第一話:今日という日の全てを、お前に捧げる
「……レイ。悪いが、今日でクビだ。荷物をまとめてさっさと出て行ってくれ」
勇者ゼクスの冷徹な声が、夜の静寂を切り裂いた。
場所は魔王領へと続く険しい山嶺のキャンプ地。豪華な刺繍が施された天幕の中、揺れる焚き火の光が、かつての仲間たちの顔を不気味に照らし出している。
「理由を聞いてもいいか?」
俺――レイは、手元で磨いていた錆びたナイフを置き、静かに顔を上げた。
ゼクスは鼻で笑い、傍らに立てかけた聖剣の柄を苛立たしげに叩く。
「理由? そんなもの、お前自身が一番よく分かっているはずだ。お前のその欠陥スキルだよ」
「……『不文律の反転』のことか」
「そうだ。一日にたった一度しか使えない『一発屋』。そんな制約だらけの能力、この先の上位ダンジョンじゃ足手まといでしかないんだよ。聖女クララを見てみろ。彼女は一日に何度でも治癒魔法が使える。それに比べてお前はどうだ?」
聖女クララが、わざとらしく溜息をつきながら言葉を添えた。
「そうですわ、レイ。あなたのスキルは確かに強力な呪いやデバフを消してくれましたが……それだけです。今の私たちのパーティには、もっと小回りの利く、継続的な支援ができる人材が必要なんです。正直、あなたの分のご飯を用意するのも、もったいないと感じていたところなの」
戦士のガイルも、下卑た笑いを浮かべて追随する。
「全くだ。昨日の戦闘だってそうだ。お前は一度スキルを使った後、後ろでハァハァ言ってるだけだったじゃねえか。お前がいなくても、俺たちの火力があれば押し切れるんだよ」
彼らは何も分かっていない。
昨日、ガイルが受けた『即死の残響』という呪い。あれを俺が反転させて『全快の予兆』に変えなければ、彼は今頃この場にはいない。クララの治癒魔法では、あのような高位の呪詛は解けないのだ。
だが、俺はそれを口にしなかった。
俺の魔力量が極端に少なく、一日に一度しかスキルを使えないのには理由がある。
幼い頃、死の呪いに侵された母――『白亜の福音』と呼ばれたアイリスを救うために、俺はその呪いの余波(お釣り)を、自分の体へ強制的に引き受けた。
俺の魔力回路の九割九分は、今も母さんの命を繋ぎ止めるための「重石」として機能し続けている。残りわずかな魔力で、奇跡を起こせるのは一回が限界なのだ。
「……わかった。今まで世話になった」
「はっ、潔いことだ。お前の代わりなら、王都のギルドへ行けばいくらでも有能な鑑定士や支援術師が雇える。お前みたいなゴミ拾いは、せいぜい野垂れ死なないように気をつけるんだな」
俺は必要最小限の道具だけを背負い、天幕を出た。
背後からは、俺がいなくなったことを祝う彼らの笑い声と、酒瓶が開く音が聞こえてくる。
一度だけ立ち止まり、俺は夜空を見上げた。
「……一つだけ、忠告だ。俺の『一回』は、お前たちの一生より重い。いつか、それを身を以て知ることになるだろうよ」
冷たい夜風に吹かれながら、俺は一人、山を降り始めた。
◇
三日後。俺は国境近くの混沌とした都市、ラザルスに辿り着いた。
ここは金と力だけが支配する場所だ。路地裏には腐った生ゴミの臭いが立ち込め、行き交う人々は皆、他者を食い物にしようとする鋭い目をしている。
俺が向かったのは、街の最深部にある地下奴隷市場だった。
追放された身で、一人で旅を続けるのは効率が悪い。俺のスキルを最大限に活かすには、強固な信頼関係を結べる「盾」が必要だった。
「おらぁ! シャキッとしろ、この薄汚ねえ魔族どもが!」
市場の広場では、脂ぎった顔の奴隷商人が、鞭を振るって檻の中の者たちを威嚇していた。
並べられているのは、戦場から連れてこられた敗残兵や、借金で身を売った平民。そのどれもが、レイの目には「普通」に映った。
マイナスが足りない。
俺のスキルは、対象が抱える『不運』や『デバフ』、あるいは『欠陥』といったマイナスの数値が大きければ大きいほど、反転させた際のプラスの跳ね返りが大きくなる。
並の人間を救ったところで、得られる力は並でしかない。
市場の隅。
他の奴隷たちからも遠ざけられた、錆びついた檻が一つあった。
そこには、泥と埃に塗れた一人の少女が、膝を抱えて座り込んでいた。
銀色の髪はボロボロに傷み、背中からは魔族の象徴である角が、無残にも根元から折られている。
彼女は、商人が檻を蹴っても、周囲の野次馬が石を投げても、ピクリとも動かなかった。
「おい、そこの兄ちゃん。こいつが気になるのか?」
商人が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。
「こいつは元・魔族領の王女様だったらしいが、今じゃただの『粗大ゴミ』だぜ。生まれつきの『全感覚喪失』ってやつでな。目も見えねえ、耳も聞こえねえ、痛みも熱さも、自分の名前さえ分からねえ。ただの生きてる肉人形よ」
――全感覚喪失。
それは、生命体にとって最大級の『欠陥』だ。
光のない、音のない、感触すら存在しない永遠の孤独。その絶望の深さを想像し、俺の胸が微かに高鳴った。
俺は檻に近づき、彼女の瞳を覗き込む。
焦点の合わない、虚無を映した瞳。
かつて、俺の目の前で死を待っていた母さんの時と同じ、あるいはそれ以上の、底なしの『マイナス100』。
「……いくらだ」
「えっ? 正気かよ、兄ちゃん。こいつは飯を食わせるのも一苦労だぜ? 何もできねえんだからな」
「いくらだと聞いている」
俺が懐から金貨の袋を投げ出すと、商人は慌ててそれを掴み、中身を確認して破顔した。
「まいどあり! 好きにしな、そのゴミをどう使おうがな!」
檻の鍵が開けられる。
俺は、無機質な少女の腕を取り、市場の喧騒から離れた丘へと彼女を連れ出した。
夕陽が沈みかけ、世界が黄金色に染まる時間。
少女は地面に座らされても、自分がどこにいるのかすら理解していないようだった。
彼女の世界は今、冷たく静かな、絶対的な漆黒に包まれているのだろう。
「……聞こえないんだろうな。それでもいい。お前の中に眠るその『地獄』こそが、俺が求めていたものだ」
俺は彼女の前に膝をつき、その泥だらけだが繊細な頬に、そっと右手を添えた。
一日に一度。
俺の人生の全てを、母さんの命を、そして今日という時間を凝縮した、唯一無二の魔力。
右手の奥で、せき止められた魔力の奔流が熱を帯び、暴れ出すのを感じる。
もし失敗すれば、俺は明日を待たずに力尽きるだろう。
だが、俺に迷いはなかった。
――スキル『不文律の反転』、発動。
その瞬間、俺の右手を起点に、漆黒と純白の光が激しく明滅し、夕闇を飲み込むほどの輝きを放った。
少女の体の中で、固着していた『喪失』という名の鎖が、音を立てて砕け散っていく。
反転が始まった。
何も感じないという『絶対零度』が、あらゆる真理を捉える『極点』へと塗り替えられていく。
光の渦の中で、少女の瞳に初めて、小さな、けれど確かな光が宿った。




