前編
「お母様、これまでのご無礼をお許し下さい」
言って、美しい金髪が床につくくらい頭を下げる少女に慌てて駆け寄った時、……ああ、この子は私の娘だ、と強く強く感じた。
『夫に生まれたばかりの娘を奪われました。』
政略結婚で結ばれた夫が、生まれたばかりの娘を抱いて放った言葉に、私の時間は一瞬凍り付いた。
「い、ま……、なんと、おっしゃいました?」
産後の疲労でベッドから起き上がれない私を見下ろしていた夫は、おくるみに包まれた娘に一瞥をくれ、やはり先刻と同じことを言う。
「この子はリリアが育てる」
「……意味が、判りません。なぜ、そんな……」
惨いことを……声にする前に、夫に目配せされた侍女がもう一人赤ん坊を抱いてベッドに近寄ってきた。
「先日生まれたリリアの娘だ。名前はアネット。今からお前が育てる娘だ」
リリア、とは夫の愛人の名前。
彼女が出産したなんて知らなかった。
訳が判らず震える私に侍女が他人の子を抱かせようとしてくる。拒否して、拳を強く握り身体をこわ張らせていると、夫は私の娘を抱いていた腕をずらし、まるで荷物のように生まれたばかりの赤子を片腕で小脇に抱えた。
「そのアネットが我が家の跡取り、お前に預けるからそのようにしっかり大切に育てろ。もし私怨で虐げるようなことがあれば……この娘がどうなるかは、判るな?」
「なっ……」
「お前達も今聞いたことは他言無用。漏らしたものは職を失うだけでは済まないと思え」
その場にいた使用人を見渡し言い聞かせた夫は、娘を小脇に抱えたままこれで話は済んだと言わん許りに踵を返す。
「待ってっ……」
夫を追おうと気力で起き上がったが、引き止める力は無く。夫の背を隠すように眼前に迫ってきたのは、赤ん坊を抱いた侍女だった。彼女は、起き上がったついでに受け取れと言うように、赤子を突き出してくる。
グイッと押しつけられた重みを胸元に感じて、咄嗟に受け取ってしまった。私に子供を渡すと、侍女は走るように夫の後を追って出て行ってしまう。
訳の判らない嵐のような時間が去っても、誰も動けないまま……最初に声を上げたのは、腕の中の赤子だった。
抱き方が悪かったのかむずがって、ふにゃふにゃと頼りない声を上げる。
それに正気に返って、腕の中の赤ん坊に目を落とす。
先刻まで隣にいた娘とあまり変わらない赤ん坊。
でも、絶対に私の娘では無い赤ん坊。
震えて、でも放り出すことも出来ずに、助けを求めて周囲を見渡す。
駆け寄ってきたのは、嫁いですぐに私付きになった侍女だった。震える私の腕を支えるように子供を抱いて、一緒に私の身体も支えてくれる。
「若奥様……」
「あぁ、私の子……私の子が……」
他人の赤ん坊を抱いたまま、連れ去られた我が子を思う。
私はまだあの子に名前すら与えていないのに……。
呼吸と同じ早さで涙が頬を伝って、上手く空気が吸えずに身体が痙攣する。
医者を……! と誰かが叫んでいた。
あぁ、私が馬鹿だった。
一応父親だからなんて、愚かにも思ってしまったから……。
いつでも勝手に、好きなようにして、誰かの気持ちなんて顧みない。
そういう人だと判ってたのに……。
私の妊娠も夫の計画のうちだったの?
