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第四十話:純白の福音、聖女の祈りと膝枕

 北の霊峰の厳しい寒さを、まるで別世界の物語のように遮断した場所。

 そこは、かつて女神を祀っていたとされる隠れ里の、古びた石造りの祭壇だった。

 

 フィオナが祈りを捧げるように両手を組むと、彼女の純白の魔力がドーム状の結界となって広がり、祭壇の周囲だけを、春の陽だまりのような暖かな光で満たした。


「チリンッ……! ちょっとヴィクトリア、いい加減にしなさい! 銀の食器棚の中に私を閉じ込めるなんて……暗いし、音は響くし、高級感はあるけれど……出して! 出しなさい!!」


 祭壇の隅、ヴィクトリアが持ってきた重厚な銀の棚の中から、アイリスの叫びが微かに漏れ聞こえる。

 だが、ヴィクトリアは無言でその棚の扉をさらに魔導の鎖で封じ、静かに一礼して祭壇の外へと消えていった。


「……師匠、この子だけは、私でも止められません。……フィオナ。……レイを、……貴女の望むままに」


 ヴィクトリアのその言葉が、今夜の全てを肯定していた。

 祭壇の中央。フィオナは、柔らかな白いローブの裾を広げ、優雅に床に膝をついた。


「さあ、レイ様。……こちらへ。……貴方のその重すぎる荷物、……少しだけ、私が預かって差し上げますわ」


 彼女の慈愛に満ちた声は、私の魂のささくれを一つ一つ、丁寧になでつけるような優しさがあった。

 私は、誘われるままに彼女の隣へ。

 

「……フィオナ。……同期シンクロを、始めようか」


「ええ。……ですがその前に、……少しだけ。……貴方の戦う意志を、……眠らせて差し上げたいのです」


 フィオナが、私の頭をそっと自分の膝へと招き寄せた。

 

 ――膝枕。

 

 これまでのヒロインたちも試みてきたことだが、彼女のそれは、次元が違った。

 頭を預けた瞬間、彼女の太ももの柔らかな感触と、石鹸のような清潔な香りが、私の脳内の「警戒心」というスイッチを、強制的にオフへと切り替えた。


「…………福音の増幅アンプリファイ、……食い破れ」


 私は、彼女の細い喉元に手を添えた。

 魔力核から溢れ出す1/5の『反転』を、彼女の声帯へと直接同期させる。

 ドクン、ドクン……。

 

 私の心臓の鼓動が、彼女の歌声のピッチと完璧に重なり合う。

 フィオナが、小さな吐息を漏らし、私の手を自分の喉に強く押し当てた。


「……あ、……あぁ……。……レイ様の反転が、……私の声の中で、……七色の音階になって踊っていますわ……。……主様、……もっと……もっと、……私を響かせて……」


 フィオナが、静かに『福音の共鳴』を歌い始める。

 歌詞のない、魂の揺らぎ。

 その歌声が私の魔力を受けて増幅し、祭壇から霊峰全域へと広がっていく。

 

 それは、ジョシュアが描いた「冷たい死の絵画」を、内側から溶かしていくような、生命の賛歌。

 歌が届く範囲すべてが、私の『反転領域』と化し、味方には無限の治癒を、敵には根源的な弱体化を強いる、究極の聖域が完成された。


「……レイ様。……もう、……戦わなくてよろしいのですわ」


 歌いながら、フィオナが私の頬を両手で包み込んだ。

 彼女の瞳には、一切の打算も、狂気的な独占欲も見えない。ただ、ただ真っ直ぐな、海のような包容力だけがそこにあった。


「……ジョシュアを倒したら、……静かな場所へ行きましょう。……私が、貴方の食事を作り、……貴方の服を洗い、……貴方の眠りを守りますわ。……神様なんて、……もういりません」


 フィオナの囁きは、甘い毒のように私の意識を溶かしていく。

 一撃の反転。一日に一度、二度。

 孤独に世界を裏返してきた私の心が、彼女の「完成された安息」という名の檻の中に、自ら囚われようとしていた。


「……私、……貴方が、……ただの『レイ』として笑ってくださるなら、……それだけで、……他には何もいりませんの」


 フィオナが、私の額に優しく口づけをした。

 同期完了。

 彼女の歌声は、今や戦場そのものを「味方」に変える、絶対的な支配力を持つに至った。


 ◇


 一刻(約二時間)が過ぎた頃。

 ヴィクトリアが、銀の棚の封印を解き、中から鈴を取り出した。

 

 いつもなら「不潔だわ! 離れなさい!」と絶叫するはずのアイリスが、なぜか沈黙していた。


「……チリン……。……あら? ……アイリス様、……何か仰らないのですか?」

 ヴィクトリアが不思議そうに鈴を揺らす。


「………………」


 鈴から漏れたのは、深い溜息と、これまでになく真剣な、そして少しだけ寂しげな声だった。


「……この子は、……毒だわ。……私の息子を、……本当の意味で『骨抜き』にしてしまう。……ルナさんやガオさんのような、……分かりやすい欲求じゃない。……この子は、……レイの『戦う理由』そのものを奪って、……自分という揺り籠の中に閉じ込めてしまうわ」


 最強の姑であるアイリスが、初めて「敗北感」に近い感情を露わにした。

 フィオナの持つ、母親アイリスにすら勝る圧倒的な「正妻力」。

 それは、神の筆を折る力よりも、アイリスにとっては脅威だったのだ。


「……認めないわよ。……認めたくないけれど。……レイが、……あんなに穏やかな顔で眠っているのを見るのは、……産声を上げたあの日以来だわ」


 アイリスの思念が、静かに祭壇に溶けていく。

 

「……ヴィクトリア。……決めたわ。……次の修行が終わったら、……私とレイを、……一対一で話し合えるようにしなさい。……母親として、……そして、一人の反転者として。……あの子を、……本当の意味で『私の息子』として、……完成させるために」


 ◇


 祭壇に差し込む朝の光。

 私は、フィオナの柔らかな膝の上で、これまでにないほど深い眠りから目を覚ました。

 

「おはようございます、レイ様。……世界はまだ、……貴方の味方ですわ」


 フィオナの微笑みが、私の新しい一日を祝福していた。

 

 一対一の絆。

 それは、どんな過酷な運命さえも眠りにつかせる、世界で最も甘美な「安息」の歌だった。


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