第十二話:勇者の末路、泥を啜る誇り
宿場町の一角にある高級宿『琥珀の蹄亭』。
朝の柔らかな光が差し込むサロンでは、優雅な朝食の時間が流れていた。
「……旦那、このスープ、アタイの田舎の味にちょっと似てるぜ。……あたたかくて、力が湧いてくるよ」
ガオが大きなスプーンを口に運び、満足げに喉を鳴らした。
リタが昨夜、彼女のボロボロの服を分解し、新しく錬成した黒い革の軽装が、彼女のしなやかな肢体をより野生的に引き立てている。
「ガオさん。……音を立てて食べるのはお行儀が悪いですわよ。……レイ様、お代わりはいかが? この領地の特産である果実のジュースも冷えていますわ」
リタが、自分の分を差し置くようにして甲斐甲斐しく世話を焼く。
「……主様。パン、千切っておいた。……食べて」
ルナが、俺の左腕を離さぬまま、小さく千切ったパンを俺の口元に運んでくる。
最強の剣、至高の盾、そして爆絶の剛拳。
三人の美女たちに囲まれ、俺は静かにコーヒーを啜っていた。
昨日、ガオを救うために『一回』を使い果たした俺の体は、まだわずかに魔力の渇きを覚えているが、この穏やかな時間がそれを癒やしてくれていた。
――ガタッ。
その静寂を破る、不快な音がサロンの入り口で響いた。
「……っ、ハァ……ハァ……っ!」
異臭。
血と泥、そして腐敗した魔力が混ざり合った、この場に相応しくない最悪の匂いが漂ってくる。
這いずるようにして入ってきたのは、かつて俺を「無能」と呼び、誇り高く旅を続けていたはずの勇者パーティ『光の凱旋』の残骸だった。
戦士ガイルの右腕は、魔毒の浸食によってどす黒く変色し、もはや感覚を失っているのか、だらりと力なく垂れ下がっている。
聖女クララは、その美しい面影をどこへ捨てたのか、虚ろな瞳で「レイ……レイ……」と、壊れた機械のように俺の名を呟き続けていた。
そして、先頭に立つ勇者ゼクス。
彼の腰にぶら下がっているのは、折れて錆び果てた聖剣『アスカロン』の残骸だ。
「……レ、レイ……っ!」
ゼクスが、震える足で俺のテーブルへと近づく。
周囲の客たちが、あまりの不潔さと不気味さに悲鳴を上げ、席を立って離れていく。
「……何の用だ。食事の邪魔だと言ったはずだ」
俺がコーヒーカップを置き、冷淡に告げると、ゼクスはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「頼む……レイ! 頼む……っ! 俺が悪かった! 全部、俺が間違っていたんだ!」
ガツンッ、と鈍い音が響く。
ゼクスが、床に額を叩きつけたのだ。
勇者としての誇りも、これまで積み上げてきた名声も、すべてを投げ打った究極の土下座。
「ガイルの腕が、死にかけているんだ……! クララの魔法も、どんな高価な薬も効かない! お前なら……お前の一日一回のあのスキルなら、これを反転させて、元通りにできるんだろう!? 頼む……助けてくれ! 仲間だっただろう!?」
「……仲間?」
俺の代わりに、リタが凍りつくような冷笑を浮かべて立ち上がった。
「主様をゴミのように捨てた方々が、どの口でその言葉を仰るのかしら。……今の主様の『一回』は、世界を救うための奇跡。……あなた方のような、腐敗したガラクタを直すための安売り品ではありませんわ」
「ひっ……!? お前、その装備……っ! それ、伝説級の神銀より純度が高いのか……!?」
ゼクスが、リタやルナの纏う輝かしい装備を見て、絶望に瞳を泳がせる。
彼らがどれほど金を積んでも、どれほど名声を誇っても、二度と手に入らない至宝。
「レイ……、レイ……。私を……見て……」
クララが、這いずりながら俺の脚を掴もうと手を伸ばす。
だが、その手が触れる寸前。
パシッ。
ルナが、クララの手を無造作に払い、その喉元に鞘に収まったままの魔剣を押し当てた。
「……主様に触れるな。……穢れる」
「あ……あぁ……」
クララが、喉を鳴らして絶望に顔を歪めた。
「レイ! 一回だけでいい! 聖剣だけでも直してくれたら、俺たちはまたやり直せるんだ! 俺たちが魔王を倒せば、お前も『英雄の仲間』に戻れるんだぞ!」
ゼクスが必死に、縋り付くような声を上げる。
その目は、もはや正気を失い始めていた。自分の価値が、もはやレイの足元にも及ばないことを認めたくないがゆえの、狂信的な傲慢。
俺は、立ち上がった。
彼らを見下ろすことさえせず、窓の外に広がる、朝の澄んだ空気へと視線を向ける。
「……ゼクス。俺の『今日の一回』は、もう予約済みだ」
「なっ……誰にだ! 誰を救うというんだ!」
「……俺自身と、俺の隣にいる彼女たちの未来だ。……お前らのために使う時間は、一秒たりとも残っていない」
俺が歩き出すと、ルナ、リタ、ガオが当然のように俺の後に続く。
「待て……待ってくれ、レイ! 頼む、行かないでくれ!」
ゼクスの叫び。
その瞬間、彼の精神の糸が、プツリと音を立てて切れた。
「……あは。……あはははは! なんだ……そうか。お前も、俺の聖剣が怖いんだな? 錆びているのは、俺の力が強すぎるから……そうだ、俺は選ばれた勇者なんだ! 俺が認めない限り、お前は無能なんだよぉ!」
ゼクスが、床に這いつくばったまま、狂ったように笑い始めた。
折れた聖剣を抱きしめ、子供のようにあやすその姿。
かつて世界を救うと豪語した「光の勇者」の末路としては、あまりにも無残で、あまりにも滑稽だった。
「旦那。……あんなの、放っておいていいのかよ。……なんだか、見てるだけで虫唾が走るぜ」
ガオが、嫌悪感を隠さず吐き捨てた。
「ああ。……関わる価値もない。……行こう。次の『絶望』が、俺たちを待っている」
俺は一度も振り返ることなく、宿の入り口へと向かった。
背後で、ゼクスの狂気混じりの笑い声と、クララのすすり泣きが、宿場町の喧騒の中に虚しく消えていった。
◇
宿を出て、俺たちは新たな目的地へと馬車を走らせた。
北の果て、一年中深い霧に閉ざされた『星読みの塔』。
そこには、母アイリスが最後に訪れたとされる場所であり、そして、俺の魔力回路を縛る呪いの真実を知る『盲目の魔女』が住んでいる。
「……レイ様。……お疲れではありませんか?」
馬車の中で、ルナが心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……大丈夫だ。……やっと、過去をすべて食いつぶせた気分だよ」
俺は、窓の外を流れる景色を眺めながら、懐に忍ばせた一輪の白い百合――『白亜の福音』が残したあの花に触れた。
勇者パーティという名の枷を外した俺たちの旅は、ここからが本番だ。
一撃にすべてを懸ける、最強の反転者の物語が、加速していく。




