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第三話:安息の宿と、刻まれる名

 視界の端が、ちりちりと焼けるように熱い。

 全身の血管から魔力が一滴残らず吸い出されたような、ひどい脱力感。視界は白く霞み、一歩踏み出すたびに膝が折れそうになる。

 これが『不文律の反転インヴァージョン』を放った後の代償。たった一回の奇跡と引き換えに、俺の体は次の夜明けまで、ただの人間以下の『抜け殻』へと成り下がる。


「……あ、……ぁ…………」


 隣で、私の袖を掴む指先に力がこもる。

 銀髪の少女――ルナが、生まれたての小鹿のように震える足取りで、必死に俺の歩調に合わせていた。

 先ほどまでの無機質な人形のような姿は、もうどこにもない。

 彼女の瞳は、街灯の魔法火を反射して激しく揺れ、周囲から聞こえてくる馬車の車輪の音や人々の話し声に、びくびくと肩を震わせている。


「……怖いか?」

 俺が掠れた声で問うと、ルナは弾かれたように俺を見上げた。

「お、とが……たくさん、します。いろが、目に、ささって……いたい、です。でも……」


 彼女は、俺の腕をさらに強く抱きしめた。

「……あなたの、体温おんどだけが。しずかで……いちばん、わかります」


 無理もない。十六年もの間、絶対的な虚無の中にいたのだ。

 反転によって得た『神速の直感』は、今まで遮断されていた世界の情報を、暴力的なまでの精度で彼女の脳に叩き込んでいるはずだ。

 俺は、彼女の頭を優しく撫でた。泥に汚れた髪は硬いが、その奥にある熱は、確かに一人の少女のそれだった。


「慣れるまでは、俺のそばを離れるな。……あぁ、そういえば、まだ名乗っていなかったな」


 俺は立ち止まり、薄暗い路地裏の光の中で、彼女と視線を合わせた。

「俺の名前は、レイだ。……お前を買った『主人』だが、それはあくまで建前だ。これからは、お前が望むなら俺の旅の連れになれ。……嫌なら、どこへでも行っていいんだぞ」


「れ、い……さま……」

 彼女は、その名前を噛みしめるように、何度も唇を動かした。

「……レイ様。私の、神様。……嫌です。離れたく、ありません。あなたがいない世界なら……また、あの中にいたほうが、ましです」


 必死な、縋るような告白。

 俺は苦笑し、「神様なんて器じゃない」とだけ返した。


 ◇


 俺たちは、街のメインストリートから少し外れた場所にある古着屋に立ち寄った。

 店内に漂う古い布と香料の匂いに、ルナはまた鼻をひくつかせて驚いている。

 俺は店主に銀貨を数枚放り投げ、彼女のサイズに合いそうな、丈夫な麻のシャツと厚手のスカート、そして深いフードの付いた外套を選んだ。


「これに着替えろ。ボロ布じゃ、夜風で風邪を引く」

 奥の試着室へ彼女を促すと、ルナは不安げに俺を見つめたが、俺が頷くと意を決したようにカーテンの奥へ消えた。


 数分後。

 カーテンが開いて現れたのは、見違えるほど凛とした姿の少女だった。

 角の付け根はフードで隠れ、清潔な服を着た彼女は、どこかの没落貴族の令嬢と言われても通じるほどの気品を漂わせている。

 ただ、その足元はまだおぼつかなく、新しい靴の感触を確かめるように、地面を一歩ずつ踏みしめている。


「……に…ぁって、いますか?」

「ああ。よく似合っている。……よし、次は飯だ」


 屋台で買った熱々の肉串を一本、ルナに差し出す。

 香ばしい脂の匂いが立ち昇る。ルナはそれを恐る恐る口に運んだ。

 一口。咀嚼した瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれ、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。


「……あつい、です。味が……します。……美味しい、って、こういうこと、なんですね」

「ああ。世界には、まだお前が知らない『美味いもの』が山ほどある。……それを一つずつ教えてやるのが、俺の次の仕事だ」


 俺は、彼女が食べ終わるのを待ってから、目的の場所へと向かった。

 路地裏の奥まった場所にある、一見すると古びた宿屋『静かなる銀貨亭』。

 ここはかつて、母さんと旅をしていた時に一度だけ使ったことがある場所だ。主人は口が堅く、客の素性を詮索しない。


「……一晩だ。二人部屋を」

 宿帳に、俺は迷わず二つの名前を並べて記した。

『レイ』、そして『ルナ』。


 部屋に入り、鍵をかける。

 その瞬間、緊張の糸が切れたように、俺はその場に崩れ落ちそうになった。

 壁に手をつき、荒い呼吸を整える。


「レイ様!?」

「……気にするな。ただの魔力切れだ。……明日、日が昇れば元に戻る」


 俺はベッドに這い上がり、仰向けに倒れ込んだ。

 天井の染みが、回るように揺れている。

 今の俺は、子供にだって殺されるほどに無防備だ。勇者パーティにいた頃は、常に誰かが俺を護衛(監視)していたが、今はもう、この少女しかいない。


「ルナ。……頼みがある」

 俺は、ベッドの脇に立ち尽くす彼女を見上げた。

「俺は、今から眠る。……死んだように眠るはずだ。その間、俺の身を守ってくれるか?……この街には、悪い奴らも多い。俺の『一回』はもう使い果たした。明日の朝までは、お前だけが頼りだ」


 ルナの表情が、一瞬で引き締まった。

 その瞳に宿ったのは、奴隷としての服従ではなく、大切なものを守り抜こうとする戦士の光だった。


「はい。……私の、全感覚を、全生命を賭けて。あなたの安眠を、私が守ります」


 彼女は靴を脱ぐと、ベッドのすぐ横の床に座り込んだ。

 俺が「ベッドで寝ろ」と言っても、彼女は頑として聞き入れなかった。

 俺の手をそっと握り、その温もりを確認しながら、彼女は部屋の入り口と窓を、鋭い視線で見つめ続けている。


「……なら、おやすみ。……ルナ」

「おやすみなさい。……レイ様。……素敵な夢を、見てください」


 意識が急速に遠のいていく。

 最後に感じたのは、自分の右手を優しく、けれど絶対に離さないという意志で握りしめる、少女の小さな手の感触だった。


 十六年の闇を越えた少女と、その闇を食いつぶした男。

 二人の本当の旅は、この静かな夜から、ようやく始まろうとしていた。


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