第三十八話:漆黒の牙、不滅の腕に抱かれて
北の霊峰の麓、どこまでも続く白銀の雪原。
吹き荒れる地吹雪が、時折「ピキリ」と音を立てて凍りつくこの場所で、私たちは『不滅の義手』の最終調整に臨んでいた。
「チリンッ!! ちょっとヴィクトリア、いい加減にしなさい! 私をこんな雪だるまの中に埋めて……レイ! ガオさんが貴方の首筋を狙っているわよ! 野生の勘という名の『捕食本能』に騙されてはダメ! 離れなさい、今すぐ十メートルは距離を取りなさい!」
雪原の中央に作られた巨大な雪だるまの中から、アイリスの絶叫が籠もった音で響き渡る。
ヴィクトリアは、その雪だるまの頭頂部をさらに雪で固めながら、涼しい顔で腕を組んだ。
「……師匠、これは野生の証明です。ガオは今、レイとの魔力同期を通じて、己の『盾』としての限界を超えようとしている。……不純な動機などありません。……たぶん、な」
ヴィクトリアが僅かに視線を逸らす。その先。
ガオは防寒用のマントを脱ぎ捨て、薄いインナー越しに鍛え上げられた肢体を晒して雪の上に立っていた。彼女の右腕――漆黒の装甲に白銀のラインが走る『轟天の剛腕・砕』が、私の魔力を受けて「ドクン、ドクン」と重厚な鼓動を刻んでいる。
「……旦那! 準備はいいぜ! アタイのこの腕に、旦那の熱いの……全部ぶち込んでくれ!」
ガオが黄金の瞳を爛々と輝かせ、拳を打ち鳴らした。
私は彼女の背後に回り、その逞しい肩を両手で掴んだ。義手の接合部から伝わってくるのは、彼女の激しい興奮と、私への全幅の信頼が混ざり合った、痺れるような因果の奔流だ。
「……行くぞ、ガオ。……外れた理を、拳で叩き直せ」
「…………因果の衝撃、……食い破れ!!」
私が『分割反転』のエネルギーを一点に凝縮し、ガオの義手へと一気に流し込んだ。
瞬間、漆黒の装甲が白銀の光を放って膨張し、周囲の雪が一瞬にして蒸発して消えた。
「おおおおおおおっ!! 漲る、漲るぜぇぇぇ!!」
ガオが吠え、前方にある巨大な氷の岩盤に向かって、義手を真っ直ぐに突き出した。
それは「殴る」という物理現象を超えていた。
拳が空気に触れた瞬間、反転の衝撃波がドミノ倒しのように空間を伝わり、対象の「存在確率」を裏返していく。
ドォォォォォォォォォンッ!!
地響きと共に、高さ十メートルはあろうかという氷の岩盤が、粉々に砕けることさえ許されず、端から「霧」となって消滅した。
ジョシュアが「上書き」しようとする世界の壁を、彼女の拳は「そもそも存在しないもの」へと粉砕してしまったのだ。
「……はぁ、はぁ……っ。すげぇ……すげぇぜ旦那! アタイ、今なら神様のツラだって、この義手でマッサージしてやれるぜ!」
興奮で肩を揺らすガオ。彼女の全身から、私の魔力が黄金の蒸気となって立ち昇っている。
だが、その興奮は、すぐに別の「熱」へと変わった。
「……なぁ、旦那。……アタイ、……なんだか身体の中が、……まだジリジリするんだ」
ガオが振り返り、潤んだ瞳で私を見つめた。
彼女はそのまま、私の胸元にドサリと倒れ込むようにして、私を雪の上に組み伏せた。
「……ガオ?」
「……旦那の匂い。……アタイの腕の中に、旦那がいるみたいで……。……なぁ、……もう少し、……こうしててもいいか?」
ガオが私の首筋に顔を埋め、大きな尻尾をブンブンと雪に叩きつける。
彼女の不器用で、けれど力強い抱擁。獣人としての本能が、魔力同期によって極限まで昂ぶっているのが分かった。
彼女にとって、私の魔力に触れることは、魂を直接愛撫されるのと同じ意味を持っていたのだ。
「……アタイの隣は、旦那の場所だ。……誰にも、……お袋さんにも、……ジョシュアにも譲らねえ。……アタイを、……旦那の一番の『盾』にしてくれよ……」
ガオが甘えるように、私の首元を「ガリッ」と甘噛みした。
痛くはない。だが、彼女の剥き出しの独占欲が、熱い吐息と共に直接肌に伝わってくる。
「……チリンッ!! ガオさん!! 今、……今、甘噛みしたわね!? 歯形を付けようとしたわね!? 聞こえているわよ! 視えているわよ!! レイ、貴方もいつまで押し倒されているの! 早く反転させて、その虎の娘を大人しくさせなさい! 不潔だわ、破廉恥だわ!!」
突然、背後の雪だるまが内側からの殺気で爆発し、中から飛び出した鈴が、雪原を飛び跳ねながら私たちの元へ突進してきた。
「ひえぇっ! 旦那の母ちゃん、……雪の中でも起きてるのかよ!」
ガオが慌てて飛び退き、顔を真っ赤にして尻尾を丸める。
「当然よ! 私の『姑センサー』を甘く見ないことね! さあ、レイ、立って! 雪の上でそんな……あられもない格好をして! 風邪を引いたらどうするの!?」
アイリスの「精神的なプレッシャー」が、物理的な吹雪以上に冷たく雪原を支配する。
私は苦笑いしながら立ち上がり、ガオの頭に積もった雪を優しく払ってやった。
「……ガオ。……お前の拳は、最高だったぞ。……次も頼む」
「……へへ。……おうっ、任せとけよ旦那!」
ガオが照れ臭そうに、けれど誇らしげに鼻を鳴らす。
漆黒の義手には、まだ私の反転の残り香が、白銀の火花となって静かに宿っていた。
一対一の絆。
それは、どんな神の盾をも粉砕する、世界で最も硬い愛の質量だった。




