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第十話:虚弱の獣王と、爆ぜる本能

 薄暗い地下の見世物小屋。

 そこには、排泄物と安酒、そして人間の醜悪な欲望が混ざり合った、吐き気を催すような悪臭が充満していた。

 湿った石壁に反響するのは、下卑た笑い声と、鈍い肉撃の音。


「おい、もっとしっかり立ってろよ! この役立たずの虎公が!」

 

 リングと呼ばれる円形の舞台。

 そこでは、筋骨隆々のレスラーが、一人の少女を一方的に殴りつけていた。

 虎の耳と尻尾を持つ獣人の少女。

 だが、その体は獣人特有の躍動感とは程遠く、骨が浮き出るほどに痩せ細り、肌は不健康なまでに青白い。


「がはっ……、ぁ……」


 少女――ガオは、反撃することすら叶わず、無様に床を這っていた。

 彼女の背負う『虚弱体質(マイナス99)』。

 獣人として生まれたはずの彼女にとって、それは呪い以外の何物でもなかった。呼吸をするだけで肺が痛み、指を動かすだけで筋肉が悲鳴を上げる。一族からは「部族の恥」として捨てられ、今はこうして興行師に拾われ、客のストレスを解消するための「殴られ屋」に身を落としていた。


「ひひっ、この娘は丈夫なのが取り柄でね。いくら殴っても、死なない程度に弱いのが売りなんだ」

 

 興行師が、汚い歯を剥き出しにして笑う。

 その様子を、観客席の最前列で俺――レイは、冷徹な瞳で見つめていた。

 

 隣に立つルナが、腰の魔剣の柄に手をかけ、隠しきれない殺気を放っている。

「……主様。……不愉快です。あんな……あんなの、戦いでも何でもありません。ただの、虐待です」

「あら、ルナさんと意見が合うのは珍しいですわね。……レイ様、あの娘の身体……内側から魔力が腐っています。いいえ、魔力が、行き場を失って自分自身を削っていますわ」

 リタも、分析者としての憤りを露わにしていた。


 俺は、リングの上で意識を失いかけているガオの瞳を見た。

 焦点は合わず、死の淵を彷徨っている。

 だが、その瞳の奥底。

 まだ、消えていない『火』が見えた。

 世界を、自分を、何もかもをぶち壊してやりたいという、獣の咆哮が、俺の『鑑定』を通じて響いてきたのだ。


「……買った。その娘、俺がもらう」

「あん? 兄ちゃん、冷やかしかよ。こいつはまだ――」

「値段を言えと言ったんだ。……それとも、今ここで俺の『護衛』に、この小屋ごと掃除させるか?」


 俺が静かに告げると、ルナの放つ殺気が物理的な圧力となって興行師を襲った。

 男は顔を青白くさせ、ガタガタと震えながら、投げ出された金貨の袋をひったくるようにして逃げていった。


 ◇


 街外れの、月明かりだけが照らす静かな広場。

 俺は、ぐったりと横たわるガオの体を、ルナに支えさせていた。

 近くで見れば、その凄惨さはより際立っていた。

 打撲の痕、古い傷跡、そして何より、生命力というリソースが完全に枯渇している。


「……あ、アタイ……死ぬのか。……へっ。……やっと、楽になれる……のかよ」

 ガオが、震える瞼を薄く開けて俺を見た。

 死を目前にしても、その口調には野生の強気が残っている。


「死にたいか?」

「……まさか。……アタイは、……あんたみたいな綺麗な服着た奴らを、全員……ぶん殴って……やりたかった、よ。……なのに、……手が、動かねえんだ。……クソ、……ムカつくぜ……」


 彼女の指が、力なく地面の砂を掴もうとして、空しく滑る。

 その光景に、俺の胸の奥にある「反転」への渇望が爆ぜた。

 筋力マイナス99。

 これを裏返せば、この世界にどんな化け物が誕生するか。


「……ガオ、と言ったな。お前、本当は暴れたいんだろう? 全てを、ぶち壊してやりたいんだろう?」

「……あぁ、……そうだ。……アタイは、……最強に、なりたかったんだ……っ!」


 魂の叫び。

 俺は、彼女の骨と皮ばかりの細い腕を、力強く掴み取った。


「……いいぜ。その腐った鎖ごと、お前の絶望を俺が食いつぶしてやる」


 今日という日の、たった一度きりの奇跡。

 俺は全魔力を右手に集束させ、彼女の体内に渦巻く『虚弱』の因果に叩きつけた。


「――『不文律の反転インヴァージョン』、発動!」


 白と黒の閃光が、夜の広場を真昼のように照らし出した。

 

 バキバキバキッ!!

 

 ガオの体から、常絶するような骨鳴りが響く。

 脆く折れやすかった骨格が太く、硬く、再構築されていく。

 萎びていた筋肉が、一瞬にして爆発的な魔力を吸い込み、しなやかで強靭な鋼へと変貌を遂げていく。

 

 彼女の周囲の地面が、発せられるプレッシャーだけで円形に陥没し、石畳が砂となって舞い上がる。


「……ぁ、ぁあああああああああああああああああっ!!」


 ガオが、夜空に向かって咆哮を上げた。

 それは、弱者が上げる悲鳴ではない。

 眠れる獣王が、十六年の眠りを経て目覚めた際の、世界への宣戦布告。

 

 光が収まった後。

 そこには、月明かりを浴びて、悠然と立ち上がる少女の姿があった。

 見た目は以前と変わらずしなやかだが、彼女が呼吸をするたびに、周囲の空気が重低音を響かせて震える。


「……なんだ、これ。……熱い。……アタイの体、……溶けちまいそうだぜ」

 ガオは自分の拳を見つめ、何気なく近くにあった、馬車ほどもある巨大な岩に触れた。

 

 ドンッ!!

 

 ただ、軽く触れただけだ。

 それだけで、巨大な岩は中心から粉々に砕け散り、背後の建物にまで衝撃波が伝わって窓ガラスを叩き割った。


「なっ……!?」

 ルナが驚愕して身構える。

 リタも、目を丸くしてその「数値の跳ね返り」に息を呑んでいた。


 ガオは、信じられないものを見るように自分の体を確認した後、ゆっくりと俺の前に向き直った。

 彼女の瞳には、かつての死の影など微塵もない。

 爛々と輝く、純粋な、狂おしいまでの黄金の光。


「……あんたか。アタイを、こんなに熱くしてくれたのは」

「ああ。……不文律の反転。俺はお前の呪いを、そのまま才能に裏返した」


 ガオは、ドサリ、と力強く地面に膝をついた。

 その衝撃だけで地面にヒビが入る。


「……旦那。アタイ、決めたよ。……この力、あんたのために使う。……あんたを傷つける奴は、アタイが全部、粉々に砕いてやる。……一生、ついていくよ。……いいよな?」


 ガオが、八重歯を見せて、太陽のように笑った。

 

「……騒がしいのが、また一人増えましたわね。……レイ様、彼女の教育は、私が厳しく行わなければなりませんわ」

「……旦那の盾は、私。……でも、……背中は、任せても、いい」


 リタとルナ。二人のヒロインが、新しい仲間の実力を認めつつも、それぞれの距離感で彼女を見つめる。

 

 最強の剣、至高の盾、そして爆絶の剛拳。

 俺の『一撃』が生み出した、世界を揺るがす少女たちが、今ここに揃い踏みした。

 

 遠く、隣町の方角で、ガオの咆哮を聞いた勇者ゼクスたちが、得体の知れない恐怖に震えているとは知らず。

 俺たちは、さらなる絶望と、その先にある奇跡を求めて、再び歩み出した。


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