第四話:残響の代償と、黄金の目覚め
まどろみの淵で、私は温かな「波」を感じていた。
それは寄せては返す、規則正しいリズム。
十六年もの間、絶対的な静寂と漆黒の底に沈んでいた私にとって、その波の音と熱は、この世界に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「……ん」
意識が浮上する。
重い瞼を押し上げると、隙間から差し込む朝の光が、網膜を白く焼き、心地よい痛みを伴って脳を揺らした。
視界が、ゆっくりと形を成していく。
木目の天井。染み付いた古い木の匂い。窓の外で囀る鳥の声。
それらすべてが、昨日、私の「絶望を食いつぶした」あの人が与えてくれた『贈り物』なのだ。
ふと、右手に確かな重みと熱を感じて、私は視線を落とした。
そこには、ベッドの脇の冷たい床に座り込み、私の右手を両手で大事そうに包み込んだまま眠っている少女――ルナの姿があった。
椅子に座ればいいと言ったのに、彼女は「ここが一番、あなたの鼓動が近くに聞こえるから」と首を振って聞かなかった。
銀色の髪が朝日に透け、真珠のような淡い光沢を放っている。
ふと見ると、彼女の尖った耳が微かにピクリと動いた。
眠っている間も、彼女の『神速の直感』は休むことなく周囲を監視し、私への不浄な接近を警戒し続けていたのだろう。
主である私の安眠を守るために、彼女は寝ながらにして戦っていたのだ。
「……おはよう、ルナ」
掠れた声で、私は彼女の尊称を呼んだ。
その瞬間、ルナの瞳が弾かれたように見開かれた。
「……っ! レイ、様……!」
一瞬で焦点が合い、手元にある私の無事を確認すると、彼女の全身を強張らせていた緊張が、春の雪解けのようにふっと抜けていく。
「……おはようございます、レイ様。……お怪我は、ありませんか? どこか、苦しいところは? 意識は、はっきりされていますか?」
「ああ。ぐっすり眠れたよ。……体内の澱みが、綺麗に晴れている」
私はゆっくりと上体を起こした。
昨日まで感じていた、魔力回路を焼き切られるような倦怠感は消え失せ、代わりに新しい魔力が指先まで満ち溢れている。
一日に一度。
私の人生を、そして母さんの命を繋ぎ止めている『一撃』が、新しい朝と共に戻ってきたのだ。
「……レイ様。あなたの手が、昨夜よりも……力強く感じます。……すごく、綺麗で、恐ろしい光が見えます」
「……ああ。魔力が回復した証拠だ。お前には、それが視覚的に見えるんだな」
「はい。……あなたが、また世界を塗り替えるための力を取り戻したのだと、私の魂が教えてくれます」
ルナは照れたように視線を落とし、握っていた私の手をそっと離した。
だが、その指先が名残惜しそうに、私の肌の熱を惜しむように空を掻くのを、私は見逃さなかった。
◇
俺たちは一階の食堂へと降りた。
朝の光が差し込む活気ある空間。パンの焼ける香ばしい匂いや、淹れたてのハーブティーの香りが鼻腔をくすぐる。
昨日のルナなら、この情報の奔流に眩暈を起こしていただろうが、今朝の彼女は私の服の裾をしっかりと握りしめ、驚きを好奇心へと変えて世界を観察していた。
「……お待たせ。今日の朝飯だ」
宿の主人が運んできたのは、焼きたての厚切りパンと、琥珀色に輝く濃厚なハチミツ、そして温かいヤギのミルクだった。
「……レイ様、これは、なんですか? この、黄金色の……」
「ハチミツだ。花の蜜を凝縮したものさ。……食べてみろ。昨日の肉とは、また違う衝撃があるはずだ」
ルナは恐る恐るパンの端をちぎり、たっぷりとハチミツを絡めて口に運んだ。
一口。咀嚼した瞬間、彼女の細い肩が大きく震えた。
「……っ」
言葉にならない。
彼女の瞳が潤み、ポロポロと、大粒の涙が皿の上に零れ落ちた。
「……あまい、です。……世界は、こんなに……優しい味がするんですね。……十六年間、私の中にあったのは、冷たくて、ざらざらした砂のような虚無だけだったのに」