夫が、彼の<真実の愛>の成就を阻んだ義両親を憎むのは勝手だ。
でも復讐に私と、私の子を利用するなんて酷すぎる。
こんなの、あんまりだ。
私と子が何をしたというの……。
◆◆◆◆◆
伯爵家の跡取り息子である夫に、長年愛人がいるのを知っていても嫁いだのは、偏に貴族としての義務のためだ。
私自身も貴族の家に生まれた以上、そういうこともあると覚悟はしていたし、仮に情が芽生える前に結ばれても、時間を掛ければ某かの親愛は芽生えると思っていた。
しかし、私の夫となった人にその余地はなく。彼は最愛と定めた女以外に<愛>と名の付く感情を抱くことをよしとしなかった。
彼の最愛は平民の娘。
ならば、身分を捨てて彼女と結ばれればいいのに、それは拒んで、彼女を伯爵夫人にすることに固執し、彼女以外を妻に迎える気はないと宣言して関係を公言した。
困ったのは夫の父伯爵。若気の至りとどれ程取り繕っても、結婚前から愛人を持つような男に真面な縁談は望めない。いざと言う時のために、多少の傷はあってもいい、とにかく優秀な嫁を、と探して白羽の矢が立ったのが私だった。
私は、学院を卒業後、縁あって一度嫁いだが、僅か一年で夫に先立たれ実家の伯爵家へ戻ったばかりの寡婦。この先どうしようか悩んでいたところ実父から、多額の結婚支度金という後の生活の保障もあるしどうかと言われ、名ばかりの妻として嫁いできた。
嫁いだ、と言っても夫は愛人宅住まい。
呼んでも来ないので、顔合わせは義両親とだけ行い、書類だけの婚姻を済ませてから私は伯爵家に移り住んだ。
幸いにも義両親になった伯爵夫妻は優しく。息子の尻拭いを手伝わせることになった私をいつも気遣ってくれるような人達だった。
そんな二人に育てられて、どうして夫はこうなってしまったのか?
知らぬ間に結婚させられていたことを知った夫と初めて会ったのは、婚姻届を提出してから半年も経った頃だった。
夫はいないものとして義両親と生活するのにも慣れ、二人が領地へ視察に行く間の館の管理を初めて一人で任された夜。突然伯爵家に戻った彼は、初対面の私に、私と跡取りを作らなければ代は譲らないと脅迫されたから子作りにきてやったと言い放った。
そんな男でも一応主の息子。義両親がいない以上夫を止められる使用人などおらず、形ばかりでも私は妻。仕方無く彼に身を任せ、幸運なことに私はそれ一回で見事身籠もり……義両親には泣いて感謝された。
そして無事出産を終えたというのに、どうしてこんなことに……。
義両親が留守だったのに、子供を見に来たという夫を家に入れたのが間違いだった。
一応父親、顔を見る権利もあるし、今後についても一度話をしたいと招き入れた結果があれ……我が子は連れ去られてしまった。
寝台に寄せて置かれたベビーベッドですやすや眠る赤ん坊を見下ろす。
おくるみに包まれた小さな赤ちゃん。茶髪か金髪かまだ判らないふわふわの産毛のような髪に、そっと触れて撫でると気持ちよさそうにもぞもぞと動いた。
ぱくぱく動く小さな口が可愛らしくて、つい笑ってしまう。
あんなにはっきりとした出来事があったのに、私にはもうあやふやだった。
正直、この子がどっちなのか私には判らない。
私の子? 愛人の子?
私が意識を失った後、誰かがまたすり替えたなんてことないだろうか?
母親なのに、自分の子が判らない。
産まれた時は愛おしいと確かに思ったのに、あの子の見分けがつかない。
それが哀しくて、一つ涙が落ちる。でもすやすやと眠る赤ん坊はそれだけで愛らしくて、そっと抱き上げて丸い額にキスして、決めた。
「アネット、私がお母さんよ」
結局私は、あの出来事について誰にも相談しなかった。そもそも私の子でなくても、夫の子ではあるのだし、跡継ぎにするには問題ないだろうとすべてを飲み込むことにしたのだ。
あの場にいた使用人達もそれが私の意思ならと口を噤んでくれて、子供のすり替えは当事者以外誰も知らない。幸い娘の容姿も大きく私と夫以外に似ているということもなく、アネットは私と義両親の手ですくすくと育っていった。
あちらの子供も愛人の手で大層可愛がられて育っているらしい。
元気に育っているならそれで構わない。
そのままゆっくり時が下れば良かったのに、急速に事態が動いたのはアネットが十三歳の誕生日を迎える頃。義父に病が発覚し、あっけない程簡単にこの世を去ってしまったことだった。
余りにも早い義父の退場に、私達夫婦とは違い、政略で結ばれた縁でもしっかり親愛の情を築いていた義母の落ち込みようは激しく、放っておいたらそのまま後を追ってしまいそうだった。
そんな義母をアネットと使用人達と共に支えている最中、嵐はやってきた。
「奥様、ぼっちゃまがいらっしゃいました」
もう四十近いのに、ぼっちゃまとは……笑える。
しかし他に呼びようもない、何せ夫は亡くなった主の息子なのだ。……なのに、いらっしゃったとは、随分他人行儀だこと。そのくらい彼らにとっても夫は遠く、別家庭の人間という意識があるのだろう。
弱々しく頷く義母を確認して、通す部屋を告げる。余り豪華でない応接室は、ソファーセットだけあり、もてなしをのせるためのテーブルもない。
そこで待たされる意味、伝わるだろうか?
