後編
結局夫の話は、長年の愛憎の果ての妄想として片付けられ、哀れ彼は母親の手によって衛兵に引き渡された。その時にも妄想話を繰り返して義母に縋りついていたが、彼女は毅然として揺らがなかった。
『今後もその妄想を垂れ流して我が家を貶めるのならば、こちらもそれなりの対応を取るまでです。判ったら自分に相応しい場所へお帰りなさい』
ここはお前のいる場所ではないとはっきり母親に突き付けられて、呆然とした夫は衛兵に抱えられ、何処かへ連れて行かれた。
そもそも夫は既に伯爵家の人間ではない。
義父は死に際して、正式にアネットを後継者として指名するため、夫を廃嫡し、伯爵家から離籍させたのだ。それは当然彼にも伝えられているはずだ。
私には夫の考えが理解出来ない。
貴族が何よりも大切にするのが血筋と矜持。
そのどちらもをないがしろにする企みに、どうして義母が同意すると思ったのだろう。
正直、義母にとっては夫の血を引いているならどちらの孫でも構わないだろう。ならば、ずっと市井で育ってきたリリーベルより、相応しい教育を授けてきたアネットの方が望ましい。
しかし、だからといって、夫の言葉を受け入れるなど、矜持が許さない。
夫がしでかしたことは、恥なのだ。
彼にとっては〈真実の愛〉を叶えるための苦肉の策で、そんな意図はなかったかもしれない。
だが、彼のしたことは、外に知られたら家を傾けるかもしれないくらいの、恥だ。
だから義母に出来たのは、全てなかったことにすることだけ……。
私に出来るのは、息子を切り捨てても家を守った女傑を、そっと支えることだった。
◆◆◆◆◆
夫を衛兵に引き渡し、愛人と今後のことなど話し合っていたら、とっぷりと日も暮れていた。
もう遅いし一晩泊まっていくように誘ったが、愛人はそれを固辞した。これ以上迷惑を掛けられないと恐縮する彼女は、想像以上に善人で普通の人だった。
彼女と夫の生活は殆ど夫の妄想の上に築かれていて、夫は最愛すら騙して、自分の望みを叶えようとしていたのだ。
事実の刷り合わせの中で初めてそれを知った彼女はひたすら恐縮し、顔を青褪めさせてこれまでのことを謝罪した。
悪いのはすべて夫であり、彼女も騙されていた被害者なのだと言えたのは、偏に私が夫に対して一切の情を持っていなかったからだ。
私と彼女の間に、確執はあれど原因は愛憎ではない。夫さえいなければ、私が彼女と争う理由はなかった。
それを伝えても彼女は何処か不安そうに、落ち着かない顔で周囲を窺っていた。
話し合いを終えて帰っていく彼女達を玄関先で見送る。
夜道を警戒して馬車で送るという申し出も固辞して、娘の手をしっかり握り締めた愛人は、娘にも頭を下げさせながら、最後にもう一度謝罪した。
「この度は大変お騒がせして申し訳ありませんでした」
「いいえ、こちらこそ長年愚息の面倒を見てくれてありがとう」
「何か困ったことがあったら遠慮なさらずにおっしゃって。私達に確執はあれど、娘達は間違いなく姉妹なのですから」
「………ありがとう、ございます。では、失礼します」
二人で深く頭を下げた後、リリーベルの手を引いて帰っていく彼女は恐らく、もう二度とこの家に近付くことはないだろう。なんなら今夜にも姿をくらませそうな雰囲気だった。
義母は迷惑料という名目で、固辞する愛人にかなり多くの金貨と換金性の高い貴金属を渡していた。平民の生涯年収以上の金貨は、贅沢をしなければ母子二人、充分に生きていける額だ。
夫という防波堤を失って真実を知った彼女は、自分達の立場の危うさにようやく気付いたのだろう。貴族の愛人というだけでも充分危ういのに、今日暴露された真実……否、真実かどうかも最早問題ではない。
疑いだけで、彼女達の生命は風前の灯に等しい。
