第三十六話:銀閃の影、凍える夜の体温
北の霊峰『蒼氷の頂』の中腹。クリスタルの氷柱がシャンデリアのように天井から垂れ下がる、幻想的な氷窟。
そこは、吹き荒れる吹雪の音さえも届かない、青白い光に満ちた静寂の聖域だった。
「よし、隔離完了だ。これであの喧しい鈴の音に、貴公らの鼓動を邪魔されることはない」
ヴィクトリアが、何重にも防音の魔導布でぐるぐる巻きにした『母の鈴』を、洞窟の外の雪溜まりに深く突き立てて戻ってきた。
布越しにアイリスの「レイ、変なことしちゃダメよ!」という叫びが微かに聞こえた気がしたが、ヴィクトリアは無慈悲にもマントでさらに蓋をした。
「……レイ。ここからは貴公とルナ、二人だけの時間だ。魔力核と新魔剣の同期には、一切の雑音を排した精神の共鳴が必要になる。……いいな、一刻(約二時間)後に迎えに来る。それまでは、何が起きても私は関与しない」
ヴィクトリアはそう告げると、騎士らしい峻烈な足取りで洞窟の入り口へと去っていった。
残されたのは、私と、銀髪を揺らす一人の少女。
「主様。……座って」
ルナが、氷の床に敷かれた毛皮の上に腰を下ろし、自分の隣を指先でトントンと叩いた。
彼女の瞳には、いつもの冷徹な剣士の光ではなく、揺らめく焚き火のような、熱く湿った色が宿っている。
「ああ。……同期を始めようか、ルナ」
私が彼女の隣に座ると、ルナは迷うことなく私の左腕を掴み、自分の胸元へと引き寄せた。
厚い防寒具越しでも伝わってくる、彼女の激しい心臓の鼓動。
「主様の魔力、……冷たい。けれど、芯がとても熱い。……私の中に、もっと流し込んで」
ルナが『不変の魔剣・零』を膝の上に置き、その刀身に私の右手を誘導した。
私は、彼女の細い指の上に自分の手を重ね、心臓の隣にある『極光の魔導核』を共鳴させる。
「…………制約を、一対一の因果へと、食い破れ」
極小の反転。
彼女の魔力回路に停滞している「冷え」を「熱」へ裏返し、私の魔力を1/5だけ、彼女の魂へと直接同期させる。
「あ、……っ、はぁ……」
ルナが短く、熱を孕んだ吐息を漏らした。
彼女の銀髪が、私の魔力を受けて白銀の燐光を放ち始める。
二人の因果が混ざり合い、氷窟の壁に映る影が、一つに溶け合っていく。
「主様。……聞こえる。貴方の声が、頭の中で反転して、私の名前を呼んでいる。……このまま、誰もいない場所へ、私を連れ去ってほしい」
普段は沈黙の裏に隠している彼女の本音が、魔力の同期を通じて、濁流のように私の意識へと流れ込んでくる。
それは、ジョシュアへの怒りよりも、世界への絶望よりも深い、私という存在への「飢え」だった。
「ルナ。……お前は、この剣があればどこへだって行けるだろう」
「……違う。剣だけじゃ、私は影に戻ってしまう。……主様が、私の名前を呼んでくれたあの日から、私の世界は主様という光で塗り替えられた。……だから、怖い。……あの虹色の筆に、主様が『消去』されてしまうのが、何よりも恐ろしい」
ルナが、私の右手を自分の頬に押し当てた。
彼女の肌は氷のように冷たいはずなのに、触れた箇所から火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
「……お母様は、すごい。……主様の過去も、血も、その力の根源も、全部持っている。……私は、……あの方には一生勝てない。……でも」
ルナが、私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その銀色の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、氷の床でパチリと結晶化した。
「……今、この瞬間に、主様の隣で、主様の体温を一番近くで感じているのは、私。……お母様にさえ譲らない。……主様の明日を、私が一番近くで斬り開く。……だから、……私だけを見て」
彼女の独占欲は、静寂そのものだった。
激しく叫ぶわけでも、暴れるわけでもない。ただ、深海のように深く、冷たく、そして一度捕らえたら二度と離さない、絶対的な重力。
「……分かっているよ。ルナ、お前を置いていくはずがないだろう」
私は彼女の涙を親指で拭い、そのまま彼女の後頭部を引き寄せ、額を合わせた。
魔力核が激しく共鳴し、同期率が跳ね上がる。
ルナの持つ『不変の理』が、私の反転を受け入れて、ジョシュアの上書きさえも拒絶する「絶対の真実」へと昇華していく。
「あ、ああ……主様。……混ざり合う。……貴方の色が、私を塗り替えていく……。……心地、いい……」
ルナが恍惚とした表情で、私の肩に顔を埋めた。
一刻(約二時間)という時間は、彼女にとっては瞬きのような一瞬であり、私にとっては、彼女という一人の少女が背負っている絶望の重さを、改めて知るための長い時間だった。
同期が完了し、魔剣『不変の銀閃・零』が、暗闇の中で太陽のような白銀の輝きを放ち始める。
「……主様。約束。……死ぬ時は、私を連れて行って。……一人で影に還るのは、もう、嫌だ」
ルナが私の服を強く握りしめ、消え入るような声で誓いを立てた。
それは、忠誠心を超えた、魂の契約。
「……ああ。……お前の時間も、俺が全部食いつぶして、離さないでやるよ」
私がそう答えた瞬間。
洞窟の入り口から、バサリと雪を払う音が響いた。
「……そこまでだ、二人とも。……ルナ、貴公、いつまでレイに縋り付いている。同期は完了したはずだ。……さあ、交代だ。次はリタが外で、今か今かと錬成炉を爆発させそうな勢いで待っているぞ」
ヴィクトリアが、苦笑混じりの、けれど少しだけ羨望の混じった声で呼びに来た。
ルナは名残惜しそうに、けれど満足げな微笑を微かに浮かべて立ち上がる。
「……主様。……また、後で。……夢の中で、……続きを」
彼女は一度だけ私の手を強く握り、ヴィクトリアと入れ替わるように洞窟を出ていった。
後に残ったのは、ルナの銀髪の淡い香りと、反転によって熱を帯びた、氷の聖域の静寂だった。




