第三十二話:蒼氷の洗礼、姑(しゅうとめ)は見ていた
北の果て、雲を突き抜けてそびえ立つ霊峰『蒼氷の頂』。
そこは、通常の物理法則が凍結された、神の画室さえ干渉できないアイリスの絶対聖域だった。
一歩踏み込むごとに、吐き出す息が結晶となって地面に落ち、リタが錬成した魔法のヒーターが「ジジッ」と音を立てて機能を停止する。
この山が持つ『熱を奪う理』が、外部の魔導具を一切受け付けないのだ。
「……くっ、……この寒さ、……魔力回路が凍りつくみたいですわ……っ」
リタが肩を震わせ、自分の腕をさすりながら歩を進める。
ルナやガオも、それぞれの魔力を体表に薄く展開して体温を維持しているが、その表情には余裕がない。
「あら、この程度の寒さで音を上げるなんて。……修行が足りないわね、女の子たち」
私の懐にある『母の鈴』が、涼やかな音と共にアイリスの声を響かせた。
「レイ、貴方は『反転』を使いなさい。周囲の冷気を『熱源』に裏返し続ければ、凍えることはないわ。……でも、他の子たちを甘やかしてはダメよ? 自分の体温くらい、自力の魔力制御で何とかさせるのがアイリス流の『花嫁修業』……じゃなくて、生存訓練なんだから」
「……母さん、……無茶言わないでくれ。……みんな、……限界だ」
私は溜息をつき、一歩後ろで足取りが重くなっているリタの手を、手袋越しに強く握った。
「…………制約を、分割して……食い破れ」
極小の反転。リタの手の甲に流れる冷気の因果を、心地よい微熱へと反転させる。
「……あ、……あたたかい。……レイ様、……ありがとうございますわ……」
リタが顔を赤らめ、私の手に縋るように力を込める。
「チリンッ!! ……レイ? 今、リタさんの手を三秒以上握ったわね? それ以上の接触は『過剰なエネルギー供給』として減点対象よ。……あ、ヴィクトリア? 貴女、レイが他の子をケアしている隙に、背後から抱きつこうなんて考えていないわよね?」
「ひっ……! して、していない! 私は、……私はただ、貴公が転倒しないよう、……重心を観測していただけだ!」
最後尾を歩いていたヴィクトリアが、赤髪を振り乱して動揺を露わにする。
あの不敵な王女が、声だけの師匠にここまで翻弄される姿は、ある種の喜劇だった。
◇
深夜。私たちは、氷の壁に囲まれた小さな洞窟で野営を張った。
焚き火の火さえも、霊峰の冷気に押されて青白く、頼りなく揺れている。
「……主様。……見張り、……私が。……貴方は、……休んで」
ルナが、折れぬ魔剣を膝に置き、洞窟の入り口に背を向けて座る。
彼女の銀髪には、うっすらと霜が降りていた。
「無理をするな、ルナ。……交代だ」
俺が彼女の隣に座り、冷え切った彼女の肩に『深淵の魔導衣』の端をかけた。
ルナは一瞬、驚いたように目を見開き、それから小さく、本当に小さく私の肩に頭を預けた。
「……主様、……あたたかい。……このまま、……時が、……反転して、止まればいいのに」
「……チリンッ。……ルナ、聞こえているわよ? その発言は独占欲のランクがBからAに格上げね。……レイ、貴方も少し距離を離しなさい。……男女の適切な距離は、拳二つ分だと教えたはずよ?」
「……母さん、……今は深夜だ。……少しは寝かせてくれ」
「私は眠らないわよ。……貴方が、変な悪い虫に食べられないか、……こうしてずっと見守っているんだから」
アイリスの「小言」は止まらない。
だが、その声の端々に、息子を案じる……そして、彼を囲む少女たちが「本当にレイに相応しいかどうか」を厳しくも温かく見定める、姑としての歪な愛情が滲んでいた。
その時。
洞窟の外、吹雪の音に混じって、地響きのような重厚な足音が響いた。
「……来たわね。……アイリス様の『プレゼント』を守る、古の番人。……蒼氷の巨像だ」
ヴィクトリアが、瞬時に立ち上がり、黒い細剣を抜き放つ。
洞窟の入り口を塞ぐように現れたのは、高さ五メートルを超える、透過する氷の塊で構成された巨像だった。
その全身から放たれるのは、魔力そのものを「凍結」させる絶対零度の波動。
「……侵入者。……熱を、……因果を、……静止せよ」
巨像が腕を振るう。
ガオが義手で殴りかかろうとするが、彼女の周囲の空気が一瞬で「凍った壁」となり、拳が空中で静止させられる。物理的な氷ではない。時間の流れさえも凍りつかせるような、圧倒的な停滞。
「……あ、あんだよこれ!? 拳が動かねえ……っ!」
「……レイ! 凍らせるのがあいつの性質なら、……キミの『反転』で、その『静止』を『加速』に裏返して!」
セレナの叫び。
俺は、立ち上がり、右手に白黒の光を収束させた。
一秒に百発。分割された反転の連撃を、巨像の心臓部――アイリスの魔力が宿る核へと叩き込む。
「…………制約を、……加速へと、……食い破れ!!」
パキパキパキッ!!
凍りついていた空間が、私の反転によって「超振動」へと裏返り、巨像の肉体が内側から昇華(気化)し始める。
絶対の静寂が、一瞬にして爆発的な熱量へと反転し、霊峰の吹雪さえも蒸発させて吹き飛ばした。
巨像が崩れ落ち、その背後の壁が、音を立てて崩落する。
そこには、青白い光を放つ、見たこともないほど純粋な金属の塊が鎮座していた。
『神を貫く、原初の白銀』。
「あら、合格よ、レイ。……そして、ヴィクトリア。貴女も少しは主導権を握れるようになったかしらね」
鈴の声が、どこか満足げに響く。
「……さあ、受け取りなさい。……それは私が、貴方の……『王』としての門出に遺した、……世界で一番重いプレゼントよ」
私は、その冷たく、けれど確かな熱を秘めた白銀に、ゆっくりと手を伸ばした。




