第二話:初めて触れる世界、初めて振るう力
全てが、解けていくようだった。
それまで、私の世界には何もなかった。
色はなく、音はなく、匂いもなく、温度もなかった。
自分が生きているのか、死んでいるのかすら分からない。ただ底のない漆黒の海に、独りきりで沈み続けているような感覚。それが私の『全感覚喪失』という呪いだった。
けれど、その手が触れた瞬間。
どろりと停滞していた私の闇を、誰かが強引に、けれど優しく食いつぶしたのだ。
「あ……っ、が……」
喉の奥から、自分でも驚くような震えた声が漏れた。
最初に訪れたのは、暴力的なまでの『光』だった。
沈みゆく夕陽の、燃えるような朱色。空の深い青。そして、目の前にいる男の、夜よりも深い黒い瞳。
次に訪れたのは、情報の嵐――『音』だ。
ざわざわと揺れる草木のざわめき。遠くで鳴く鳥の鋭い声。そして、目の前の男が吐き出す、熱い吐息の音。
「……見える、か?」
男の声が、鼓膜を震わせる。
それが『言葉』であると理解するのに、数秒を要した。
生まれて初めて感じる『感覚』という名の激流に、私の脳は悲鳴を上げていた。けれど、それ以上に心が、震えていた。
「あたた……かい……」
頬に添えられた、男の手。
そこから伝わる確かな体温。それが、この冷酷な世界で唯一の、救いのように感じられた。
私の目から、熱い液体が溢れ出す。それが『涙』であることを、私は本能で悟った。
「……成功、だな」
男――レイは、安堵したように口角を上げた。
だが、その顔は酷く青白い。全身の力が抜けたように、彼はその場に膝をついた。
一日に一度きりのスキル。彼はその全てを、縁もゆかりもないはずの私を救うために使い切ったのだ。
「おいおい、何だぁ? その光はよ。ただの欠陥品じゃなかったのか?」
不快な、濁った声が響いた。
振り返ると、そこには私を売ったはずの奴隷商人が、三人の屈強な男たちを連れて立っていた。
男たちは皆、腰に抜き身の剣を帯び、下卑た笑みを浮かべてこちらを値踏みしている。
「驚いたぜ。あの死にかけの魔族が、こんなに綺麗な顔を隠してたとはな。おまけにあの光……。何かとんでもねえ『当たり』を引いちまったみたいだ」
「……商人。取引は、済んだはずだ」
レイが震える声で告げる。彼は立つのもやっとの状態だ。魔力枯渇による衰弱は、私の目から見ても明らかだった。
「取引ぃ? ああ、そうだったな。だがよぉ、兄ちゃん。お前が払った金貨、あれ、よく見たら偽物が混じってたんだわ。これは契約不履行だ。その女は返してもらうぜ。……あぁ、もちろん、抵抗するならそこの兄ちゃんは斬り捨てて構わねえぞ?」
商人の合図で、三人の傭兵たちが一歩、前へ踏み出す。
彼らから放たれる『殺気』が、肌を刺す。
昨日までの私なら、その殺意に気づくことすらできずに死んでいただろう。
だが、今は違う。
レイが私の『喪失』を食いつぶしたことで、私の感覚は『反転』していた。
何も感じない(ゼロ)の反対。それは、全てを過剰なまでに感じ取る(極点)。
空気が震える。
男たちが地面を蹴る筋肉の動き。
肺に吸い込まれる酸素の量。
剣の重心がどこにあるのか。
彼らが次にどこを狙い、どの程度の速さで動くのか。
その全てが、スローモーションのように脳内に流れ込んでくる。
(……この人たちが、主様を傷つけようとしている)
胸の奥で、冷たい怒りが火を噴いた。
初めてもらった温もり。初めて見た光。それを奪おうとする存在を、私は許さない。
「おい、大人しく――がはっ!?」
一番近くにいた傭兵が、言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
私がいつ動いたのか、誰も気づかなかったはずだ。
私は一歩。ただ、最短距離で踏み込み、男の顎を下から掌底で突き上げた。
脳を揺らされた男が、白目を剥いて崩れ落ちる。
魔族としての強靭な身体能力に、反転した『神速の直感』が加わった私の動きは、常人の目を遥かに凌駕していた。
「な、なんだ!? このアマ、動けるのか!?」
「くそっ、囲め! ぶちのめせ!」
残りの二人が左右から剣を振るう。
横薙ぎの一閃と、上段からの唐竹割り。
だが、私には止まって見えた。
右の男の剣筋を、首をわずかに傾けて回避。
左の男の刺突を、半身でかわしながらその手首を掴む。
そのまま、男の力を利用して投げ飛ばし、二人を衝突させた。
「ぎゃあぁっ!」
「ぐふっ……」
骨が折れる鈍い音が響き、傭兵たちは地面に転がった。
一分も経っていない。
武器すら持たない、ボロ布を纏っただけの少女に、三人のプロの傭兵が沈められたのだ。
「ひ、ひぃぃっ! ば、化け物かよ!」
奴隷商人が腰を抜かし、無様に地面を這いずる。
私は音もなく、その商人の背後に回った。
泥に汚れた足先が、商人の視界に入る。
「……主様に、触れるな。……次、その汚い口を開いたら、喉を裂く」
私の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。
商人は短い悲鳴を上げると、這うようにして街の方へと逃げ出していった。
静寂が、丘を包み込む。
荒い息を吐きながら、私はレイの方を振り向いた。
彼は驚いたように、けれどどこか満足そうに、私を見つめていた。
「主、様……。私は……」
自分の名前を、彼が呼んでくれた。
その響きだけで、胸が締め付けられるように熱くなる。
私は彼に歩み寄り、崩れ落ちそうになったその体を、しっかりと抱きとめた。
「あたたかいです。主様。……風の音も、空の色も、あなたの声も。全部、あなたが私にくれたものです」
「ああ。……でも、無理はするなよ。俺は、もう寝る……」
レイはそう呟くと、私の腕の中で安らかな寝息を立て始めた。
一日の全てを使い果たした反動だろう。
私は彼の頭を自分の膝に乗せ、その穏やかな寝顔をじっと見つめ続けた。
これまで、私の世界には何もなかった。
けれど、これからは違う。
私の鋭敏すぎるこの感覚は、全て、この人を守るためにある。
「……おやすみなさい、私の主様。明日も、明後日も、私があなたの『目』になり、『剣』になります」
沈みきった太陽に代わり、夜空には無数の星が瞬き始めていた。
ルナはその美しい光を、初めてその目に焼き付けながら、主を守るように強く抱きしめた。




