは、ある意味で必然だった。


 私は苦笑しながら、二人をなだめるように手を上げた。

「二人とも、そこまでだ。……リタ、素晴らしい仕事をありがとう。これで、次の旅が格段に楽になる」

「……お役に立てたのなら、これ以上の喜びはありませんわ、レイ様」

 リタは深々と一礼し、聖女のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


 ◇


 一方その頃、王都にある最高級の武器工房『黄金の鎚』。

 そこでは、勇者ゼクスの怒声が響き渡っていた。


「なんだと!? 修理できないだと!? お前、自分が誰に向かって言っているのか分かっているのか!」

 ゼクスがカウンターに叩きつけたのは、かつてまばゆい光を放っていた聖剣『アスカロン』だった。

 だが今のその剣は、刀身の半ばまでドス黒い錆が浸食し、触れるだけで指を切りそうなほどボロボロに朽ち果てていた。


「滅相もございません、勇者様。ですが……これはもはや、物理的な損傷ではないのです」

 王都随一と言われる老鍛冶師が、震える手で剣を指し示した。

「剣の芯まで、強烈な『腐敗の呪い』が染み付いている。……まるで、何年もメンテナンスを怠り、毒の中に浸し続けていたような有様です。これを元に戻すには、神話の時代にあったとされる『神域の錬成』でもなければ……」


「そんなもの、あるわけがないだろう! レイだ! あの無能が、何かの小細工を仕掛けたに違いない!」

「……ゼクス様。落ち着いてください。レイが去ってから、私たちの装備が次々と劣化しているのは事実ですわ。……彼は、私たちが気づかないところで、毎日こうした呪いを『反転』させて消していたのでは……」

 聖女クララが青ざめた顔で呟く。


「黙れ! あんな一日一回の『一発屋』に、そんな真似ができるわけがない! チッ……この店も役立たずか。行くぞ、クララ!」

 ゼクスは錆びた聖剣を掴み取り、工房を後にした。

 彼らはまだ、自分たちの足元がどれほど脆い地盤に立っていたのかを理解していない。

 レイが去ったことで、彼らが享受していた「無欠の日常」は、少しずつ、けれど確実に崩壊へと向かっていた。


 ◇


 翌朝、私はルナとリタを連れ、アルトワ領を後にした。

 見送りに来た領主や執事たちが、涙ながらに感謝の言葉を述べていたが、私の視線はその先――街道の向こう側へと向けられていた。


「レイ様。次は、どちらへ?」

 ルナが私の左側を歩き、リタが右側を歩く。

 完璧なまでの守護と、至高の装備を纏った、三人だけのパーティ。


「北だ。……飢えた獣の唸り声が聞こえる。……そこにも、俺の力を待っている『絶望』があるはずだ」


 私の言葉に、二人のヒロインが静かに、けれど力強く頷いた。

 一日一回。その一撃にすべてを懸ける旅は、これからさらに加速していく。


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