「それは、お前が地獄を生き抜いたからだ。……地獄が深ければ深いほど、こうして得た幸せは甘くなる。……俺の『反転』は、そのきっかけを作ったに過ぎない」
「……いいえ。……レイ様。私に、甘いという言葉を、幸せという感覚を教えてくれたのは、あなたです。……私は、一生忘れません。このパンの味も、あなたの横顔も」
ルナは、涙を拭うことさえ忘れて、むさぼるようにパンを頬張った。
その必死で、愛おしい姿を見ながら、私は自分自身の「歪み」を再確認していた。
普通の人間は、幸せな者をさらに幸せにすることに喜びを感じる。
だが、俺は違う。
どん底にいる者、世界に見捨てられた者、自分でも自分の価値を否定している者。
そんな『マイナス100』の絶望を、一瞬で裏返して『プラス100』の奇跡に変える瞬間にこそ、俺の生の実感はあるのだ。
それは、死にゆく母を救ったあの日から、俺の魔力回路に刻み込まれた、呪いにも似た業だった。
◇
宿を出て、俺たちは旅の準備を整えるためにギルドの掲示板へと足を運んだ。
勇者パーティにいた頃は、常に誰かが俺の後ろで「雑用をこなせ」と喚いていたが、今は隣に、静かに俺の行く道を見つめる少女がいる。
「……さて。どこへ行くべきか」
掲示板に並ぶ依頼書。
ゴブリンの討伐、薬草の採取、紛失物の捜索。
どれもが退屈だった。プラスの奴らを、少しだけプラスにするだけの仕事。俺の『一回』を消費するには、あまりにも対価が安すぎる。
ふと、冒険者たちが遠巻きに眺めている、古びた、呪詛の気配が染み付いたような依頼書が目に入った。
「おい、またこれかよ。アルトワ領の『腐敗令嬢』の件……。もう三人も鑑定士が死んでるって話だぜ」
「ああ、触れるだけで剣が錆び、大地が枯れる。……ありゃあ人間じゃねえ、歩く厄災だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、静かな熱が弾けた。
『腐敗令嬢』リタ。
没落貴族の令嬢でありながら、生まれ持った呪いのせいで周囲を腐らせ、今は別邸に閉じ込められているという「ゴミ」。
「……ルナ。目的地が決まった」
「……はい。あの、『令嬢』という方のところですね」
ルナの返答は短かったが、彼女が私の裾を掴む力が、ほんの少しだけ強くなった。
神速の直感を持つ彼女は、私の内面にある高揚を敏感に感じ取ったのだろう。
「……レイ様。お聞きしても、いいですか?」
「なんだ?」
「……主様は、私以外の……壊れた誰かを、また救うのですか? 私だけでは、あなたの力を使う先として、不十分でしょうか?」
それは、初めて彼女が見せた『独占欲』だった。
魔族特有の剥き出しの執着。俺に救われ、俺に世界のすべてを委ねた彼女にとって、俺の『奇跡』を分かち合う相手が増えることは、本能的な恐怖なのかもしれない。
俺は立ち止まり、フードから覗く彼女の銀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「不十分なわけがないだろう。……お前は俺の最高傑作だ。俺を護り、俺の代わりに世界を駆ける、最強の剣だ」
「……最強の、剣」
「だがな、ルナ。剣は使い続ければ刃がこぼれる。……その刃を研ぎ、鍛え、さらに鋭くするための『手』が必要なんだ。……その令嬢が持つ力が、もし俺の想像通りなら、彼女はお前という剣を完成させるための、最高の鍛冶師になる」
ルナは、じっと私の言葉を咀嚼するように黙り込んだ。
やがて、彼女は小さく頷き、私の服の裾を離して、代わりに俺の手を、指の間を通すようにして強く握りしめた。
「……分かりました。レイ様がそう望むなら。……けれど、忘れないでください。あなたに初めて触れたのは私で、あなたが初めて救ったのも、私だということを」
「……ああ。忘れるわけがない」
十六年の闇を越えた少女と、その闇を食いつぶした男。
二人の足跡は、さらなる深淵へと向かって踏み出された。
勇者たちが失ったものの大きさに絶望し、泥濘の中でもがいているとは知らず。
俺は、俺の『今日』を、次の絶望へと捧げるために。