愛しい我が子を守るため、彼女は一刻も早くこの家から、街から離れたいと願っているはず……その願いをかなえるかどうか、彼女達の後ろ姿を見つめたまま義母に問うた。
「どう致します?」
「捨て置きなさい」
「よろしいのですか?」
「私の孫はアネットだけです」
「かしこまりました」
「……ジョゼット」
「はい?」
「アネットは、貴女にそっくりよ」
突然言われて、思わず義母の方を向く。
彼女も私を真っ直ぐ見つめていて、真面に目が合って更に驚いた。
「こんな家に嫁いできてくれて、私達に可愛い孫まで与えてくれて、本当にありがとう」
ふいに紡がれたのは、あの日から流れた十数年を労る言葉。
微笑んで言う義母の目にはうっすら涙が浮かんでいて、思わず私の喉にも熱いものが込み上げてきた。
義母を慕ってはいたけど……言葉にして伝えられた私への労りが、歓喜を呼んで喉を塞ぐ。
それを押しとどめようと俯く私の手を、戻りましょうと引いてくれる義母の手は、本当に暖かかった。
◆◆◆◆◆
深夜。
騒ぎの所為で出来なかった書類仕事を執務室で片付けていると、小さくノックの音がした。
時計を見て、執事が夜更かしを咎めにきたのかと思ったが、入ってきたのはアネットだった。
もうとっくに休んでいたのだろう寝間着姿の娘は、ローブさえ纏わず小さく縮こまりながら入ってきたその場に立ち止まる。小さく震えているような姿に異常を感じて、書類を読むためにかけていた眼鏡を外す。
「どうしたの?」
何かあったのか問おうとして、何かどころではないことがあったことを今更のように思い出した。
そうだ、たった数時間前大変なことがあった。でも、予想以上にすべてがあっさりと終わったから安心しきっていて……私はアネットには未だ何のフォローもしていなかったことを、今思い出した。
今後の話し合いをするからと、部屋に戻らせてから今まで、この子にはどんなに長い時間だっただろう。堪えようとして、堪えきれなくて、やってきたに違いない。
後悔に血の気が引いて駆け出そうとする私の前で、アネットは力を失うようにその場に跪いた。
「お母様、これまでのご無礼をお許し下さい」
言って、美しい金髪が床につくくらい頭を下げる少女に慌てて駆け寄った時、……ああ、この子は私の娘だ、と強く強く感じた。
だから、強く強く否定するためアネットを抱き起こす。
その頬はもうしとどに濡れていて、零れる涙を隠すようにアネットは俯く。
「アネット、やめて!!」
叫ぶ私の声を、アネットは首を横に振って否定する。
「いいえ、お母様。彼女……リリーベルさんは、お母様にそっくりでしたっ。栗色の髪もお母様と同じ優しい瞳も、鼻も口も、全部、全部……私にはないものを……彼女は、持っていた」
「アネット……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……私、何も知らずに、甘えて、私なんかが、お母様の娘のフリをしていて、ごめんなさい……許して……ください」
「アネット!!」
泣いて跪いて許しを請う娘の肩を掴み、必死にその身体を持ち上げる。涙でグショグショになった頬を両手で挟んで上向かせ、しっかり見つめ合う。
「違うと言っているでしょう!!」
「………でもっ」
「貴女が、私の、娘なの!! 私が育てた、私の娘なの……お願い、そんなこと言わないで……私の、私のアネット……貴女より愛しい娘なんていない。私には貴女以外娘はいない、私のたった一人の……アネット」
『アネット、私がお母さんよ』
抱いて額に口付けた夜。
確かに私はすり替えを知っていた。
でも………真っ白なおくるみに包まれて、ふにゃふにゃ泣いて、小さな手で私を求めたのは貴女だった。
その姿が可愛くて可愛くて堪らなかった!!
私と血の繋がらない娘は、とてつもなく可愛かった!!
