表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/53

第二話:初めて触れる世界、初めて振るう力


 全てが、解けていくようだった。


 それまで、私の世界には何もなかった。

 色はなく、音はなく、匂いもなく、温度もなかった。

 自分が生きているのか、死んでいるのかすら分からない。ただ底のない漆黒の海に、独りきりで沈み続けているような感覚。それが私の『全感覚喪失』という呪いだった。


 けれど、その手が触れた瞬間。

 どろりと停滞していた私の闇を、誰かが強引に、けれど優しく食いつぶしたのだ。


「あ……っ、が……」


 喉の奥から、自分でも驚くような震えた声が漏れた。

 最初に訪れたのは、暴力的なまでの『光』だった。

 沈みゆく夕陽の、燃えるような朱色。空の深い青。そして、目の前にいる男の、夜よりも深い黒い瞳。

 次に訪れたのは、情報の嵐――『音』だ。

 ざわざわと揺れる草木のざわめき。遠くで鳴く鳥の鋭い声。そして、目の前の男が吐き出す、熱い吐息の音。


「……見える、か?」


 男の声が、鼓膜を震わせる。

 それが『言葉』であると理解するのに、数秒を要した。

 生まれて初めて感じる『感覚』という名の激流に、私の脳は悲鳴を上げていた。けれど、それ以上に心が、震えていた。


「あたた……かい……」


 頬に添えられた、男の手。

 そこから伝わる確かな体温。それが、この冷酷な世界で唯一の、救いのように感じられた。

 私の目から、熱い液体が溢れ出す。それが『涙』であることを、私は本能で悟った。


「……成功、だな」


 男――レイは、安堵したように口角を上げた。

 だが、その顔は酷く青白い。全身の力が抜けたように、彼はその場に膝をついた。

 一日に一度きりのスキル。彼はその全てを、縁もゆかりもないはずの私を救うために使い切ったのだ。


「おいおい、何だぁ? その光はよ。ただの欠陥品じゃなかったのか?」


 不快な、濁った声が響いた。

 振り返ると、そこには私を売ったはずの奴隷商人が、三人の屈強な男たちを連れて立っていた。

 男たちは皆、腰に抜き身の剣を帯び、下卑た笑みを浮かべてこちらを値踏みしている。


「驚いたぜ。あの死にかけの魔族が、こんなに綺麗な顔を隠してたとはな。おまけにあの光……。何かとんでもねえ『当たり』を引いちまったみたいだ」

「……商人。取引は、済んだはずだ」


 レイが震える声で告げる。彼は立つのもやっとの状態だ。魔力枯渇による衰弱は、私の目から見ても明らかだった。


「取引ぃ? ああ、そうだったな。だがよぉ、兄ちゃん。お前が払った金貨、あれ、よく見たら偽物が混じってたんだわ。これは契約不履行だ。その女は返してもらうぜ。……あぁ、もちろん、抵抗するならそこの兄ちゃんは斬り捨てて構わねえぞ?」


 商人の合図で、三人の傭兵たちが一歩、前へ踏み出す。

 彼らから放たれる『殺気』が、肌を刺す。

 昨日までの私なら、その殺意に気づくことすらできずに死んでいただろう。


 だが、今は違う。

 レイが私の『喪失マイナス』を食いつぶしたことで、私の感覚は『反転』していた。

 何も感じない(ゼロ)の反対。それは、全てを過剰なまでに感じ取る(極点)。


 空気が震える。

 男たちが地面を蹴る筋肉の動き。

 肺に吸い込まれる酸素の量。

 剣の重心がどこにあるのか。

 彼らが次にどこを狙い、どの程度の速さで動くのか。

 その全てが、スローモーションのように脳内に流れ込んでくる。


(……この人たちが、主様を傷つけようとしている)


 胸の奥で、冷たい怒りが火を噴いた。

 初めてもらった温もり。初めて見た光。それを奪おうとする存在を、私は許さない。


「おい、大人しく――がはっ!?」


 一番近くにいた傭兵が、言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。

 私がいつ動いたのか、誰も気づかなかったはずだ。

 私は一歩。ただ、最短距離で踏み込み、男の顎を下から掌底で突き上げた。


 脳を揺らされた男が、白目を剥いて崩れ落ちる。

 魔族としての強靭な身体能力に、反転した『神速の直感』が加わった私の動きは、常人の目を遥かに凌駕していた。


「な、なんだ!? このアマ、動けるのか!?」

「くそっ、囲め! ぶちのめせ!」


 残りの二人が左右から剣を振るう。

 横薙ぎの一閃と、上段からの唐竹割り。

 だが、私には止まって見えた。


 右の男の剣筋を、首をわずかに傾けて回避。

 左の男の刺突を、半身でかわしながらその手首を掴む。

 そのまま、男の力を利用して投げ飛ばし、二人を衝突させた。


「ぎゃあぁっ!」

「ぐふっ……」


 骨が折れる鈍い音が響き、傭兵たちは地面に転がった。

 一分も経っていない。

 武器すら持たない、ボロ布を纏っただけの少女に、三人のプロの傭兵が沈められたのだ。


「ひ、ひぃぃっ! ば、化け物かよ!」


 奴隷商人が腰を抜かし、無様に地面を這いずる。

 私は音もなく、その商人の背後に回った。

 泥に汚れた足先が、商人の視界に入る。


「……主様に、触れるな。……次、その汚い口を開いたら、喉を裂く」


 私の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。

 商人は短い悲鳴を上げると、這うようにして街の方へと逃げ出していった。


 静寂が、丘を包み込む。

 荒い息を吐きながら、私はレイの方を振り向いた。

 彼は驚いたように、けれどどこか満足そうに、私を見つめていた。


「主、様……。私は……」


 自分の名前を、彼が呼んでくれた。

 その響きだけで、胸が締め付けられるように熱くなる。

 私は彼に歩み寄り、崩れ落ちそうになったその体を、しっかりと抱きとめた。


「あたたかいです。主様。……風の音も、空の色も、あなたの声も。全部、あなたが私にくれたものです」

「ああ。……でも、無理はするなよ。俺は、もう寝る……」


 レイはそう呟くと、私の腕の中で安らかな寝息を立て始めた。

 一日の全てを使い果たした反動だろう。

 私は彼の頭を自分の膝に乗せ、その穏やかな寝顔をじっと見つめ続けた。


 これまで、私の世界には何もなかった。

 けれど、これからは違う。

 私の鋭敏すぎるこの感覚は、全て、この人を守るためにある。


「……おやすみなさい、私の主様。明日も、明後日も、私があなたの『目』になり、『剣』になります」


 沈みきった太陽に代わり、夜空には無数の星が瞬き始めていた。

 ルナはその美しい光を、初めてその目に焼き付けながら、主を守るように強く抱きしめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