第十七話:二重反転(ダブル・インヴァージョン)、福音の産声
――ガキィィィィィィィィィィンッ!!
耳障りな、概念が軋む音が聖堂内に響き渡った。
私の右手がフィオナの喉元の『神の封印』に触れた瞬間、放たれた第一撃の白黒の光。それは確かに呪いの鎖を粉砕したはずだった。
だが、次の瞬間。
砕け散ったはずの漆黒の破片が、まるで意志を持つ生き物のように蠢き、さらに禍々しい茨となってフィオナの細い喉を締め上げ始めた。
「……ッ、が……あ……っ!」
フィオナの口から、鮮血が溢れる。
喉元の刻印から噴き出した漆黒の雷が、私の右手の肉を焼き、骨を削る激痛となって襲いかかった。
「……無駄だよ、レイ。……それは『神の排水溝』だ」
背後で、セレナが悲痛な声を上げた。彼女の紺碧の瞳には、絶望的な因果の奔流が映っている。
「……その呪いは、世界中の汚れを一点に流し込むための理そのものなんだ。……消すことは許されない。……消せば、溢れ出した汚れが世界を飲み込む。……世界が、全力でキミを拒絶しているんだ!」
神罰の雷が聖堂を荒れ狂い、ルナやガオ、リタさえも近寄らせないほどの拒絶の結界を形成する。
「うるせえ……っ! 世界がどうなろうと知ったことか!」
俺は、焼ける右手の痛みに耐え、さらに深くフィオナの喉元へ指を食い込ませた。
視界が赤く染まる。魔力回路が悲鳴を上げ、全身の血管が破裂しそうなほどの圧力がかかる。
一撃では足りない。世界の重みを、神の定めた悲劇の脚本を、たった一回で書き換えるには、まだ俺の『今日』は軽すぎたのか。
「……あ、あぁ……。レ、イ……さま……。……に、にげて……」
声にならない、フィオナの震える唇がそう動いた。
自分を犠牲にして、俺を助けようとする。その、あまりにも「正解」すぎる聖女の献身が、俺の逆鱗に触れた。
「……ふざけるな。……お前が死ぬのが『正解』だって言うなら……。そんな正解を書き残した神様ごと、俺がここで食いつぶしてやるよ」
俺は、心の奥底で眠る「二つ目」の鼓動を叩き起こした。
ドクンッ!!
心臓が爆発したかのような衝撃。一日一回。手に入れた二度目の奇跡。
全身の毛穴から、黄金と漆黒の魔力が炎となって噴き出し、聖堂の屋根を吹き飛ばして砂漠の夜空へと突き抜けた。
「…………制約を食い破れ!」
俺は、剥き出しになった心臓を叩きつけるように、二撃目の魔力を右手に凝縮させた。
第一撃で「ひび割れた概念」の隙間に、二撃目で「正反対の属性」を流し込み、因果の歯車を無理やり逆回転させる。
「――『不文律の反転』、第二撃!!」
ドォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!
砂漠の夜を、太陽よりも眩い「無色の光」が完全に消し去った。
神の封印が、世界の理が、悲鳴を上げて崩壊していく。
フィオナの喉を縛っていた漆黒の茨は、その光に飲み込まれ、一瞬にして純白の羽へと反転し、砂漠の風に溶けて消えた。
◇
静寂。
吹き荒れていた砂嵐が、嘘のように止んでいた。
壊れた聖堂の天井からは、降り注ぐような満天の星空が見える。
俺は、膝をつき、肩で息をしていた。
二連発の代償。全身の魔力だけでなく、魂の芯まで使い果たしたような、強烈な虚脱感。
「……ぁ、……あぁ……」
祭壇の上。
自由になった喉を、信じられないというように触っている少女がいた。
フィオナが、ゆっくりと口を開く。
これまでの「死の悲鳴」ではない。
これまでの「絶望の葬送曲」ではない。
「――ぁ、ああ……。……ああああ……っ」
彼女の喉から溢れ出したのは、聴く者すべての細胞を活性化させ、魂の汚れを洗い流すような、至高の音色。
スキルの反転。『呪歌の触媒』――その正体は、世界の汚れを浄化し、仲間に無限の力を与える**『福音の共鳴』**だった。
彼女が歌い出した瞬間。
ボロボロだった俺の右手の火傷が、瞬時に癒えていく。
ルナの魔剣が太陽のような輝きを増し、ガオの筋肉がさらなる剛力を宿し、リタの魔力回路が倍以上に拡張される。
最強の「支援」の誕生。
「……レイ様。……レイ様……っ!」
フィオナが祭壇から飛び降り、俺の胸に体ごとぶつかってきた。
その瞳には、かつての絶望は欠片もなく、ただ一人の男への、狂おしいほどの情愛と崇拝だけが宿っていた。
「……私の、音を。……誰も、拾ってくれなかった、私の悲鳴を。……あなたが、……あなたが、拾ってくれたのですね……っ!」
彼女は俺の首に腕を回し、子供のように泣きじゃくりながら、何度も何度も俺の名前を呼んだ。
「……はは。……いい声、だな。……フィオナ」
俺は、彼女の背中に手を回し、その震えを鎮めるように抱きしめた。
「……ちょっと。……離れなさいな、泥棒猫さん」
リタが、額に青筋を立てて歩み寄ってくる。
「……主様を、独占しすぎ。……次は私の番」
ルナも、魔剣を鞘に収めながら、冷ややかな、けれど確かな嫉妬を瞳に宿していた。
「旦那! アタイを差し置いて、そんなに密着するなんてズルいぜ!」
ガオも、大きな尻尾をぶんぶんと振り回して割り込んでくる。
砂漠の聖堂。
神の理を破壊した直後の場所で、俺は四人の……いや、五人の最強の少女たちに囲まれていた。
俺の『二撃』が変えたのは、彼女の喉だけではない。
世界という名の残酷な脚本そのものを、俺は今、完全に書き換えたのだ。
西の砂漠に、初めて「本当の夜明け」が訪れようとしていた。




