第四十二話:白亜の残響、母という名の迷宮
北の霊峰『蒼氷の頂』、その天を突く祭壇。
五人のヒロイン、そして騎士ヴィクトリアとの魔力同期を終えた私の体は、かつてないほど濃密な因果の熱に浮かされていた。
「……レイ。……準備はいいか。……師匠の残響は、……貴公の想像を絶するぞ」
ヴィクトリアが、震える手で自身の籠手から『母の鈴』を取り出した。
鈴はもはや音を立てることもなく、白銀の光を放って膨張し、周囲の空間を「パチパチ」と因果の火花で焼き切っている。
「……ああ。……隠れているのは終わりだ。……母さん、……直接話をしよう」
私は胸の『極光の魔導核』に手を当てた。
通常は魔力を放出し、事象を裏返すために使うこの核を、私はあえて「逆回転」させた。
自分の内側へ、母の残響を引き摺り込むための『逆反転』。
キィィィィィィィィィンッ!!
鼓膜を劈くような高周波と共に、鈴が粉々に砕け散った。
飛散した白銀の破片が、レイの魔力を核にして再構成され、一人の女性の姿を形作っていく。
現れたのは、二十年前の姿そのままの、白く透き通るような美貌を持つ『白亜の聖女』アイリスだった。
彼女の瞳には、神の理さえも凍りつかせるような、圧倒的な「慈愛」と「狂気」が混ざり合って宿っている。
「……あぁ、……レイ。……私の、……私の可愛い子」
アイリスが、真っ白なドレスをなびかせ、音もなく私のもとへと歩み寄った。
彼女が通り過ぎるだけで、霊峰の吹雪が「お辞儀」をするように静まり、周囲のヒロインたちがその威圧感に気圧されて一歩も動けなくなる。
「……母さん」
「ええ、そうよ。貴方の、世界でたった一人の母親よ。……そんなに逞しくなって……。でも、もういいのよ。……あの子たちの手伝いなんて、……これ以上必要ないわ」
アイリスが、私の頬を両手で包み込んだ。
その手のひらの温かさ。それは、幼い頃の記憶に刻まれた、絶対的な「安息」そのものだった。
「……神様なんて、……ジョシュアなんて、……私が全部裏返してあげる。……貴方はただ、……私の腕の中で、……永遠に眠っていなさい」
アイリスの放つ『慈愛の反転』。
それは攻撃ではない。戦う意志を、憎しみを、……そして「明日へ進もうとする希望」さえも、優しく溶かして胎内へと引き戻そうとする、究極の「甘やかし」という名の呪縛。
「……レイ様! だめです、……飲まれないでくださいまし!」
「……主様! ……その光、……危険……っ!」
リタやルナの叫びが、遠い霧の向こうのように霞んでいく。
母の腕の中。ここさえあれば、もう傷つく必要はない。誰かに追放されることも、重すぎる期待に押し潰されることもない。
「……さあ、……おやすみなさい、レイ。……私と、……二人きりの世界へ」
アイリスの顔が近づき、彼女の唇が私の額に触れようとした、その瞬間だった。
「…………母さん。……あんたの愛は、……最高に心地いいよ」
私は、母の抱擁を、……その最強の「安息」を、……自分の腕の力だけで力強く振り払った。
「……なっ!? ……レイ……? どうして、……拒むの?」
アイリスが、信じられないものを見るように目を見開いた。
私は、母の白銀の瞳を、真っ直ぐに射貫くように見つめ返した。
「……あんたが俺を隠してくれたから、……俺は死なずに済んだ。……あんたの『お釣り』があったから、……俺はここまで来れた。……でも、……俺の『明日』を塗り替えるのは、……あんたじゃない」
私は、自分の胸に手を当て、五人のヒロインたちの顔を一人ずつ見回した。
「……俺は、……この子たちが好きだ。……俺を信じて、……俺に命を預けてくれた、……この『五色』の仲間たちと、……新しい世界を描きに行くと決めたんだ」
「……あの子たちが……? ……私の愛よりも、……そんな端役たちの言葉を信じるというの!?」
アイリスの瞳に、激しい嫉妬の炎が灯る。
「……ああ、信じるさ。……母さん、……あんたは一人で背負いすぎだ。……だから、……その孤独な『犠牲』……今ここで、……俺が裏返してやるよ」
私は、アイリスの胸元――実体化した彼女の核へと、右手を叩き込んだ。
「…………制約を、……親子の鎖ごと、……食い破れ(オーバー・インヴァージョン)!!」
ドクンッ!!
心臓が三つの鼓動を刻むような、重厚な衝撃。
私は母を拒絶したのではない。
彼女が二十年間、一人で背負い続けてきた「世界を支える苦痛」という因果を、私の『反転』で強引に共有したのだ。
「……あ、……あぁ……っ。……レイ……? 貴方の魔力が、……私の中に……。……重い、……重いわ、レイ……。……貴方の想い、……こんなに……熱くて、……重いのね……」
アイリスの瞳から、一筋の光の涙が零れた。
白銀の実体が、ゆっくりと淡い粒子となって崩れ始める。
彼女は、寂しそうに、……けれど、一人の男として自立した息子を誇るように、最高の笑顔を見せた。
「……あはは。……負けちゃったわね。……私の負けよ、レイ。……貴方はもう、……私の『可愛いお人形』じゃない。……立派な、……私の自慢の息子……そして、……新しい世界の『王』なのね」
アイリスの手が、最後に私の頬を優しく撫でた。
その瞬間、私の心臓を縛っていた最後の楔が「パリンッ」と音を立てて砕け散った。
一日に一度、二度。……そんな回数、もはや意味をなさない。
私の心臓は今、三位一体の魔力循環――**『三位一体の反転』**を完全に定着させていた。
「……レイ。……行って。……神の画室の門は、……開いたわ。……今度は、……貴方が、……私を本当の意味で迎えに来てくれるのを、……待っているわね」
母の残響が消え、霊峰の頂に、吸い込まれるような漆黒の「門」が出現した。
「……ああ。……待ってろよ、母さん。……次に出会う時は、……あんたをその暗い深淵から、……一番明るい場所へ連れ出してやるから」
私は、五人のヒロイン、そして騎士ヴィクトリアと頷き合い、その漆黒の門へと足を踏み出した。
反転者の物語は、ついに神の領域へ。
最愛の母の想いを背負い、私たちは世界の描き変え手――ジョシュアとの最終決戦へと向かう。




