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第十三話:星読みの塔と、白亜の記憶

 北の最果て。そこは、神が色を塗り忘れたかのような灰色の世界だった。

 一年中晴れることのない『忘却の霧』が立ち込め、一歩足を踏み入れれば方向感覚は狂い、音は吸い込まれ、ただ己の心臓の鼓動だけが不気味に耳元で鳴り響く。


「……レイ様。この霧、ただの自然現象ではありません。魔力の残滓が、意志を持って私たちを遠ざけようとしています」

 ルナが魔剣の柄に手をかけ、銀色の瞳を細めて周囲を警戒した。

 彼女の『神速の直感』をもってしても、この霧の奥を見通すことは叶わないらしい。


「ああ。……だが、俺には道が見える。いや、この外套が教えてくれているんだ」

 俺は、リタが錬成した『深淵の魔導衣アビス・ケープ』の裾が、微かに一定の方向へ向かって棚引いているのに気づいていた。

 この外套に織り込まれた母アイリスの魔力が、北の果てにある「何か」と共鳴している。


(……レイ。いつか、私がお前に預けた『お釣り』を返してもらう時が来る。その時は、北の空に輝く一筋の導きを追いなさい)


 幼い頃、母さんが優しく俺の髪を撫でながら語った言葉。

 当時は意味が分からなかった。だが、勇者パーティを追放され、多くの「絶望」を食いつぶしてきた今の俺には分かる。

 母さんは、俺がこの場所に来ることを……この呪いの真実と向き合う日が来ることを、予見していたのだ。


「……見えましたわ。霧の向こう側に、巨大な影が」

 リタが指差す先。

 唐突に霧が晴れ、天を突くような黒い石造りの塔が姿を現した。

 窓一つない不気味な円筒。その入り口、古びた石段の上に、一人の少女が座っていた。


 漆黒のベールで両目を覆い、星空を模した深い紺色のドレスを纏った小さな影。

 彼女は、俺たちが近づいても身じろぎ一つせず、ただ虚空を見つめるようにして唇を開いた。


「……待っていたよ、アイリスの息子。キミがここに来るまで、僕の時計は止まったままだった」


 無機質で、けれど透き通るような鈴の音。

 ガオが喉を鳴らして威嚇し、一歩前へ出る。

「あんだ、このちっこいのは。……アタイらの旦那を知ってるのかよ」


「……虎の娘、無駄だよ。僕にはキミたちの『死の分岐点』が見えている。……キミが右から跳べば、僕は左へ避ける。僕を傷つけることは、誰にもできない」

 少女――セレナは、視界を塞がれたまま、正確にガオの動きを予知するように首を傾げた。


「……セレナ、といったか。母さんから、何を聞いている」

 俺が歩み寄ると、セレナはゆっくりと立ち上がった。

 その背丈は俺の胸ほどもなく、肌は不気味なほど白く透き通っている。


「……アイリスは、僕から『光』を奪った。世界の破滅という巨大なデバフを食い止めるために、僕の視力を代償にして、この塔に因果を固定したんだ。……僕はその日から、キミという唯一のイレギュラーが来るのを、数十年もこの暗闇の中で待ち続けていた」


 彼女の言葉に、俺は息を呑んだ。

 母さんは聖女として世界を救うために、この少女の目を潰し、孤独という地獄に突き落としたというのか。

 

「……だから、キミは僕を救わなきゃいけない。アイリスが奪ったものを、その息子であるキミが返すべきだ」

 セレナが、震える小さな手を俺の方へと伸ばした。

 その指先は冷たく、長すぎる孤独の重みが伝わってくるようだった。


「……分かった。母さんの借りは、俺が返す。……お前の目に、世界の色を戻してやるよ」


 ◇


 俺たちは塔の最上階へと登った。

 天井がなく、唯一この霧の森で「本当の星空」が覗ける場所。

 

 俺はセレナの前に立ち、彼女の黒いベールに手をかけた。

 ゆっくりと布が滑り落ち、露わになったのは、焦点の合わない、真珠のように白濁した両目だった。

 強大すぎる魔力の代償。光を完全に失った『マイナス100』の瞳。


「……キミに、視えるのかい? 僕が今、見ている真っ暗な地獄が」

「ああ。……だから、食いつぶし甲斐がある」


 俺は彼女の両目に、そっと自分の手のひらを重ねた。

 今日という日の、たった一度きりの奇跡。

 母さんの記憶と、セレナの絶望。その二つが交差するこの場所で、俺の魔力がかつてないほど激しく脈動する。


「……お前の見る暗闇を、俺が全部食いつぶしてやる」


 ――『不文律の反転インヴァージョン』、発動。


 白と黒の閃光が、塔の頂上から天に向かって突き抜けた。

 霧が引き裂かれ、星々の光がセレナの瞳に直接降り注ぐ。

 

 光の喪失は、因果の視認へ。

 閉ざされた暗闇は、すべての未来を見通す真眼へ。

 

 バキリ、と。

 俺の体の中で、何かが砕ける音がした。

 母さんから預かっていた『お釣り』――俺の魔力回路を縛っていた重石が、セレナの瞳が開くのと同時に、その半分以上が霧散していく。


「……ぁ、……あぁ……っ!」

 

 セレナが、俺の腕の中で大きく目を見開いた。

 白濁していた瞳が、深い紺碧の色へと染まり、その中に無数の星が瞬いている。

 

 彼女は初めて見る「光」に怯えることなく、食い入るように俺の顔を見つめた。

 そして、その直後。

 彼女の表情が、驚愕と恐怖に塗りつぶされた。


「……視える。……キミ、なんて……なんて恐ろしいものを抱えているんだ」

「……セレナ?」


 セレナは俺の胸元を掴み、喉を震わせた。

「……キミの体の中、心臓のすぐ隣に……お母様を……アイリスを殺そうとしている『真の呪い』が……今も脈打っている……!」


「な……んだと?」


 反転した彼女の瞳が見ているのは、物理的な姿ではない。

 俺の存在に深く根付いた、世界の理そのものの歪み。

 

「……アイリスは、自分を殺すはずだった『神の裁定』を、キミの中に隠したんだ。……キミがヒロインたちを救うたびに、その裁定が解けていく。……キミが……キミが完全な力を取り戻した時……世界は、キミを『敵』と見なして滅ぼしに来る!」


 セレナの予言が、静寂の塔に響き渡った。

 ルナ、リタ、ガオ。三人の少女たちが、言葉を失って俺を見つめる。

 

 救済の果てにあるのは、世界からの宣戦布告。

 母さんが俺にこの力を託した、本当の、そして残酷な理由。


「……面白い。世界が俺を殺しに来るというのなら。……その運命ごと、俺が『反転』させてやるよ」


 俺は、震えるセレナを抱き寄せ、不敵に笑った。

 一撃にすべてを懸ける反転者の旅は、ここから神との戦争へと、その姿を変えようとしていた。


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