思わず口付けてしまうくらい愛しかった!!
……本当の娘以外にそんなことを思うのは薄情かしら?
そうね、きっと私は薄情な母親なのだ。
だって私はすり替えを知っていたのに、ただの一度も本当の娘に、リリーベルに会いたいとも、抱き締めたいとも……取り返したいとも、思わなかったのだもの。
だって私にはアネットがいた。
この子がいれば充分だった。
他の子はいらない、アネットだけが大切だった。
だからアネットが私の子ではないとばれないようにいつも気を付けてた。
髪の色が違う、瞳の色が違う。
『そうね、髪も瞳もお父様似ね』
鼻が違う、耳が違う。
『あら、お祖母さまにはそっくりよ』
違うものが見つかる度に、内心で冷や汗をかきながら、素知らぬ顔で言い訳をたくさん考えた。
……ただアネットを失わないためだけに!!
だって私が抱いて愛情を注ぐ度、笑ってくれたのはこの子だもの。
乳を含ませ、抱いてあやして、私が愛して育てたのはこの子だけ。
目に入れても痛くない程の愛情を注いで娘を育てたのは私も同じ。
愛人が真実を受け入れなかったように、私ももう真実などどうでもいい。
ただアネットを失いたくない。
必死に掻き抱いて、泣く娘の耳元で唱える。
「貴女が私の娘よ。貴女以外……貴女以外、娘なんていらない」
「……おかぁさま」
「アネット、アネット……」
「わたしの、おかぁ、さま……」
そう呼んでほしいのは、この子にだけ……。
今更また取り替えるなんて言われても、手放せない。
家のためじゃない、私が、アネットを、手放せない。
もし今日、真実を知った義母が夫の企みに乗っていたとしたら……。
私も彼女のように、我が子の手を引いて一目散に逃げた。
血統も矜持も関係なく。
今度こそ、愛する子を奪われないために、私は立ち向かっただろう。
私はあの日、抵抗も出来ずに我が子を奪われた……と思っていた。
でも違う。私の子はずっとずっと私と一緒にいたのだ。
「アネット、貴女の顔良く見せて」
「はい、お母様……」
応える声は、思い出せば今日初めて聞いた愛人の声に似ているかもしれない。
豪華な金髪も、緑の目も、彼女が与えたものかもしれない。
でも、私だってたくさんアネットに与えてきた。
アネットに愛されたくて、アネットを愛したくて……。
たくさんたくさん、愛情を注いだ。
だからもう誰にも渡さない。
アネットは私の娘で、
アネットの母は私だ。
「お祖母さまがね、私と貴女はそっくりだっておっしゃってたわ」
「本当に? ……嬉しい」
「私も嬉しい」
泣き笑いするアネットを両手でしっかり抱き締める。ただただこの子が可愛くて、愛おしくて、やっぱり目に入れても痛くないと思う。
「お母様、お母様……私、お母様の娘で嬉しい」
「ええ、私も貴女が娘で良かった、ありがとう、アネット」
堅く抱き締め合って、私はあの日の出来事を思う。
夫に娘を奪われた、というのはきっと、産後の疲れが見せた妄想だったのだ。
私の娘は生まれてからずっとずっとそばにいた。
あの夜と同じようにアネットの丸い額にキスをして、涙で真っ赤になった頬を撫でる。
私の行為に嬉しそうに手のひらに頬すり寄せてくるアネットを見ると、スルリと言葉が出た。
「愛してるわ、アネット」
……だから、ごめんなさい、リリーベル。
私の心は狭くて、アネット一人でもういっぱい。もう誰も愛する余裕がないの。
でも貴女には、私よりずっと立派な母親がいるから大丈夫。
身分より、お金より、男より、真実より、貴女を選んだ立派な母親が。
彼女に愛してもらって、そしてどうか幸せになって。
それだけが私が貴女に願うこと。
幸せに、そして、さようなら。
かつての私の娘。
読んで頂きありがとうございました。