第二十三話:塗り潰される世界、落書きの勇者
――ピチャリ。
静まり返った『エリュシオン』の玉座の間に、場違いな水音が響いた。
それは、完成された絵画の上に、誰かが筆を落とした時のような、無機質で冒涜的な音だった。
「……あ、あぁ……っ。……聖なる、……光が……」
床に這いつくばった教皇が、信じられないものを見るように自分の手を見つめていた。
レイの二連発によって浄化され、一人の老人に戻ったはずの彼の体。その中央に、突如として『虹色の線』が走り抜けたのだ。
それは斬撃ではない。
まるで、キャンバスに描かれたデッサンを、鋭いナイフで切り裂いたような平面的な「亀裂」。
「……色が濁っているね。……私の作品に、こんな薄汚れたグレーは必要ないんだ」
天井の抜けた空から、一人の青年がゆっくりと降りてきた。
透き通るような金髪をなびかせ、虹色に輝く瞳を持つ、浮世離れした美青年。
その手には、身の丈を超える巨大な銀の筆――『第一の筆』ジョシュアが、退屈そうに首を傾げている。
「な……っ!? お前、何をした……っ!」
俺が叫ぶのと同時に、教皇の体がその虹色の線に沿って左右に分断された。
だが、血は流れなかった。
切り口から溢れ出したのは、ドロドロとした色とりどりの『絵の具』。
教皇という一人の人間が、描き損じた下書きが水に溶けるように、そのまま床へと崩れ落ち、原色混じりの泥となって消滅した。
「……消えた……? 反転すら、……させてくれなかった。……存在そのものを、……上から塗り潰したの……?」
リタが、見たこともない恐怖に顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら俺の服を掴んだ。
「……逃げて、レイ! ……あれは神の手先じゃない! ……この世界を『描いている』側の存在……! 因果の流れを、物理的に『消しゴム』で消してくる……!」
セレナが紺碧の瞳を激しく明滅させ、絶望を予言する。
「……ノイズ(レイ)、君のことだよ。……その不格好な反転、デッサンが狂いすぎている。……描き直すのも面倒だから、いっそ塗り潰してあげようか」
ジョシュアが、虚空に巨大な筆を走らせた。
「旦那に指一本触れさせねえよ!」
ガオが、爆発的な踏み込みでジョシュアの顔面に剛拳を叩き込もうとした。
だが、ジョシュアが筆先をわずかに動かした瞬間。
「……不合理だ。……質量が、空間を越えようとするなんて」
ガオの右腕が、まるで紙の上に描かれた絵のように「平面的」に引き伸ばされ、そのまま消しゴムで消されたかのように、肘から先が虚空へと消え去った。
「あ、が……っ!? アタイの……アタイの腕が……!? 感覚が……ねえ……っ!」
「……君というキャラクターの設定を、少し削っておいたよ。……その方が、画面のバランスがいい」
「……この、化け物が……っ!」
ルナが神速の一閃を放つ。
だが、ジョシュアはその魔剣の軌道を、筆先で「描き変えた」。
ルナの剣がジョシュアの首に届く直前、まるで子供の落書きのようにぐにゃりと曲がり、リタが精魂込めて錬成した魔剣が、ただの「曲がった鉄条」へと成り果てた。
「……私の錬成が、……概念から上書きされている……!? ……あ、あああああっ!」
リタが、自分の魔力回路がジョシュアの「ノイズ」によって塗り潰される感覚に、吐血して崩れ落ちた。
俺は、二連発を使い切った後の、魂を削り取られたような虚脱感に抗いながら、ジョシュアを睨みつけた。
反転が効かない。
俺のスキルは「既にある色を裏返す」ものだが、こいつは「上から別の色を塗り潰す」権能。
「……さて。下書きからやり直そうか。……まずは、この邪魔な足場からだ」
ジョシュアが筆を大きく一閃させ、聖域の床に巨大な「×」を描いた。
ガガガガガッ!!
耳を裂くような、キャンバスをナイフで裂く音が響く。
天空に浮いていた巨大な聖域そのものが、浮遊の法則を「消去」され、王都を目指して墜落を始めた。
「……しまっ……っ! 聖域が、街に落ちる……!」
俺は、墜落の激しい風圧に煽られながら、眼下に広がる王都を見た。
数万の民が、俺が救ったあの場所が、一瞬で瓦礫の下に消える。
「……今は、こいつを倒すことより……俺たちの『居場所』を守るのが先だ!」
俺は、背中から溢れ出す残りの全魔力を、反転ではなく「保護」に全振りした。
落下する聖域の破片を、そして自分たちを抱えるように翼を広げる。
「…………制約を食い破れ(俺たちを消させはしない)!」
俺はルナ、リタ、セレナ、フィオナを、そして腕を失ったガオを強引に抱き寄せ、崩落する瓦礫の雨の中を突き進んだ。
ジョシュアの放つ虹色のインクが、俺の翼をじわじわと塗り潰していくが、俺は止まらなかった。
「……逃げるのかい? いいよ。……キャンバスを燃やすのは、また今度にするから。……精々、下書きとしての生を全うするといい」
ジョシュアの虹色の瞳が、俺たちの離脱を退屈そうに見送った。
◇
王都シュトラールの中央広場。
かつての栄華を誇った場所は、天空から降り注いだ瓦礫によって、巨大な墓標の立ち並ぶ荒野へと変わっていた。
俺は、瓦礫の山の上に、膝をついた。
視界が真っ白に染まり、体中の魔力回路が焼け付いている。
「……旦那、……すまねえ。……アタイ、……役に立たなかった……」
ガオが、右腕の欠損部を抱え、涙を流しながら笑った。
ルナの魔剣は半ばから折れ、リタの瞳からは絶望が消え去っていなかった。
初めての、完全な敗北。
これまで「反転」でどんな絶望もひっくり返してきた俺たちが、初めて「変えられない現実(上書き)」に叩きのめされたのだ。
「……気にするな。……俺が、……俺の力が、足りなかっただけだ」
俺は、折れた剣を、消えた腕を、そして仲間の震える手を、一人ずつ強く握りしめた。
ジョシュアの使っている「絵の具」。
あれは、この世界の既存の法則を無視した、上位存在の意志そのもの。
それに対抗するには、因果を百回、千回と塗り替えるほどの、圧倒的な『反転』。
そして、描き変えられない「真実の素材」が必要だ。
「……セレナ。……教えてくれ。……あの芸術家の筆を折るための、……次なる絶望はどこにある」
「……東の果て。……死を禁じられ、終われない苦痛の中で腐敗を続ける『不死の国』。……そこに、お母様が最後に託した、……世界を白紙から描き直すための『真の黒』があるよ」
俺は、ボロボロになった仲間たちの顔を見つめ、静かに立ち上がった。
敗北は、次なる進化への「下書き」に過ぎない。
追放された一発屋の物語は、今、世界の描き変え手へと至るための、過酷な修行と素材集めの旅へとその姿を変えた。
俺は、俺の『今日』を、次の絶望へと捧げるために。
再び、歩み出した。