考えながら、衣服を整えた義母を支え、アネットと共に夫のいる部屋へ向かった。
「母上!」
使用人がドアを空けた途端、夫はまるで役者のように大仰な振る舞いで義母に走り寄ってきた。そして私を押し退けて介助に加わる。
一瞬ムッとしたけれど、まあ弱った母親に無体なことはしないだろうと距離をとって部屋に入った私の目に、予想外の人の姿が飛び込んできた。
夫の愛人とその娘がソファーに座っている。
驚いたのは私だけではなく、義母もアネットも同じものを見て目を見開いていた。
平然としているのは夫だけ……彼は義母を一人がけのソファーに座らせてから、家族が座る斜向かいの大きなソファーに座り直す。
私とアネットは、義母の後ろに立ったまま、母子を見守った。
平民には珍しい豊かな金髪の愛人を真面に見るのは初めてだ。私より年上なのに、未だ少女のようなあどけなさを持っていて、確かに愛らしい。
夫に家族さえ捨てさせた<最愛>。
愛人は隣にきた夫にぴったりと寄り添い、反対側の手で娘の手を握っている。
娘。彼女の娘は、金にも見える栗色の髪に、栗色の瞳をした少女だった。緊張しているのか、唇を真一文字に引き結んだまま、両手で愛人の手を掴んでいた。
会話の口火を切ったのは義母だった。
「それで、今日は何をしにきたのです」
「もちろん、父上が亡くなったので役目を果たしに戻りました」
「今更世迷い言を……貴方が心配しなくてもこの家はアネットに継がせます。貴方は今まで通り自由になさい」
「……やはりそういうことをなさるのですね」
義母の宣言に、一瞬傷ついたような表情を見せて顔を伏せた夫を気遣い、愛人がその肩を抱く。その手に自分の手を重ねて顔を上げた夫は、私を一度睨み付けてから、野心にぎらついた目を義母に向けた。
「母上に真実をお話ししましょう。……………アネットは、私とリリアの娘です」
「…………………………え?」
一番最初に声を上げたのは、意外にも愛人だった。
信じられないものを見るように、夫の横顔を見て、やがて自分の隣の娘を見遣る。
ああ、彼女も知らなかったのか……。
通りで、憎いはずの私の子を大切に育てている訳だ。
夫を見張らせている密偵からの報告書には、愛人はリリーベルと名付けた娘を目に入れても痛くない程溺愛し可愛がっているとあった。
だから私は尚のこと信じられなかったのだ。
あのすり替えは現実だったのか、と。
でもどうやら現実だったらしい。
何処か誇らしげな顔で義母とアネットを見つめる夫の腕を、愛人が引く。
「ど、いうこと……私の子は、リリーベルよ」
「黙っていて済まなかった。これも君と私の子をこの家の正式な跡取りにするための策だったんだ。父上のことだ、どうせすんなり私に跡を継がせてはくれないだろうと思って考えたのさ。君と私の娘が正式に当主になれば、私達も正式な夫婦ということだ」
……つまり、最悪自分が当主になれなくても、当主の両親という立場で、愛人と夫婦だと認めさせる、ということだろうか? でも、一体誰に?
義母を見れば、嫌悪感を露に何か得体のしれないものを見るような顔で夫を見ていた。
その気持ち、良く判る。私にも彼が何をどう考えているのかさっぱり判らない。
「さあ、お前は自分の娘を連れてとっととこの家から出て行け!!」
宣言した夫は、ぽかんと座っていたリリーベルの腕を引き無理やり立たせると、私の方へ放り投げるように突き飛ばした。
「っ、……危ない!」
三者三様に叫んで、突き飛ばされたリリーベルに駆け寄る。一番素早かったアネットが彼女を受け止めたものの、支えきれずに二人は床に蹲った。
遅れて駆け寄った私と愛人が、それぞれの娘の肩を抱く。
「大丈夫?」
アネットに声を掛けると小さく頷いたが、その顔は混乱に色を無くしていた。他の二人もそれは同じで、愛人は私と目が合うと驚いたように視線を逸らした。
そんな私達の前で、夫が愛人に手を差し伸べた。
「さあ、リリア。これでやっと本当の家族で暮らせる。……おい、そこの二人を摘み出せ」
ことの最初から部屋にいた使用人に顎をしゃくって指示を出すが……当然誰も従わなかった。この人は最早、我が家の人間ではない。
動かない使用人に焦れたのか、夫が直接こっちに向かってくる。それには反応して使用人が駆け寄ってくる前に、私達と夫の間に立ち塞がったのは愛人だった。
「待ってよ……、ちゃんと説明して……私、全然、判らない」
「リリア、混乱させてすまない。君とあの女が同時期に妊娠したと知ってこの計画を思い付いたんだ。僕たちの子供をあの女に育てさせれば、もし父上が僕を飛び越して孫に跡を継がせると言い出しても、僕たちの身分は当主の親として保障される。アネットの両親として、正式な夫婦と認められるというわけだ」
だから、どうしてそんな超絶理論になるのだろう?
