第三十四話:白亜の聖女と、泥の中の産声
――世界は、描き損じの寄せ集めよ。
霊峰の洞窟、白い虚無が全てを飲み込もうとする極限状態の中。私の懐にある『母の鈴』が、かつてないほど熱く脈動し、脳内に直接、アイリスの低く冷徹な声を響かせた。
「……ッ、ガオ、ルナ! 前に出すぎるな! その『白』に触れれば、存在ごと消されるぞ!」
私は新装備『極光の魔導核』を全開にし、迫りくる『第三の筆』の波を、数千発の分割反転で押し返していた。
だが、その光の合間、私の意識は母の鈴が引きずり出す「過去の奔流」へと呑み込まれていく。
◇
二十数年前。そこは、神が描いた最高傑作と謳われた、花と光の聖都だった。
若き日のアイリスは、その類まれなる魔力と美貌から「白亜の聖女」と崇められ、誰もが彼女の祈りが世界を救うと信じて疑わなかった。
だが、その日は唐突に訪れた。
空に巨大な「虹色の筆」が現れた瞬間、聖都の色彩が、端から「消しゴム」で消されるように白紙へと還っていった。
「……あ、お父様? お母様……? どこ、どこへ行ったの……っ!」
少女だったアイリスの目の前で、家族も、友人も、咲き誇っていた花々も、血の一滴さえ流すことを許されず、ただの「描き損じ」として背景ごと消去されていく。
ジョシュアたち『神の筆』にとって、一国の滅亡など、キャンバスの汚れを拭き取る程度の作業に過ぎなかった。
「……美しくないね。描き直そうか」
空から降ってきたその声に、アイリスの中で何かが決定的に壊れた。
彼女は、世界を救うために与えられたはずの聖なる魔力を、その瞬間に自ら「腐らせた」。
反転。
神が「白(無)」にしようとするなら、自分は「黒(有)」として、この絶望を塗り潰してやる。
彼女は一人、廃墟となった真っ白な世界で、神への呪いだけを糧に生き延びた。そして、彼女の壊れた心を満たしたのは、後に宿した一つの命――レイ、貴方だけだった。
「……この子は、私のすべて。世界がこの子を消そうとするなら、私が世界を食いつぶす『楔』になって、この子を隠し通してみせる」
赤ん坊のレイが生まれた瞬間。
世界の理は、彼を「最大のエラー」として排除しようとした。
アイリスは迷わず、自らの魔力の大半をレイの心臓に「お釣り」として封じ込め、彼を「無能(透明な存在)」に偽装した。
彼女がレイを溺愛し、近づく女たちを「防虫剤」として遠ざけようとしたのは、単なる嫉妬ではない。
レイの因果が他者と混ざり合い、彼の「存在」が神のキャンバスに鮮やかに浮き出てしまうことを、彼女は何よりも恐れていたのだ。
――愛しているわ、レイ。世界中の誰よりも。
――だから、貴方を縛った。貴方を閉じ込めた。
――貴方が、あの虹色の筆に「見つからない」ように。
◇
ハッと意識が戻る。
視界には、真っ白な虚無を必死に押し留めているガオの背中と、魔剣を振るうルナの姿。
「……あ、あは……。……レイ、……視えたかしら? ……私の、……最低で最高な愛の形が」
鈴から漏れるアイリスの声は、いつもの「姑モード」とは違い、一人の脆い女性としての震えを帯びていた。
「……母さん。……あんた、……バカだな」
私は、魔導核を握りしめ、自分の中に流れる「お釣り」の熱を感じた。
それは呪いではなく、母が世界という絶望から私を守り抜くために、自らの魂を削って作り上げた「盾」だったのだ。
「……俺を隠すために、……あんたは一人で泥を啜ってきたのか。……だったら、……もう隠れるのは終わりだ」
私は一歩前へ出た。
『第三の筆』が放つ、すべてを無に還す白い濁流。
それを、私は逃げずに、真正面から受け止めた。
「…………制約を、……母さんの愛ごと、……食い破れ(オーバー・インヴァージョン)!!」
ドクンッ!!
心臓が爆発したかのような衝撃。
母から引き継いだ「反転」の因果が、私の怒りと共鳴し、真っ白な虚無を「漆黒の怒り」へと塗り替えていく。
一秒に一万発。分割された反転の光が、空間を白紙に戻そうとする神の意志を、逆に「実在の証明」という色で激しく染め上げた。
「……が、ああああああああっ!!」
『第三の筆』の核が、私の放つ極彩色の因果に耐えきれず、ひび割れ、砕け散る。
霊峰を覆っていた「無」が晴れ、再び岩肌と雪の色彩が戻ってくる。
「……レイ。……貴方、……本当に強くなったわね」
鈴の音が、どこか誇らしげに、そして少し寂しげに響く。
「……でも、忘れないで。……貴方を救うのは私。……貴方の隣に立つのは、……やっぱり私なんだからね」
「……はいはい。……わかってるよ、母さん」
私は、ボロボロになった仲間たちの元へ歩み寄った。
母の過去、神の残酷さ。そのすべてを知った今、私の『反転』は、ただのスキルを超えて、運命そのものを裏返す刃へと進化した。
北の霊峰に、朝焼けの赤い光が差し込む。
それは、母がかつて奪われた色彩が、再び世界に戻ってきた証のようだった。




