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五分後

作者: zero
掲載日:2025/10/08

朝。

ドアポストの金属が、わずかに揺れた音がした。


音は一度だけ。重さも違う。


玄関へ行き、ポストを開けた。

中には白い封筒が一通。宛名も差出人もない。


妙に新しい紙の匂いがした。

角の折れもなく、まっすぐで、まるで今印刷されたばかりのようだった。

けれど、インクの匂いも、指先の感触も、なぜか現実味に欠けていた。


封を切ると、黒い文字が一行だけ。


――「七時五十八分、上の階の住人が転ぶ」


時計を見た。七時五十三分。

思わず笑いが漏れた。くだらない悪戯だろう。


だが、「五分」という具体的な数字が、妙に気にかかった。

誰かのイタズラにしては、やけに正確だ。


ゴミ箱に捨てかけて、結局机の上に置いた。


……なんとなく、待ってみた。


秒針が一周するごとに、心臓がひとつ跳ねる。

エアコンの音さえ止まったように感じた。

耳の奥で血の音が鳴り、時間がゆっくりと重く進む。


そして、七時五十八分。


ドン――。


天井が鳴った。

乾いた音ではない。何かが倒れたような、重い衝撃。


息を止めたまま、しばらく固まっていた。

誰かの声がするかと耳を澄ませたが、上の階は静まり返っている。


やがて部屋の時計が、八時を告げた。

秒針が規則正しく進む音が、妙に耳につく。


――偶然だ。

そう思い込みながらも、男は机の上の封筒を見つめていた。



翌朝。


ドアポストの金属が、また鳴った。


昨日とまったく同じ音。

けれど、今朝はその一音がやけに重く響いた。


ポストを開ける。

中には白い封筒が一通。


昨日と同じ筆跡で一行だけ。


「八時十五分、エレベーターが止まる」


時計を見る。八時十分。

昨日と同じ、五分後。


くだらない。

そう思いながらも、どこかでまた当たるのではという思いが浮かんだ。


八時十五分。


廊下の奥から、金属がぶつかるような音。

続いて誰かの小さな悲鳴のような声。


おかしい、こんなことがあるか。

玄関先で固まったまま動けなかった。


しばらくして、逸る鼓動を抑えつつエレベーターの方へ向かった。

エレベーターの前に住人が二人いて会話が聞こえた。


「中に人が乗ったまま停まったらしいわよ」


その言葉を聞いた瞬間、背筋を冷たいものが走った。

偶然に違いない。

そう言い聞かせても、胸の奥がざわついて止まらない。


部屋に戻り、手紙を机に置いた。

蛍光灯の光を受けて、まっすぐな紙の端が静かに光る。

白い表面に映る自分の指先が、かすかに震えていた。



朝、またポストが鳴いた。

もう驚きはなかった。


封筒の白が、朝の光を反射している。

その手触りにも、すっかり慣れてしまった。


「八時五分、電車が止まる」


時計を見る。八時ちょうど。

男は一瞬考え、ネクタイを直して呟いた。


「……今日は車で行くか」


そのまま玄関を出る。

冷えたハンドルを握り、エンジンをかけた。

カーラジオから流れる軽快な音楽のあと、ニュースが入る。


《本日八時五分ごろ、都内の主要線で人身事故が発生しました》


男はハンドルを握ったまま、息をのんだ。

手紙の内容と、ラジオの時刻が、ぴたりと重なっていた。


翌日。

「九時に雨が降る」と書かれた封筒を見て、傘を持って出た。

空は快晴だったが、出勤途中で急に暗くなり分厚い雲が覆った。

数分後、雨が落ちてきた。


その次の日は

「七時五十五分、停電する」

あわてて冷蔵庫の中身を片づけておくと、予告どおり部屋の明かりが消えた。


最初のような恐怖はもうなかった。

怖さよりも、正確さが勝っていた。


手紙は、もはや“便利な予告”だった。

渋滞を避け、遅延を回避し、雨に濡れることもない。

小さな安心が、生活の一部になっていった。


男は、封筒を机の引き出しに並べてしまうようになった。

白く整った紙の束は、いつの間にか分厚くなっていた。


ただ――どの封筒にも、日付が書かれていない。

