第四十三話:神の画室(アトリエ)、侵攻の号砲
漆黒の門を抜けた先。そこは、私たちが知る「世界」の常識が、まだ絵の具の段階で放置されたような、混沌と色彩の異次元だった。
空は完成を急いだかのように塗り潰された濃紺と紫のマーブル模様。地面は踏みしめるたびに「ペチャリ」と粘土が潰れるような音を立て、歩いた足跡が虹色の波紋となって広がっていく。
遠くには描きかけの山脈が骨組みを晒し、重力さえもが筆の走りに合わせて斜めに傾いていた。
「……ここが、ジョシュアの本拠地。……神の画室か」
私は胸元の『極光の魔導核』に手を当てた。
母の鈴が砕け、その因果を完全に継承した今の私は、周囲に漂う「描き変えられる前の魔力」を、呼吸するように吸い込み、自らの糧にしていた。
「怯むな! 貴公ら、ここからはアイリス様さえ踏み込めなかった聖域だ。我らが『原色』の絆で、この歪なキャンバスを塗り替えてやるぞ!」
ヴィクトリアが『断罪の騎士盾』を掲げ、号砲の如き声を張り上げた。
彼女の放つ紅蓮のオーラが、不安定な異次元の理を物理的に押し退け、私たちの周囲に「不変」の道を作り出す。
その直後だった。
色彩の地平線の彼方から、数千、数万という「未完成の兵卒(スケッチ兵)」が、地鳴りのような足音と共に押し寄せてきた。
それは顔のない、炭素の線だけで描かれたような不気味な軍勢。手にした武器さえも、一振りごとに形を変える神の悪戯。
「……主様。……まずは、私が。……影さえ残さず、……断ち切る」
ルナが『不変の銀閃・零』を抜き放ち、一閃。
白銀の剣筋が空を駆けた瞬間、最前線の数百体が、斬られたことに気づく暇もなく「存在の輪郭」を失い、消しゴムで消されたように霧散した。
再生も、上書きも許さない。レイの魔力が宿ったその一撃は、ジョシュアの「設定」そのものを拒絶していた。
「あはは! 旦那の魔力が漲ってやがる! アタイの拳に、触れられるヤツはいねえぜ!」
ガオが『轟天の剛腕・砕』を地面に叩きつけた。
ドォォォォォォォォォンッ!!
物理的な衝撃波ではなく、因果の爆発。彼女の周囲数百メートルにいたスケッチ兵たちは、その「存在確率」を反転させられ、実体から概念へと裏返って粉砕された。
「……私の番ですわ。……その未熟なデッサン、……一瞬で分解して差し上げますわ!」
リタが錬成陣を展開し、空間そのものを「粘土」に変えて捏ねくり回す。
敵が放った石化の光線も、色彩の奔流も、彼女の『概念分解』の前では、ただの無害な絵の具の滴へと成り下がった。
「……レイ。……一秒後に、……キミの左後方から、……筆の波が来るよ。……でも、……もう一秒はいらないね。……零秒で、……回避を確定させたよ」
セレナが指を鳴らす。
『時間の干渉』によって、私たちの周囲だけが時間の濁流から切り離される。
敵の攻撃が着弾する前に、私たちはすでにその因果を「通過」し、敵の背後へと回り込んでいた。
圧倒的な無双。
修行を経て、母の愛(呪い)を乗り越えた私たちは、もはや神の軍勢にとっての「最大級の災害」と化していた。
「…………これだけの数、いちいち相手にするのは時間の無駄だな」
私は、目前に広がる数千の敵軍を見据え、両手を広げた。
心臓を刻む三つ目の鼓動。三位一体の魔力が、私の指先から極彩色の因果の糸となって溢れ出す。
「…………制約を、……連鎖して、……食い破れ(チェーン・インヴァーズ)!!」
私の指先から放たれた一筋の反転の光が、最前線の兵卒に着弾した。
その瞬間。
ドミノ倒しのように。
あるいは、水面に落ちた一滴のインクが全体を染めるように。
一人が「味方」へと反転した衝撃が、隣の兵卒へ、そのまた奥の将軍へと、光の速度で伝播していく。
数秒前まで殺意を撒き散らしていた数千のスケッチ兵たちが、一斉に動きを止め、膝を突き、私に向かって武器を捧げた。
「「「我が王に、栄光あれ……!」」」
数千の声が重なり合い、戦場全域がレイに忠誠を誓う「反転騎士団」へと変貌した。
敵を倒すのではない。敵の「敵対心」そのものを裏返し、自分の手駒に変えてしまう――これこそが、母アイリスから受け継ぎ、昇華させた『真の王』の権能。
「……ありえない。……ありえないよ、こんなことは……っ!」
画室の最奥。
巨大なキャンバスを背にしたジョシュアが、震える手で筆を握りしめていた。
自分の描き出した作品が、一瞬にして他者の色に染め替えられた。芸術家である彼にとって、それは敗北以上の屈辱だった。
「……ノイズめ……。不完全なバグの分際で、僕の色彩を汚すというのか……っ!」
ジョシュアの虹色の瞳が、初めて「怒り」と「恐怖」で濁った。
彼は、自らの傑作を塗り潰してでも敵を排除するため、最凶の道具を取り出した。
「……いいよ。描き直すのはやめだ。……『第三の筆』。……その場所を、白紙に戻してしまいなさい」
画室の空が割れ、すべてを無に還す漆黒の「消しゴム」が、私たちの上に降り注ごうとしていた。
「……来いよ、ジョシュア。……お前が消そうとしても、……俺たちの『色』は、もう消えやしないぜ」
私は、五人のヒロイン、そしてヴィクトリアと共に、さらなる深淵へと足を踏み出した。
反転者の逆襲は、ついに神の心臓部を捉えようとしていた。