跡取りに据えることは滅多にないが、政略婚の末、愛人の子に貴族籍を与えるため嫡出子と偽って届け出るなど意外と何処の家でもやっている。
血筋どうこうではない、家系図に妻として名前が載っているのが私で、だから私はアネットの母なのだ。
「………何を言ってるの!?」
「リリア?」
「本当に、貴方は、自分が、何を言ってるか判ってるの? リリーベルが私の娘よ? 私が育てた、私達の娘でしょう!?」
「いいや、違う」
即座に真っ直ぐ否定されて、彼女は今一体どんな顔をしているのだろう。
無関係な、寧ろ憎んでいい相手の精神が心配になる程、夫の言葉は無神経だった。
「すぐに信じられないのも無理はない。だが、リリーベルはあの女の産んだ子なんだ。君にあんな女の子供を育てさせたのは悪かったと思っている。出来の悪い娘に苦労している君を見ているのは僕も辛かった。
でももう大丈夫、アネットは君に似てとても優秀で人気者なんだ。リリーベルに勉強もマナーもちっとも身に付かなかったのはこの女の所為だ、君は何も悪くない。君の娘はほら、あんなに立派に美しく育っ……」
「違うって言ってるでしょ!!」
一歩前に踏み出して夫の顔を見上げた愛人は、握った両拳を震わせて言葉を遮った。
「私の娘を馬鹿にしないで!! 何よっ、リリーのことずっとそんな風に思ってたの!? 必死に努力してたのを、ずっと……ずっと……そんな目で……私の娘を、酷い!!
貴方が冷たいって言うリリーに、ずっと言い聞かせてたのよっ。お父様は伯爵家の跡取りで、いつかリリーは伯爵令嬢になるんだから厳しく言うんだって、それなのに……それなのに………………………もしかして、ちゃんと貴族の学校に通わせてほしいってお願いしたのにダメだったのは、奥さんに邪魔されたんじゃなくて、貴方が……」
「ああ、リリーベルが通う必要ないだろう」
さも当然という顔をした夫が吹っ飛んだのは、愛人の拳によるものだった。
殴られふらついた夫は、頬を抑えて床に座り込む。
「馬鹿にして!!」
「リ、リア……」
「ふざけないでっ、この子は私が育てた私の子よ!! どうして我が子の不幸を願うのよ!!」
「リ、リリア、だから、その子は、あの女の、ホントの子は、アネット……」
「煩い!! もういいっ、あんたなんかもういらない!! リリー帰るわよっ」
振り返った愛人がリリーベルに手を差し出す。
でも、娘は固まったまま動かなかった。
「……リリー?」
「ママ……、でも……」
アネットと一緒に蹲ったままのリリーベルは両親の言い争いで暴露された事実に戸惑い怯えて、真っ青な顔で震えていた。大きな目がどんどん潤んでいく。瞬きする度視線は様々な場所を彷徨い、やがて彼女は私を見た。
初めて見つめ合った栗色の目は私に似ているのだろうか?
……判らない。だって私は目さえ開く前にあの子を手放してしまった。
リリーベルと無言で見つめ合って、何か言葉を発する前に、腕の中のアネットが身動いだ。ギュッとスカートを握られる感触がして、アネットへ視線を移す。
「……お、母様」
彼女も私を見ていた。
見慣れた緑色の瞳がみるみる涙の膜に覆われて震える。
その目が余りに頼りなく……。
どうしてだろう、思い出したのは一番最初に彼女を抱いた日のことだった。
「……リリーベルさん、貴族の家で子供の取り換えなんてそんなに簡単に出来ません。アネットが私の娘です」
寄り掛かってくる娘の肩を強く掴んで宣言しても、アネットの身体の強張りは最後まで溶けなかった。
読んで頂きありがとうございました。