それが少しだけ、気にかかった。



朝、ポストの音がした。

もう驚くこともなく、習慣のように封筒を取り出す。


白い封筒、同じ筆跡。

けれど、その文面は、これまでとは違っていた。


「八時二十分、隣室のチャイムを押しなさい」


――予告、ではなかった。

今度は “命令” だった。


時計を見る。八時十五分。

たった五分後。


さすがに、眉が動いた。

これまでの手紙はすべて “起こる出来事” を知らせていた。

自分に “何かをさせる” ものでは、なかった。


封筒をテーブルの上に置く。

出勤の準備を続けようとしても、視線がどうしてもそこに戻る。


八時十九分。

胸の鼓動が早くなる。


――押さなければ、何かが狂う気がした。


八時二十分。

男は立ち上がり、無意識のまま玄関を出た。

隣の部屋の前に立ち、インターホンのボタンを押した。


「……はい?」

中から小さく返事があった。

とっさに謝り、何でもないとごまかして帰る。


――何も起きなかった。

だが、“命令を守った” という感覚だけが、妙に心地よく残った。



翌朝。

また白い封筒が届いた。


「七時五十五分、ゴミを出しなさい」


ただの生活の一部のような内容だった。

その通りにした。

すると、管理人が通りがかりに声をかけた。


「間に合いましたか、今朝だけ回収が早まってたんですよ」


それからの封筒は、次第に命令ばかりになった。

「傘を持て」「電気を消せ」「今日は外に出るな」

どれも逆らう理由のない、日常の延長のような指示。


それに従うたび、確かに “得をしている” 気がした。

事故を避け、雨を避け、偶然を避けた。

そんな日々が続いた。



夜、机の引き出しを開けた。

今まで届いた白い封筒の束が収納されていた。

数えようとしたが、どこまで数えたか分からなくなった。


照明の下で見たそれらは、すべて同じ。

日付のない白。

まるで昨日の朝も、今日の朝も、同じ一日だったように。


男は静かに笑った。

「これでいい。間違いのない日々だ」


そのとき――ポストの金属が、また鳴った。


カタン。


なんでこんな時間に?

チラシか何かだろうか。


覗くとポストには封筒が入っていた。

だが、封筒は赤色だった。


取り出し、開けようとして――やめた。

胸の奥で、何かがざわついた。


「……明日でいい」


封筒を机の上に置き、部屋の明かりを消す。

赤い封筒は、闇の中でもぼんやりとそこにあった。



翌朝。


机の上には、昨夜のままの赤い封筒があった。

封を切れずに眠ったせいで、夢の中でもあの赤色がちらついていた。


昨夜の光景が一瞬、脳裏をかすめる。

白い封筒の束――終わりのない日々。

それを断ち切るように、赤だけが浮かんでいた。


男は迷いながらも、ゆっくりと手を伸ばした。

赤い紙は、冷たかった。

まるで金属そのものを触っているように。


テーブルに戻り、深呼吸を一度。

そして、封を切った。


中には、一行。


「七時五十三分、ポストに封筒を入れなさい」


喉がひくついた。

時計を見る。七時五十分。


机の上を見ると、白い封筒が一通目に入った。

さっきまで確かになかったものだ。


封筒を手に取り、玄関へ向かう。

頭の中で、何かが囁く。

――これは“命令”だ。


 七時五十三分。


 カタン。


 白い封筒を自分の部屋のポストへ投函する音が響いた。

 それは、まるで儀式のように正確だった。


 そして、静まり返った部屋に戻り――ポストを開けた。

 そこには、今投函した白い封筒が一通。


 封を切る。


 「七時五十八分、上の階の住人が転ぶ」


 最初に届いた文面。

 最初の朝。

 最初の五分後。


 男は、ゆっくりと笑った。

 笑いながら、もう一度その文を読み返す。


 そして、机の上の赤い封筒を見つめる。


 ――差出人がいないのではない。

 自分が、そうなのだ。


 五分後の朝が、また始まる。

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